438 肉料理:レーヴェ・フロムダール(32)
そうして浮かび上がった、いや、"残った"さいごの顔を瞼の裏にしまってリーリートは顔を上げた。てらてらと照り輝く頬から恐れや後悔が拭い取られている。彼は笑った。心地いい風が吹いている。
『……今の気持ちがどんなに大切なものでも、すぐに忘れてしまうだろう。それは自然なことだ。何も怖がることはないよ……いつか必要な時がくれば、自ずと浮かびあがるのだから』
そして一つの魂が消えた。風に漂うのは、私の中に溢れた喜びを受け止めた笑みだった。そして別離を憂う気持ちが身に沁み、また孤独が忍び寄る。けれどこれほど夜明けが待ち遠しいことはなかった。私の中に何かが一つ芯を通ったような気がした。
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「……彼の言うとおりだった。"いつか必要な時が来れば自ずと浮かぶ"……今だったのね……」
世の一切を憂う暮れ残った闇色の中で、彼の魂の光を鮮明に浮かべることができる。あの日と同じ風が吹き、舞いあがった空気が木立と踊っている。その中に彼らがいるのだろう。
そばにいたレーヴェ・フロムダールは見上げた女性の表情に喜色が満ちるのを目にした。彼女は元より貴やかな人だったが、月光の下で淡く光る花のような慰められない物寂しさを内包していた。だが今、薄闇を脱ぎ捨てて悠然と光っているのは彼女自身だった。何度でも眩暈を伴う昂ぶりを感じる。綺麗な人だ。とても綺麗な人だ。彼女が次に何を告げるのか、気儘に一切をしたがわせる力をもった蠱惑的な瞳が何を実現させるのか知りたい。
「あぁ、私……本当にどうしようもないわ。私を諭そうとして……だからあの記憶を見せてくれたのね。私が自分を顧みないから……どんなに大切な話をしても、長い年節のなかに置いてきてしまうから……みんな私を」
彼女の中に明確に実現しつつある何か―――私にはわからないので、"ある価値の概念"とでも仮称する――が、ふつふつと煮えたぎるあらゆる情感を変換していた。
体は少し緊張し、瞬きが増えて濃厚な思考を醸造していることはわかった。確かな手応えが彼女の枠を緩めて、もう少しすれば翼が生えて神に化身してもおかしくはないだろう。翼は過剰な装飾品ではないが彼女にはとても似合う筈だ。
だがその昂ぶりがぴたりと止まってしまった。潮の匂いが二人の間を抜けても、道筋を失ったかのように全身が真の静寂を迎えている。彼女は一体何に心を奪われたのだろう。虚空を見つめて、身に集めた力を他事に転じようとしている。(一体何に?)――レーヴェには見当がつきかねる。
すると彼女はその瞳に稲妻の如く怖れを走らせて、最早喜色はかけらも残っていない顔でレーヴェを見た。
「……貴方に謝らなくては…」
「どうして…?」
彼女は斜めに顔を背けると、きゅっと唇の端に力を込めた。苦心していることはわかる。反問の表情で待っていると、彼女は気持ちを持ち直して私と正対することを選んだ。
「レーヴェ、貴方がかけてくれた多くの言葉を、私の命そのものに注ぐことなく流したことを謝りたい。ごめんなさい。私は残酷で薄情だったわ。自分を支える力を持たないあまりに、貴方が向けてくれた情を消費するだけして捨てた。貴方はやさしいから、それでも満足と言うのでしょう。でも私は省みたい。私は貴方を腕に抱いて、自分の悲しみを癒すために何もかも簒奪しようとした。引け目も覚えずに。それはとても下劣なことだわ」
弁明も差し挟ませずに言い切った彼女は、仕上げに「ごめんなさい」ともう一度言った。そしてそれきり黙った。断罪を待っているのだろうか。それとも更に付け加えようとしているのだろうか。
だが申し訳ないがレーヴェは笑うのを少し我慢したくらいだった。自分が全く傷ついていない事柄に誠心誠意謝罪されるということは認識が双方で相違していることを表している。レーヴェは全く傷ついていない。何故ならば自分の言葉にそこまでの効力がないことを知っているからだ。けれど彼女は違うのだろう。
そこでレーヴェは気づいた。
(境界が曖昧なんだ…)
彼女の主眼は謝罪ではなく、心の整理にあるのだ。彼女が自身を許せず、まして過ちを"過ぎたこと"だと割り切ることもできず、決着をつけたいだけなのだ。長く考え込んだにしてはそのことに考えが及んでいないのはどうしてだろう。それとも言わずにはいられないのか。レーヴェはどう答えようか考えながら、気弱な自分に耐えている人にほんのりと微笑む。
「貴方はとても率直ですね」
「……私は悔いるべきだわ。望み通りの結果にしたくて一方的になっていることもわかっている。素直であることが正しいこととは限らないことも」
あぁ、と頷く。




