表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

437/526

437 肉料理:レーヴェ・フロムダール(31)

『私は麻袋の中で私を殴打する人の声を聴いていた。地面をのたうちまわるせいで音が定かではないが、おおよそ見当がつく。怒りが向けられているだろうと私は先んじて怒りを発した。忌まわしい種に対する憎しみの言葉が降ってくると思ったのだ。だが、予測は外れた。聴こえてきたのは微塵の暗さもない喜々とした声だった。私ひとりの怒りなど圧倒してしまうほどの活き活きとした脈動だった。ある臆病な少年が数名の声に押されて私を殴打しにやってきた。最初こそ弱弱しいものだったが、歓声に後押しされて彼は私の骨を折り、人としての尊厳を奪った。ふふっ、元から持ち得ていたかはわからんが……彼らは事を成し遂げた少年を勇士として褒め称えた。臆病であっても勇気を買うことのできるものは勇士だ。彼は私から尊厳を奪い、人として大成したのだろう。よくやった、という声に強烈な喜びを与えられていた……私はその時、愛の外側に押し出されたことを理解した。私は彼らの世界に属してはいなかった、あるいは存在すらしていなかったのだ。心の奥がすっと冷たくなった。なぜこんなにも声をあげて叫んでいるのか、原点に行き当たった。生きたいからだ。己から死を選んでおいて、何故生きたいのか、……妻の顔が浮かんだ。布切れを無心で縫う華奢な体。おぼつかない手。彼女は愛の形をしていた………』


リーリートはたまらず体を折り曲げた。顔を覆い、声をあげて涙をこぼした。鼻のそばを通り、手のひらにうつった涙は、ひとりの女の心が想像もしない力で砕かれたことを表していた。

波がざわざわと乱れる。慰めようと辻風が舞い上がる。


『悲しまないでくれ……とは勝手な話だが本心だ。もう怖ろしさも恨みもない。謎めいたものはひとつとしてないのだ』


だから泣くなと言うのか。リーリートは何も納得できなかった。

肉体をもち、精神をもった人と人がぶつかりあった。彼らはこんな事でもなければ疎遠なままだったろう。彼は家族と暮らし、孫の成長を見守っていく未来が約されていたはずだ。

一方で、未成熟な少年もまた未来が約されていなければならない。周囲に応援され、麻袋を殴打したことは臆病ながら勇気を振り絞った行動であると見做されている。

自分の命と他者の命を完全に分化し、とりわけゾアルだけが災いと不運の象徴として共通の認識を得てしまっている。


「私たちは蛮族だわ…! 道徳的な区別さえつけられない…!! 野蛮な生き物よ……」


こんな迷信の存在が許されるのは、教会が与え、保証する掟が世の中を成り立たせているからだ。

人々はおのずと教義に従う事を強いられる。死という病を遠ざける為に、教職者の思慮分別を守ろうとするからだ。リーリートの頭の中に様々なことが浮かび、一点に集中した。だが魂は全く別の事を言った。


『ようやくわかった……貴方は人だ』


何も言いたくなかった。己を、世を、難じる言葉しか吐きたくなかった。


『使者よ。そんな風に泣いてはいけない。これは私の情感なのだ……私の真実、私だけの苦痛だ』

「でも……涙が出てしまう……出てしまうの」

『無駄な同調だ。自分自身と全体を区別することを学ぶべきだ。貴方は誰かと口論になると傷ついて終わることがよくあるだろう。辿り着こうとした理想が否定されると、長く痛ましい努力が否定されたと感じてしまうのだろう』

「………………」

『そんな風に他人の悲しみを背負っていては疲弊して貴方自身が砕ける時が来る。それは共感ではなく浪費だ。他人は貴方を救う事はできない。貴方の内側で起こっていることは、貴方自身にしか見えず、変えることはできないからだ。貴方はそうした疲れが蓄積していることに気づいている。だが変えようとしていない。傷つくほど世を憎いと思いながら、共感することで終わりだ。人の事を考える前にすべきことがあるだろう?』

「………………」

『涙を流し終えたらでいい。待っている』

「………私はどうしたらいいの…?」

『良い一歩だ。まずそうして質問する事が大事だ。私は自己完結をし過ぎた。これは私の生涯をかけて絞り出した答えだが、ぼんやりと認識することだ。私や他の誰か、私の娘や家族、惨たらしい儀式に参加した者たち、村にやってきた兵士……そうした名もなき役務者たちの事を細かくみるのではなく、ぼんやりと捉えるのだ。私は私しか動かせない。私は私しか説得できない。貴方もそうだ。私たちが生涯をかけて学ぶことができる知はわずかだ。抱えることのできる愛もわずかだ。だから特別なのだ』


胸に渦巻く生々しい感情が、脳裏にこれまで関わった人たちの顔を蘇らせていた。

私はすべてを愛おしく、等しく愛さなければ不誠実だと思っていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ