435 肉料理:レーヴェ・フロムダール(29)
ただ私は高い空を見上げていた。心はまったく別の所にあったが、この光景を美しいと思う心もまた真実だった。彼の魂は行動に対する報いを得て、万感胸に迫って涙している。喜びだけではなく、解放や、苦しみもあるだろう。私は彼の涙を聴いている。一つ一つ心情を箇条書きにするような語らいを聴いている。
(もし最期が許されるなら、あんな風に泣きたいな……)
許しを――誰に請えばいいだろう。私を作りあげている"定め"はいずれ転じることがあるのだろうか――わからない。何も。誰にも…
私がしたことはここに至るまで彼の手を少し引いただけで、かねがね彼を愛していたのは樹々や風の方なのだ。あんなにも頑強に、無表情に死を受け入れていた男が泣くことに専念する姿は、感じた事のない弱さで溢れていた。内奥をさらけだす時、人はあまりに無防備になる。彼はいま誰よりも幼く、裏表のない清らな魂をさらけだしていた。
そして同時にこうも思う。心の中にためこんだ情感は、やはり他者には察する事ができず、弾けたあとにしてあげられることは何ひとつないのだと。
私はあまりに無力だ。その事実は私に傷をつけはしない。だか誰かの為に役立とうとしても努めるばかりで実になりはしないのだ。
私は私の中を覗き込む。触れる事を待ち受けている感情は自嘲以外にない。だがその奥にきっとあるはずなのだ――
大きく息を吐いて空を見上げると、あることに気がついた。雲一つなかった青空に薄い雲が流れ込んできている。風や海、大地は生死を変転する命をあまねく包括するものだ。無数の魂が漂い、風に乗って運ばれていく。海はこれから一人の男の命を抱きしめるだろう。生命の循環はどんな時も変わらずに繰り返している。それは私や彼と何ら変わりがないということだ。
私が終わりと始まりに思いを馳せても、魂が滂沱の涙を流しても世界はただ流れゆく。魂を記録も、分類もしない。魂も風も雲も海も、流れ、揮発し、薄れ、循環していくものなのだ。
生涯をかけた涙が散っていく。その微かな光の粒は彼の放心と満足から、清浄さと透明度の合一を果たしている。
嗚咽が小さくなって、鼻を啜る音が二度聞こえた。彼はしゃがれた声で『あの子たちは……』とだけいって、また咳払いをした。私は離合した感情を集める彼をゆるりと待ち、魂となっても器の癖を再現してしまうところに妙なあたたかさを感じていた。
『すまない…みっともないところを見せてしまった。だが、肩の荷が下りた気分だ。あの子たちが無事で居るなら、それでいい』
「えぇ……娘さんもお子さんも風が守ると言っているわ。樹々が少しでも長く村を隠すと言っている。たとえ短い抵抗だとしても、それが貴方への報いであるから…………とても愛していたのね。彼らはとても喜んでいるわ」
風たちは彼の魂とともになれることを喜んでいた。だが正直にはとても告げられなかった。
鼻にかける声を整えると小さな魂は私の前に飛んできた。端から少しずつ身がとけて、大気にほどけていくのだ。残された時間の短さに気づいているだろうか。彼は頑ななまでに私の前から動かなかった。
『教えてくれ。貴方は神ではないのなら、死の死者、あるいは死そのものか』
堅い声が響く。どくんと鼓動が跳ねて、私から最も遠い「死」という言葉は、それと知らず私の胸を刺し貫いた。
何も言えないでいることが肯定であり、否定でもあった。私は連続する生の塊であり、同時に死も帯同している。物の形として不死者と名乗るには私は私に対して不案内だった。意識が断絶し、再び器に戻るまでのあいだを死と定義するのなら、私は死を味方につけ眺望していることになる。
(…………だめね。何もかも言葉にしようとするのは悪い癖だわ)
私は簡潔に「いいえ」と答えた。それが正しいかはわからない。
沈黙が返る。何か気に障ったかと、ふと魂を見やれば、いつの間にか首を深く折り、俯いていたことに気づく。後ろめたいのだ。追及されたくないのだ。態度に現れる卑しい体を嫌悪するが、彼の魂の色は想像とは異なる色を放った。蔑みも侮蔑の念も混じっていなかった。
それどころか彼は私を見ていた。私の意識が思考の海から戻ってくるまで辛抱強く口を噤んでいた。私は直感でそのことに気づいた。内側へと封じ込めようとする自我を、外縁からやさしく眺望されていたのだ。急に面映ゆく、きゅっと唇をすぼめてしまう。




