434 肉料理:レーヴェ・フロムダール(28)
両者に斜線を引き、区別してしまうのは"教義"だ。教会は世に吐きだされた情報を、常に正しくある責任と、また過ちを正す柔軟性を同時に持っていなければならないのに、それを怠っている。
幼少期から教え込まれる教会の教義は、個人の境界を構成する主たる情報群となるものだ。共通の規律として流布されたものが間違っていても、平然と正当であるという顔をされている今、教会を変革していかねばならない。
ゾアルだけが死を宿命づけられているのではない、あらゆる種族がいつかは死ぬ。その長短を他者に選定されることがあってはならないのだ。
(私もいつか、いつか必ず死にたい……それまで、守らなくては……あまねく総てのこれからを……)
私は私すら変えることはできない。殺されてばかりで既に生きた心地すらない身では、何かをやり切ることはできない――ただ背中を一押しすることはできる。
――どぷん、沖に一つ魂が落着した。ゾアルの魂がまた一つ海に還ろうとしている。これはリーリートの背中を押す音といえるだろう。進む先が悲劇か喜劇かは定かではない。心のひだを裂くほどに苦しく、胸を刺し貫くものだったとしても、聞き逃すことができない音だった。
リーリートはその音をこれまで幾度も耳にしてきた。だが今は一人の老人の事を思い浮かべる。苦悩の記憶に向き合わねばならないとしても、息を詰め、瞼を閉じた。
――どぷん、飛沫があがる。港湾に詰めかけた民衆は贄を投じた白波に花を投げ入れて退魔を祝っている。
麻袋ごと海に落とされた老人は既に事切れていた。高所から始終を眺めていたリーリートは理力の淡い光で構成された体を飛ばし、海中に潜りこむと麻袋から分離した魂を抱いた。
肉体から離れた丸い魂はすぐに意識を取り戻し、警戒した口調で言うのであった。
『――――あなたは、神か?』
「……いいえ」
『ならば夜明けの鶏鳴か。ここは余りに薄暗い――神でないのなら、何の用だ』
「貴方が何をすべきか知っていたように、私もすべきことをしに来たの。貴方のご家族のことを教えるために」
余程驚いたらしく、自らを圧倒するように震えた魂は私の胸腔にぶつかって、たえず動く海流に乗って、ことごとく離れていった。海は来訪者に喜び、歌を奏で始める。私は何の困難も感じずに並走すると、怒鳴り声が泡の雨となって降り注いだ。
「大丈夫、大丈夫よ。貴方のお嬢さんは無事よ」
『――!! ――!! ―――!?!』
「ふふ、元気な男の子と女の子が産まれたわ。おめでとう」
『なんと!!』
兵士に囲まれ、一人の男性が自らの命と他者の安全を引き換えにした日。うずくまる村民の中に膨らんだお腹を隠す女性がいた。彼女はすでに妊娠後期で予定日を迎えようとしていた。周囲は言葉少なに頷きあうと、自らの体で兵士たちの視界から女性の腹を隠した。
ゾアルたちは集落という形を成して生活をしていたが、周囲は獣が跋扈し、作物は荒らされ、理力を持たない彼らは定期的にヴァンダールからの理不尽な要求と引き換えに食料などの生活物資を得なければ立ち行かなくなっていた。家畜同様の生活を強いられているのだから妊娠自体を歓迎しない声も当然あがった。非難するような視線も実際に浅慮を窘める声もあった。
そうした指摘には理由があった。以前出産した娘がいたが、やってきた司祭風の男が「死滅の中に生まれる蘇生、良い題材ですね」と言って母子共々を連れ去った。顔面に張り付けたような"わざとらしい笑顔"を見せる司祭風の男は次に来たときにはこんな事を言った。
「母体ともども生きていますよ。酔客はああした見せ物を好みますから、じきに次子を孕むでしょう」
激昂した伴侶は男を絞殺しにかかった。だが終わってみればゾアルの死体がひとつ転がっただけだった。こんな無情の寒々とした世界に命を迎える事はあまりに悲惨なことだ。なにからなにまで褒められたことではない。
だが父だけは娘の妊娠を喜び、楽しみでならぬと言った。彼は身重の娘をなんとしても隠し通さねばならなかった。一日でも長く生き、家族として愛に満ちた日々を送っていてほしかった。つねづね女子供のために命を投げ出すのが男の仕事だと言っていた彼は、最期の瞬間までその仕事に全身全霊を賭していた。
『あの子はやり遂げたのか……』
「海流の声に耳を傾けて。空へ行こうって、貴方を呼んでいる」
『なにを…』
魂は急速に流れに乗り、飛沫といっしょに青空の下に押し出された。目が眩むほどの陽射しが雲一つない空から注がれている。そこへヴァンダールの森より走って来た風が彼を包んだ。清水が流れるように左右に分かれ、そして後方で再びひとつとなった風は、彼に「赤子の初めての泣き声」を聴かせた。力強く、生を押しつける声が私たちを包んだ。彼に届くはずの無かった産声が、彼を抱きしめている。そこに言葉など必要なかった。




