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マガイモノ〈未改訂版〉  作者: 海陽
マガイモノ
42/60

初めての恐怖 side.影人

五月になった。


俺達が、框矢の弱点克服の為にダイルを頼ってから八ヶ月。鮫島さんと周价に協力してもらった甲斐もあって、弱点は見事無くなったんだ。


鮫島さん達は早く帰るべき場所があるから、帰ってもらった。


けれど、俺と框矢は未だにダイルの元に留まっている。まあ、便利屋は顧客に暫く休業します、と伝えてあるから問題は無いんだけど。


あまり嘘は吐いたら良くないんだけど、身内の不幸、としておいた。一番納得してくれそうな理由だったしな。




***************




「ふん、腕は鈍って無いようだな。ちゃんと研がれとる」


瀧宗や村雨の刀身を調べ、ダイルが頷いた。


「まあな。……瀧宗が煩いんだよ、研けって」


「何?瀧宗がか?」


時々だけどな、と答える框矢の隣に腰を降ろすと、小さく笑ったのが見えた。


「ダイルの言った通りだったよ。心があるんだ、こいつにはさ。SPの時に、瀧宗で対峙した奴らがいたんだけどさ?

こいつが何だか疼いてる感じがしたんだ。“早く抜刀してくれ”って言ってるみたいに」


SPの時に対峙した奴らと言われたら、鍵重長官を狙った過激派しかいない。



そう言えば、瀧宗に心が宿ったって言ってたような、無いような……?



「あいつと対峙する時とか、周价の抗争の助っ人に行った時とか。多数を相手に倒すって決めて向かった時は、何と無く嬉しそうって言うか、威力が増すって言うか……。

瀧宗は元々軽いけどさ、身体一つで動いてるってくらいに、重さを感じない。でも納刀したら重さは感じるんだ。軽く振るだけで、相手に致命傷を負わせたことも結構ある」


框矢はダイルから返って来た瀧宗を眺め、あ!そう言えば、と思い付いた様にダイルを見た。


「こいつさ、起きろ、って声掛けてやって、鞘を鯉口から鐺に向けて手を滑らせると鞘を消すんだ」


煙になってさ、と付け足す彼の言葉に、思わず瀧宗をまじまじと眺めた。



鞘が消える?そんな馬鹿な。



「もちろん普通に、手で抜刀する事も出来るんだけどな。……俺の本気がどれくらいのもんなのか見抜いて、力の加減をしてる気がするんだ。

で、使わない時は寝てるらしい」


……はい?!ね、寝てる、って何だそりゃ!



目を瞬かせる俺の向かい側で、ダイルも面喰らったように目を丸くする。


「寝てるだと?どういう意味だ、それは」


「そのままさ。人間が熟睡してる時みたいに、なんの反応も示さない。だけどひと月に一度も研かなかったりすると、目を覚まして騒ぐって言うか……。

喜怒哀楽って言うの?瀧宗に触れると分かるんだよ、何と無くだけど。ああ嬉しいのか、とか今怒ってんな、とか」


まあ、毎日瀧宗に触るから分かるんだろうけどな、と溜息に似た吐息を吐いた。


「で、鞘を消す事が出来るって、さっき言ったろ?対峙後、事が済んだら勝手に納刀しちまうんだ。

お陰で鞘を失くす事は無くて、助かってる」


「……」


もう一度、俺は瀧宗をまじまじと見つめてしまった。


だって、どう見ても普通の日本刀にしか見えないんだぜ?そんな喜怒哀楽がある刀なんて、見た事も聞いた事も無い。


だけどダイルは、最初の驚きが去るとふーん、と興味深げに瀧宗を眺めていて。


「余程お前とは相性が良かったんだな、瀧宗は。その妖刀が扱えるのは、この先もお前だけだろうよ」


「妖刀って……」


「それを妖刀と呼ばずに、どの刀を妖刀と言うんだ」


框矢の呆れ声に、ダイルは正論だろう、と言わんばかりに答える。


その後、今度は俺の叢雨を取り上げて眺めると、今度は雷が落ちた。


一度も研いて無い事が直ぐバレてしまい、こっ酷く説教されてしまったんだ。



自分で研げないなら、框矢に頼む事は考えなかったのか、って。



フォローしようとした框矢まで巻き添えを喰らい、二人して正座させられた。



だけど、こんな説教ですら何だか嬉しくて。


ダイルは、親も親戚も居ない俺達の親代わりみたいなものだから。


並んで二人で正座しながら、小さく笑みが漏れてしまう。框矢を見れば、彼の口元にも僅かに笑みが浮かんでいた。



そうやって、神経を緩められる穏やかな時間を過ごしていたある日。


ダイルが出掛けてみるか、と言い出した。



住所を知られたく無い、って常日頃から言っていたのに珍しいな。


「珍しいよな、ダイルが出掛けるって言い出すの」


「そうだな。気まぐれかね」


框矢とそんな事を話していたら、ダイルがにゅっとそばに現れた。


「何だ、儂が言い出したらおかしいか?」


「うわっ!!?」


びびる俺の横で、框矢と言えばダイルに目をやっていて。


「だってさ、昔から居場所は知られたく無い、って自分で言ってたじゃねえか。外出なんかしたら、バレる可能性が高くなるだろ」


「まあな。ま、たまにはそういう気分になる事もあるさ」


「ふーん?」


じゃあ行くか、とダイルに連れられ、乗ったのは新幹線。


俺と框矢は行き先も知らないまま、県を跨ぎ踏んだ土地。そこは、長野県だった。


「どこ行くんだよ、長野まで来て」


「行けば分かる」


ふっと笑って先を行くダイルに、慌てて付いて行く。


そしたら、市内バスや電車を乗り換え、どんどん山へ入って行ったんだ。


「ここからは歩きだ。一時間か二時間程だな」


バスを降りると、そう言って先を行ってしまう。


「なあ、そろそろ教えてくれたって良いだろ?どこ行くんだよ」



全然教えてくれねえんだもんなー。いい加減気になるっつうの。


何度目になるか分からない、俺の質問。


チラッと俺を見ると、歩みを止めず一言。


「儂の、数少ない古くからの友人の所だ。日本人のな……」


「随分と山奥に住んでるんだな」


框矢の声には、そうだな、と答える。


「だが、知る人ぞ知る名店の店主だ。あの男の料理は絶品でな、予約が絶えんと聞く。日に十人と制限しとるが、今日は定休日だそうだ」


「へぇ」


他愛も無い会話を時々しながら、山路を行き、青々と葉が茂る、晩春の中を進んだ先。



そこには一軒のコテージと、そのテラスに立つ中年期位の男が待っていたんだ。


「悪いなぁ、折角の休みをいきなり押し掛けて」


「いえいえ、久し振りにお会い出来て嬉しいです。ダイルさん」



アポ無しかよっ!



思わず突っ込みそうになったけど、そこは何とか耐えた。


「さぁどうぞ」


にこやかに笑い、中へ案内してくれる男に付いて行く。


「フルコースでお出ししますので、遠慮無く食べて行って下さいね」


料金の事も、突然やって来た事に対する文句も言わず、厨房へと消えた彼。


暫く待つ事十分程、前菜から始まるフルコースが出て来たんだ。


「美味い……っ」


「やばい、いくらでもいけそう」


舌鼓を打ちながら旬の野菜がふんだんに使われたフルコースを食べ進んでいると、厨房から徐に出て来た。


「どうでしょう、お楽しみ頂けていますか?」


「はい!凄く美味いです」


正直に言えば、嬉しそうに微笑む。そして框矢に目線を移して言った言葉に、俺どころか框矢も目を丸くした。


「あなたが框矢君ですか。立派に成長されたんですね」


「?!」


フォークを握り締めたまま、瞬きを繰り返す框矢。隣のダイルは小さく笑っていた。


「昔、お前にやった服と靴を憶えとるか」


「……あ?あぁ」


「あれらは、彼に見繕ってもらった物だ。彼の知り合いには仕立屋が居るんでな」


框矢はえ?と、更に驚いた様子を見せたけど、直ぐに落ち着いてシェフの彼を見ると頭を下げたんだ。


「あの服は、本当に助かりました。ダイルに貰ってから、三年程で着られなくなってしまいましたが、とても着心地が良かったです。ありがとうございました」


そんな框矢に、お役に立てて何よりです、と穏やかに微笑み、シェフはまた厨房へと戻って行った。


フルコースを堪能し、別れ際にダイルがシェフに何かを手渡した。


「もし良ければ使ってやってくれ」


それは、綺麗に研かれた包丁と砥ぎ石。何か分かった途端、彼の顔が嬉しそうに綻んだ。


「あなたの研いだ包丁を頂けるなんて、料理人としてこんなに嬉しい事はないです。

大事に使わせてもらいます」


テラスから見送られ、帰路に着いて暫く経った頃。



まだ料理の余韻に浸っていた俺達の前に、また現れたのは、あいつだった。


「……」


あんなに素晴らしかった料理の余韻は、あっという間に消え去ってしまった。


見たくも無い、あいつ……ダナニスのせいで。


「こんにちは。迎えに来ましたよ、框矢」


嫌な笑顔を表面に貼り付け、多勢の部下を引き連れて。


「……三、四十程か」


ボソッと聞こえた框矢の声。確かにざっと数えればそれ位の人数が居る。



「僕は何度、君を手に入れる為に動かなければいけないのでしょうね?框矢」


「知るかよ」


框矢の、舌打ちと共に吐き捨てた声に、あいつの部下が騒ぎ出す。


「大人しく僕の下に入れば、こんなに何度も対峙せずとも済むのですが……仕方ありませんね」



一体今度は何をして来る?



多勢で押し掛けた次は、特殊弾で框矢を追い詰めたあいつは、何を持ち出してくる……?


思考を巡らせ、あいつが出して来る手を予測しようとする。それは框矢も同じだったらしい。



そして、またロケットランチャーを向けて来たあいつらに框矢が構えた


次の瞬間。


襲われたのは、俺では無く、框矢でも無く。



ダイルだった。



「「!!!」」



「手荒にしてはいけませんよ。丁重に捕らえていて下さい」


「はい、ダナニス様」



何で気付かなかった?!



どうして分からなかったんだっ。あれは、フェイクだったのに!


あのロケットランチャーには、弾は込められて無かったのに……ッ。


歯を噛み締め、悔しがっても遅い。


「ダイル!」


框矢の声にハッとして、あいつを睨む。


「余程大事な人間なんですね、彼は」



薄ら笑いを浮かべ、ダナニスが発した言葉。



「彼を返して欲しいなら、僕の軍門に下りなさい。そうすれば、彼の身の安全、そして君の隣に居る彼の安全も保障しましょう」



聞いた刹那、何処かでピキッとひびが入った音が聞こえた気がした。


ギリ……ッと歯軋りの音に、隣を見やると框矢の様子が少しおかしくて。


小刻みに震え、瀧宗以外の荷物を全て地面に落とし、その鋭い視線にあいつ一人を捉えていた。


「き、框矢?」


「影人。暫く目を閉じてろ。俺が、良いと言うまで……身動きするなよ」


必死に、暴れ出しそうなものを抑え付けてるような声。


「あ、あぁ」


俺は、そう返事する事しか出来なくて、彼の荷物のすぐ隣に腰を降ろした。



と言うか、腰が抜けたが正しい気が、する。


框矢が瞬間的に放った殺気が、余りに鋭過ぎて。


俺が目を固く閉じた直後から、否応無しに耳に突き刺さる。



声にならない悲鳴や、何かを切り裂く音、削る音、飛び散る……鈍い音が。


少し経って、何の物音もしなくなっても、框矢からの声掛けが無い。


「……?」


目を開けても良いのか、それともダメなのか。


様子のおかしい框矢は見たくないし、あの殺気を放った彼の姿が瞼の裏から離れない。


だけど。

現状がどうなっているのか、それが恐怖より勝ってしまったんだ。


そうした事に、後悔するとも知らずに。




開眼一番に飛び込んで来たのは、血塗れの、太陽光を冷たく反射する瀧宗。



仁王立ちの、框矢の後ろ姿。



石像の様に動かなくても、怒りだけは伝わって来る。


恐る恐る周りを見渡せば、もう、人では無くなった物体があちらこちらに散らばっていた。


散々たる何かの肉片、血に濡れた土や雑草。


目にした瞬間、強烈に吐き気に襲われた。


これを直視出来て平常で居られるなんて、おかしいよ。絶対におかしい。


だけどそれを声に出す勇気は無い。


ピン、と張り詰めた空気に混じる、框矢の怒りイラつきが痛い。


声を出したら、その矛先が俺に向く様な気がして。



この酷い状況で唯一の救いは、今居るこの場所が人里から離れた山道だってこと。


この道を戻ればあのシェフのコテージがあるけれど、この道を来る人間なんて滅多に居ないはずだ。


定休日の今日は、尚更。


「……あぁ、やはり皆倒されてしまいましたか」


いけませんね、とこれ見よがしに溜息を吐いたダナニスが、ダイルへと目を落とす。


ダイルと言えば、後ろ手に縛られて居るはずなのに、落ち着いてる様にしか見えない。


スッとダイルに一歩近付いた、ダナニスから聞こえて来たのは。



「危害を加えられたくなければ、僕の下に来なさい。框矢、君にとって、彼は大事な師なのでしょう?」


ダイルの首筋にナイフが当てられ、それを目にした瞬間。



「影人、耳を塞げ!」



ダイルの叱咤に似た、有無を言わせない言葉が飛んで来た。


反射的に耳を塞いだ、刹那。



近くで爆発でも起きたのかと錯覚する程の、ビリビリとしたものが俺を襲った。



けれど、耳を劈く様な怒声や叫声が聞こえたわけじゃない。



まるで音波の暴風が、身体に押し寄せたような、そんな感覚。



その波に煽られて、辺り一帯の樹々がざわめき……鳥が一斉に羽ばたき去って行く。


ダナニスの手からは、ナイフが零れ落ちた。



その発生元が框矢だって事に気付くのは、そう長くは掛からなかった。



ーー絶対王者の、咆哮。



それも、これ以上は無い程の怒りと威嚇を含んだ。



まるで……耳元で百獣の王、ライオンに吼えられたのかと錯覚した。


でもライオンなんか比にもならない、恐ろしい叫び。



完全に腰が抜け、動けないまま框矢を見たけど、直後、瀧宗に目が吸い寄せられた。



オーラを纏ったかの様な、煙に似て非なるものを纏ったそれは、正に妖刀と言うに相応しくて。


こんな框矢も瀧宗も、一度も見たことが無い。



框矢の激昂に、瀧宗が応えてるみたいだった。


「お、前……ッ」


激情に掠れた、框矢の声が耳に届いたと思った瞬きの一瞬には、俺の前から彼は消えて居た。


「!」



地面に倒れる音と同時に、仰向けに倒れたダナニスの上に框矢がのし掛かる。



膝で腹部を押さえつけるのが見え、


少しでも身動きすれば首が出血する様に、首筋に瀧宗を添わせ動きを止める。


そこに、慈悲なんてものは微塵も無くて。



その横で、ダイルが自由になった手を摩りながら二人を見て居たんだ。


「……言ったよな?

俺は忠告したはずだ。次に何かすれば、容赦はしないと。

なあ?ダナニス・青馬衣」


芯から震えさせる、凍り付いた言葉の槍。


框矢が、あいつの名前をフルネームで呼ぶなんて初めてだ。でもそれが……一度も呼んだ事が無いからこそ、尚更恐ろしい。


ダナニス・青馬衣。



その短い名前に、怒り、嫌悪、失望……あいつに対する感情が全て込められていたから。



それが、框矢の顔を見なくてもはっきり解ったから。



「……っ」


首筋に更に鎬が押し当てられたのが見え、あいつが息を飲んだ。


「な、何故、自由に動ける……?!」


それはダイルを指して出たんだろうと思う。確かにダイルは、後ろ手に縛られて居たはずなんだから。



「余所見をするな。お前の相手は俺だ」



氷点下の框矢の声に、あいつが苦しがる呼吸音が混ざる。


腹に体重を掛けていた膝が、いつの間にか鳩尾へと移動していた。



このままじゃ、あいつは確実に死ぬ。それも框矢の手によって。



こんなにも我を忘れ、ブチ切れた姿は見た事が無い。


やめさせたい、框矢にそんな事をさせたく無い。もしあいつを殺ってしまう事にでもなれば、框矢は犯罪者として、日本には居られなくなってしまう。


どうすればいい?

どうすれば、上手く収まる……?


考えても、良い案は浮かばない。


「お前の面の皮を剥ぎ、喉を潰してやろうか?二度と人として生きられぬように」


框矢が瀧宗を顎へと滑らせ、あいつの顔を覗き込む様に顔を近付ける。



「今ここで、その首刎ねてやろうか」



その声を聞いた瞬間、全身鳥肌が立った。



今、あいつにのし掛かって居るのは框矢だ。だけど、違うと本能が叫んだ。



あれは、框矢の皮を被ったモノ。本人じゃ無い別の何かだ、って。



「……やめろ、框矢」



静まり返った空間に、ダイルの声が染み渡った。


「ダナニスとやら。あんな緩い縛り方じゃ、縛っていないのと同じだ。内戦を生きてきた人間を、舐めてもらっては困る」



溜息を一つ。そしてもう一度框矢へ目を向けると、穏やかに言った。



「儂は無傷だ。……瀧宗を仕舞え、框矢」


顎に瀧宗を押し付けたまま、身動きしない框矢に、諭す様に更に口を次ぐ。


「ここでお前がこやつを殺したら、誰がこの惨状を始末するんだ。こんな事になったのは、全てこやつの所為だろうが。原因を作った奴が、始末を付けるのが筋と言うものだ」


「……」



それでも少しの間、框矢は動きを見せなかった。けれど、渋々と言った様子で瀧宗を鞘に仕舞った。



「……感謝するんだな。次は無いぞ」



低い、剥き出しの敵意を無理矢理抑えた言葉を投げ捨て、身体を起こす。



「この山中で、この惨状が見つかれば大騒ぎになる。……言っている意味は分かるな?」


框矢という重しが無くなっても、動けずにいるあいつに、ダイルの言葉が降る。


上下共に漆黒の服を着ているのが幸いして、框矢の服に付いた返り血が他人にバレることは無かった。


だけど。


電車車両の隅、壁に凭れて一言も発しない框矢に、俺は離れた所からただ見ていることしか出来なくて。


その顔はいつもの物静かなものでも、車窓を眺める眼は酷く体力を消耗した様に、虚ろだったから。


「……そっとしておいてやれ。あれ程に激昂し我を忘れたのは、框矢自身初めてだったんだろう」


ダイルの言葉に彼に目線を移す。俺の隣で框矢を見ながらも、その眼は親が子を見守る様な、穏やかなものだった。


見たことも無い框矢と瀧宗の姿が脳裏に焼き付いて、ダイルと別れてからも、俺は暫く框矢と話す事が出来なかったんだ。



“いつもの框矢も、我を忘れてダナニスを殺しそうになった、あの框矢も。

お前が良く知る、親友の框矢には違いない。受け入れてやれ。じゃないと、あいつは本当に独りになってしまうのだから”



そう、ダイルは言ったけど。

受け入れるには、やっぱり数日掛かった。


框矢もあの虚ろな眼のまま、何をするでも無く過ごして居て。瀧宗を研くわけでは無く、俺に話し掛けてくるわけでも無い。


まるで抜け殻。近くに飯を置いても食べる事もしない。と言うか、飯が置いてある事すら、きっと気付いてない。



「……」



寝てる所も、この数日見ていない。


数日経って、俺は漸く気持ちの整理がと言うのか、框矢への恐怖が薄れた。


けれど框矢は抜け殻状態のまま、戻って来ない。



そんなにもあの咆哮は、あいつへの怒りは、体力をすり減らしたのか。



飯も食べない程に。


彼への恐怖が、漸く落ち着いた頃。俺はあの日から初めて、框矢に声を掛けた。


「……框矢」


「……」


無反応。

意を決して呼んだのに。


どんな眼で俺を見るのかと、怖い気持ちを奮い立たせて呼んだのに、拍子抜けしてしまう。


「框矢」


さっきより強めに呼んでみる。それでも框矢は無反応なまま。


「框矢!」


「……」



ああ、もう。何か無性に腹が立ってきた。こっちはお前への恐怖を、漸く取っ払ったのに。



「框矢っ!!」


「……何だ」


半ば悲鳴に近い声を上げれば、やっと反応が返って来た。


「何だ、じゃねえよ!何度も呼んでんのに」


「……ああ。悪かった」


歯切れの悪い、呟きに似た返事。ソファの背もたれに横向きに肩で凭れたまま、薄く一度だけ瞬きした。


その“悪かった”は、一体何に対してのものなんだよ。


なあ、框矢。


動くのも怠そうな框矢に、ため息が漏れる。


「腹は?」


「……微妙」


「少しは寝てんの?」


「さあ……」


何か聞いてもどっちつかずな答えばかり。


焦点の定まらない、虚ろさは消えたものの、俺を見るその眼には活力のかの字も無い。



あの一件で体力を消耗した上に、飯も睡眠もまともに取って無いんだ。まあ当然っちゃ、当然なのかもしれねえけどさ?



こんなつまらないやり取りがずっと続くなんて、あってたまるか。


ふん、と鼻息一つ落とし、框矢に背を向ける。そして冷蔵庫を物色し、米や野菜を取り出しに掛かった。




「……まさかお前から、また声を掛けてくれるとは思わなかった」




ガサガサと庫内を物色する音の中でも、その言葉ははっきりと聞こえた。


パッと框矢を見れば、弱く笑っていて。


「大した度胸してるよな……影人は」


「情報屋してっからな。伊達に裏側と絡んできた訳じゃねえよ」


ニヤッと笑い返して、庫内の物色を再開する。


本当を言えば、情報屋で積み上げてきた度胸なんて脆く崩れ去るくらい、框矢のあの威嚇と行動は恐ろしかった。


それでも。それ以上に恐ろしかったのは、その事で框矢が俺のそばから去ってしまうことだったんだ。


手早くチャーハンを作り、皿にてんこ盛りにして框矢の前に差し出す。


「ん」


「……」


「食えよ。無理矢理にでも食べなきゃ、倒れるぞ」


「……こんなに食えるかよ」


「いーから食え!」


呆れの入った困り顔で笑う彼に、チャーハンの皿を押し付けた……のだけど。



皿を渡した時、框矢の手に違和感を感じてもう一度皿を取り上げた。


「……何だよ。食えって言ったの、お前だろ」


怪訝そうな表情の框矢を無視し、彼の左手を掴む。


「框矢、これ……どうしたんだよ?」


中指の爪が剥がれ、血塗れのまま固まっていたんだ。見てるだけで痛い程に痛々しいのに、框矢は俺が指摘して初めて気付いたみたいだった。


「……ああ。もしかしてあいつにのし掛かった時にでもやったのかな……」


痛みは感じねえな、とぼんやり爪が剥がれた中指を見る彼に、雑菌入るだろ!!と処置を施したのは言うまでもない。

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