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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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補完二の一 月の女神 帳に載らぬもの

 月の女神の話は、正教会の祭壇には置かれない。


 司祭は、太陽の光を語る。


 王の血を語る。


 父の家を語る。


 婚姻の誓いを語る。


 帳に記される名を語る。


 だが、月の女神の話を、祭壇の上で長く語ることはない。


 月は、変わるからである。


 細くなり、満ち、欠け、見えなくなる。


 同じ顔で天に留まらない。


 正教会の神話において、変わるものは、法の柱になりにくい。


 父の名も、王の血も、契約の文言も、変わらないことを尊ぶ。


 だから、月はしばしば、女の不安、夜の迷い、婚姻前の夢、産屋の俗信として片づけられる。


 王立学術院も、月の女神の話を重くは扱わない。


 学術院の講義では、月の満ち欠けは暦の補助として語られる。


 潮の引き、女の血、農村の種まき、婚礼日の選び方、獣害の多い夜。


 そうしたものを並べ、地方俗信の一項として分類する。


 月の女神が、森の奥に名を持たぬ獣を見つけた話。


 満月の夜、神殿の灯も父の名も届かぬ場所へ降りた話。


 人の婚姻でも、家の契約でも、帳に載る誓いでもない結びを持った話。


 そうした話は、学術院では余白に置かれる。


 余白に置かれたものは、消えたように見える。


 けれど、消えたわけではない。


     *


 第1文化圏の城壁内では、月の女神の話は、井戸端で語られる。


 昼の広場ではない。


 市場の中央でもない。


 父や夫や家令が耳を立てる場所でもない。


 洗濯場の端である。


 冬の水は冷たい。


 指は赤くなり、布は重くなる。


 嫁に来たばかりの娘は、まだどの布を強く揉んでよいか分からない。


 血のついた布を誰にも見られぬように洗う手つきも、子を産んだ後の寝布をどこへ干すかも、夫の家で泣いた夜に顔を洗う順も知らない。


 年寄りの女は、そういう時に月の話をする。


「月は見ている」


 それだけなら、祈りにも聞こえる。


 だが、続く言葉は、正教会の祈りではない。


「帳に書けぬものも、月は忘れない」


 若い娘は、顔を上げない。


 聞いていないふりをする。


 だが、手は止まる。


 城壁内の帳は、父の名で始まる。


 娘は父の家に数えられ、嫁げば夫の家に数えられ、子を産めばその子は父の家へ記される。


 誰の娘か。


 誰の妻か。


 誰の子を産んだか。


 それが帳の順である。


 しかし、女の身体は帳の順だけでは動かない。


 月の血は、父の許しを待たない。


 腹の痛みは、家令の印を待たない。


 子を宿す不安は、司祭の祝詞を待たない。


 誰にも言えない思いは、婚姻契約の欄には入らない。


 だから、女たちは月を見る。


     *


 第2文化圏の森では、月の女神の名は違う。


 ある森では、アセルリアと呼ばれる。


 ある森では、ヘルカと呼ばれる。


 水辺の集落では、シルエラと呼ぶ者もいる。


 王立学術院は、それを地方差と記す。


 写本ごとの差異、森の方言、古い女神信仰の混線。


 そう分類すれば、帳の中では整う。


 だが、森の女たちは、それを別々の女神とは考えない。


 月は一つである。


 満ちる月も。


 満月も。


 新しい月も。


 森の梢を白くするものは一つである。


 だから、名が違っても、女神は一つだと彼女たちは言う。


 エルフの長老たちは、森の記憶を語る。


 聖樹の根に預けられた言葉を語る。


 枝と枝の合議を語る。


 けれど、婚礼前の娘にその話をするのは、たいてい長老ではない。


 髪を結う叔母である。


 薬草を選ぶ母である。


 夜の水を汲みに行く姉である。


 彼女たちは、精霊の法より先に、月の影の見方を教える。


「満ちる月は、見つける月」


「満月は、選ぶ月」


「新しい月は、腹の奥へ隠す月」


 娘は笑う。


 古い話だと言う。


 森の外の人間のような迷信だと言う。


 それでも、初めて夫の寝所へ行く夜、彼女は窓の外を見る。


 月が枝の間にあれば、少しだけ息がしやすい。


     *


 第3文化圏の工房では、月の女神の話は好まれない。


 ドワーフの工房では、数が先である。


 炉の温度。


 鉱石の重さ。


 合金の割合。


 親方の刻印。


 契約炉の名。


 納期。


 月の満ち欠けで鉄を打つなどと言えば、若い職人は笑われる。


 だが、工房の奥には、夜にだけ開かれる小さな箱がある。


 そこには、裂けた布が入っている。


 焦げた糸が入っている。


 血のついた産布の端が入っている。


 死んだ子の名を刻む前に折れた小さな銅片が入っている。


 それらは、正式な工房記録ではない。


 炉帳に載らない。


 家名の系譜にも載らない。


 親方の検印もない。


 しかし、捨てられない。


 工房の女たちは、月の女神の話を鉄の前ではしない。


 けれど、箱を閉じる時だけ、小さく言う。


「月は、名にならぬものも見ている」


 ある若い女鍛冶は、それを嫌った。


「名にならぬものは、残らぬものです」


 そう言った。


 年寄りの女は、首を振った。


「違う。名にできぬから、月へ預ける」


 炉は、刻印できるものを残す。


 月は、刻印できなかったものを残す。


 第3文化圏では、それを信仰とは呼ばない。


 工房の女たちの古い癖と呼ぶ。


 だが、癖はしばしば、神殿より長く残る。


     *


 第4文化圏の草原では、月の女神は弱い神だと思われている。


 オーガの戦士は、天を見上げる。


 昼の天。


 風の天。


 血を乾かす天。


 誓いを聞く天。


 夜の月は、戦士の神ではない。


 血統部族の男たちはそう言う。


 しかし、草原の母たちは違う。


 遠征に出た男が帰らない夜。


 子が熱を出し、乳を吸わない夜。


 戦場から戻った若者が、誰の声にも答えず空を見ている夜。


 母たちは、月を見る。


 草原では、泣くことは弱さに見える。


 戦士の家では、嘆きにも順がある。


 誰のために泣くか。


 いつ泣くか。


 どこで泣くか。


 誰の前で泣かないか。


 それもまた、血統部族の掟である。


 だが、月の下では、その順が少し緩む。


 ある母は、戦死した息子の名を呼ばなかった。


 部族の前では、彼女は誇りだけを見せた。


 火の前では、泣かなかった。


 けれど夜、馬柵の外で、彼女は月に向かって言った。


「名を呼べぬものも、見ておけ」


 月の女神の話は、そこでは獣の話としては語られない。


 名を失った戦士の話として語られる。


 帰ってこない夫の話として語られる。


 腹の中に宿ったが、名をもらう前に消えた子の話として語られる。


 草原の女たちは、月の女神が森へ降りた話を知っている。


 けれど、それをそのまま口にしない。


 獣を選んだ女神の話は、男たちの前では危うい。


 だから、彼女たちは言い換える。


 月は、名を失ったものを忘れない。


 それだけなら、誰も咎めにくい。


     *


 第5文化圏のラミアたちは、月を身体の水として見る。


 乾いた街では、水は薬である。


 湿り気は命である。


 熱が強すぎれば身体は割れ、冷えが深ければ血は鈍る。


 だから、月の話も、熱と水の均衡として語られる。


 水脈薬師は、月の女神の話を公には語らない。


 薬棚の前では、薬効を語る。


 乾いた根の量を語る。


 煎じる時間を語る。


 香料の混ぜ方を語る。


 だが、女の部屋では違う。


 月の血が重い娘。


 夫の家で乾きすぎた女。


 子を宿すことを恐れる妻。


 産後の熱が引かない母。


 そうした者に、水脈薬師は月の話をする。


「満ちる月は、身体の奥を見つける」


「満月は、閉じたものを開かせる」


「欠ける月は、痛みを連れていく」


「新しい月は、次の水を隠している」


 それは、薬の説明ではない。


 けれど、薬だけでは足りない夜がある。


 ラミアの街では、身体を水と熱で考える。


 だから、月の女神の話は、恋の話というより、身体が持ちこたえるための話として残っている。


 女神が獣のもとへ降りたこと。


 父の名も、神殿の帳も届かぬ場所で結びを持ったこと。


 その話は、外では語らない。


 だが、水脈薬師は知っている。


 身体は、帳だけでは治らない。


     *


 第6文化圏の船団では、月は水の上に二つある。


 天に一つ。


 川に一つ。


 川の月は揺れる。


 伸びる。


 割れる。


 櫂で崩れる。


 魚の背で乱れる。


 船底の影で消える。


 それでも、また戻る。


 リザードマンの女たちは、月の女神を川の女神とは呼ばない。


 水の神とも言わない。


 ただ、夜の見張りで月が川に落ちると、古い話を思い出す。


 船団家族では、子の名は船の中で決まる。


 誰の寝箱で泣いたか。


 誰の乳で落ち着いたか。


 誰の尾のそばで眠ったか。


 誰が水を煮て、誰が布を替えたか。


 父の名だけでは、船の子は数えきれない。


 だから、月の女神の話は、船団では少し違って語られる。


 名を失った獣は、岸にいたともいう。


 泥の中で月を見上げていたともいう。


 川を渡れず、ただ声を上げていたともいう。


 女神は橋を渡ったのではない。


 船に乗ったのでもない。


 月の光だけを足場にして、獣のもとへ降りたのだという。


 若い娘は、その話を笑う。


「光を足場になどできない」


 年寄りの女は言う。


「なら、どうして川の月は沈まない」


 娘は黙る。


 川の月は、いくら櫂で崩しても戻る。


 水を汲んでも、桶に閉じても、手からこぼしても、また川面に浮かぶ。


 船団の女たちは、それを見て育つ。


 だから、月の話は、船団ではこう結ばれる。


 帳に載らぬものは、水に消えるのではない。


 流れて、どこかへ届く。


     *


 六つの文化圏で、月の話は形を変える。


 第1文化圏では、洗濯場の端に残る。


 第2文化圏では、森の名の違いとして残る。


 第3文化圏では、炉帳に載らない箱の中に残る。


 第4文化圏では、戦士の名を呼べぬ母の夜に残る。


 第5文化圏では、薬だけでは足りない身体の水として残る。


 第6文化圏では、川面に揺れるもう一つの月として残る。


 正教会は、それらをまとめて俗信と呼ぶ。


 王立学術院は、地域差、女性儀礼、婚姻不安、月経周期、出産習俗、夜間伝承の複合と記す。


 それは、間違いではない。


 ただ、それだけでは足りない。


 なぜ、どの文化圏でも、女たちはこの話を捨てなかったのか。


 なぜ、父の名を重んじる家でも、炉と刻印を重んじる工房でも、血統と武を重んじる草原でも、水と薬を重んじる街でも、川の掟を重んじる船でも、月の話だけは小さく残ったのか。


 それを、学術院の帳はうまく書けない。


 帳に載らないものを扱う話だからである。


     *


 ある写本に、月の女神の古い名がある。


 アセリアヘカシエラ。


 何を指す名かは分からない。


 女たちの口伝には出てこない。


 正教会の教義にもない。


 王立学術院の標準分類にも入っていない。


 赤く暗む月の余白に、その名だけが書かれている写本がある。


 別の写本では、名の前後が削られている。


 また別の写本では、地方の異名とされている。


 学術院の注記には、こうある。


 月食に関する古俗信の残片か。


 失われた月神名の誤写か。


 あるいは、婚姻外俗信に結びつく女神名か。


 注記はそこで終わる。


 だが、古い布に縫われていた名があったという話がある。


 産屋の壁に書かれていた名があったという話がある。


 女神だけが呼び、獣だけが聞いた名があったという話がある。


 それらは、同じ話ではないかもしれない。


 同じ場所から来たものでもないかもしれない。


 ただ、どれも帳に載らない。


 だから、残った。


 父の名で残らないもの。


 王の法で残らないもの。


 工房の刻印で残らないもの。


 血統部族の歌で残らないもの。


 薬師の処方で残らないもの。


 船団の名簿で残らないもの。


 それらを、月は見ている。


 そう言う者が、どの文化圏にもいる。


     *


 王立学術院の若い書記は、最後にこう記した。


 月の女神信仰は、六文化圏において形を変えつつ存続する。


 その中心には、婚姻制度外の結び、女の身体、出産、失われた名、夜間不安、獣害への恐怖が混在する。


 正教会はこれを好まず、民間女性儀礼として扱う。


 各文化圏の公的制度には入りにくいが、生活圏の下層に深く残る。


 そこまで書いて、書記は筆を止めた。


 窓の外に月があった。


 白い月だった。


 彼は、余白に一行だけ書き足した。


 ただし、当該俗信は、単なる恐怖譚としては長く残りすぎている。


 その一行は、清書では削られた。


 理由は簡単だった。


 学術院へ出す報告書に、余計な推測は要らないからである。


 だが、控えには残った。


 月は見ている。


 帳に書けぬものも、月は忘れない。


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