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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第6文化圏 リザードマン 船団家族と庇護共同体

 ハルは、船団の誰の子でもなかった。


 船団長の子ではない。

 舵取りの弟子でもない。

 水運ギルド書記の下働きでもない。

 どの母の寝箱から育った者でもない。


 第1文化圏の岸の荷運びだった。


 橋工事の仮設荷場で荷を運び、濡れた縄を引き、石材の下敷きになりかけ、帳に名を載せられる前に外された男である。


 力はあるが、荷を読むのが遅い。

 字は少し読めるが、帳を書くほどではない。

 水を運べるが、飲み水と洗い水の違いを知らない。

 竿を持たせれば、川底ではなく腕の力で押そうとする。

 船に乗せれば、上手と下手を間違える。


 王国の荷場では、そういう者は端へ追いやられる。


 だが、第6文化圏の船団では、端へ追いやられた者にも、まず桶を教える。


 飲み水の桶。

 煮る水の桶。

 足を流す桶。

 船底の水をかい出す小桶。

 汚れた物を入れる桶。

 子どもに触れさせない桶。


 ハルは、それを一つずつ覚えさせられていた。


 年寄りの女が、濡れた布を三つに分けろと言う。

 舵取りが、足桶は下手へ置けと言う。

 船団長が、縄を力で怒らせるなと言う。

 水を見る女が、桶の蓋へ置いた石には触るなと言う。

 子どもが、何も知らずに寝箱の中で眠っている。


 ハルには、それが奇妙だった。


 王国の岸では、役に立たぬ者は遠ざけられる。

 この船では、役に立たぬ者に、次々と手が伸びる。


 怒られる。

 止められる。

 直される。

 布の置き場を変えられる。

 桶を持つ手を叩かれる。

 寝箱に近づくなと言われる。

 だが、飯は出る。

 寝る板もある。

 雨の夜には、誰かが布を投げてくる。


 外から見れば、囲われているようにも見えるだろう。


 大きな船団に拾われ、複数の者に世話を焼かれ、船の端で飯を与えられ、寝る場所まで決められる。


 だが、ハルは知り始めていた。


 これは甘やかしではない。


 庇護とは、桶の順を覚えさせることである。

 溺愛とは、子どもの寝箱に汚れた水を近づけないよう、何度でも手を止めることである。

 船団家族とは、同じ水を飲ませる前に、その者の手順を見ることである。


     *


 その朝、飲み水の桶の上には石が置かれていた。


 小さな灰色の石である。


 その石を置いたのは、ナギラだった。


 ナギラは、船団長ではない。

 舵取りでもない。

 水運ギルドの書記でもない。

 父の船を継ぐ女でもない。


 水を見る女である。


 朝の水を見て、飲ませるか、煮るか、捨てるか、閉じるかを決める女である。


 桶を閉じれば、船の朝は遅れる。


 水が遅れれば、火が遅れる。

 火が遅れれば、粥が遅れる。

 粥が遅れれば、子どもが泣く。

 子どもが泣けば、母たちが起きる。

 母たちが起きれば、寝板が動く。

 寝板が動けば、船が揺れる。

 船が揺れれば、荷縄の締め直しが要る。

 出発が遅れれば、渡し場の順が変わる。

 渡し場の順が変われば、税の札がずれる。


 だから、桶を閉じる者は、船を止める者でもある。


 ナギラは、その嫌われ方を知っている。


 大げさな女。

 用心深い女。

 朝を遅らせる女。

 川を信じない女。

 子どもを理由に船を止める女。


 そのように呼ばれることもある。


 だが、彼女は桶を閉じた。


 右岸寄りの流れに、薄い濁りがあったからである。


 泥水ではない。

 泡の筋が少し違う。

 匂いが少し違う。

 竿の先につく膜が、いつもの泥ではない。

 船底に溜まった水が、朝の水としては重い。


 右岸の柳の下に掘られた王国荷場の穴。


 昨日の夕方、ナギラはそれを見ていた。


 近い。


 そう思った。


 だが、昨日は言わなかった。


 王国人に言えば笑われる。

 船団の者にも、またナギラが始まったと言われる。

 川辺の土は水を通すと言っても、見えないものはないものにされる。


 だから、朝を待った。


 水は、朝に答える。


     *


 ハルは、飲み桶の石を見た。


「開けないんですか」


 ナギラは、桶から目を離さなかった。


「開けない」


「水はあるのに」


「ある」


「なら」


「飲ませない」


 ハルは黙った。


 ある水と、飲ませる水は違う。


 それを、彼はまだ身体で覚えていない。


 ナギラは、桶の蓋へ置いた石を指で押さえた。


「この石があるうちは、触らない」


「子どももですか」


「子どもほど触らせない」


「母親も?」


「母親も」


「船団長も?」


「私を呼ぶ」


 ハルは、少しだけ目を見開いた。


 船団長より強いのか、と顔に出ていた。


 ナギラは、それを見て首を振った。


「強いのではない。水の順が先にある」


 ハルには、まだ分かりにくかった。


 王国では、強い者が先に立つ。

 父。

 上役。

 役人。

 騎士。

 神官。

 帳を持つ者。


 船では違うことがある。


 水の前では、水を見る者が先に立つ。


     *


 小船が右岸へ出ることになった。


 乗るのは三人。


 舵取り。

 水運ギルドの書記。

 ナギラ。


 船団長は乗らない。


 船団長が行けば、争いになる。

 舵取りが行けば、流れの話になる。

 書記が行けば、帳の話になる。

 ナギラが行けば、桶と子どもの話になる。


 最初に必要なのは、戦いではない。


 相手に、水の通り道を見せることである。


 小船の縄を外す役を、ハルが任された。


 彼は結び目に手をかけた。

 濡れた縄は固い。

 力で引こうとすると、年寄りの女が手を止めた。


「濡れた縄は怒らせるな」


 ハルは手を止めた。


 年寄りの女は、結び目の水を指で押した。

 少し緩ませる。

 それから、ハルに渡す。


「見てから解け」


 ハルはうなずいた。


 見てから。


 飲む前に見る。

 捨てる前に見る。

 解く前に見る。

 持つ前に見る。


 船の中では、何もすぐにはしない。


 ハルは、それを覚え始めていた。


     *


 右岸の仮設荷場では、王国人が朝飯を食べていた。


 鍋が鳴る。

 馬が水を欲しがる。

 泥のついた靴が川辺を踏む。

 柳の下には、臨時の穴がある。


 作業員の一人が、小船を見た。


「何だ。荷はまだ降ろさんぞ」


 彼は舵取りを見た。

 次に、書記を見た。

 ナギラは最後だった。


 器を持つ女。


 王国人には、そう見えたのだろう。


 ナギラは怒らなかった。


 怒る前に見せる。

 それが彼女の順である。


 書記が言った。


「第6船団より、水利の申し入れです」


「水利?」


「右岸寄りの水筋に濁りがあります」


「川だろう。濁ることもある」


 ナギラは、器を差し出した。


「この水を飲めますか」


 作業員は器を見た。


「何だ、その水は」


「あなたたちの荷場の下を通った流れです」


「川の水だろう」


「川の水です」


「なら、煮れば飲める」


「子どもの桶を閉じました」


 作業員は黙った。


 子ども、という言葉は、時に帳より早い。


 だが、別の男が笑った。


「川の民が川を怖がるのか」


 ナギラは、その男を見た。


「川を怖がらない者は、川で死にます」


 笑いが止まった。


     *


 荷場の下役が出てきた。


 革の帳面を持っている。


「許可は取っている。穴は飯場から離している。荷場の外だ。問題はない」


 書記が尋ねた。


「川からの距離は」


「十分だ」


「水が上がった時の距離は」


 下役は眉をひそめた。


「そんなものは測っていない」


 舵取りが、竿を見せた。


 竿の先には、薄い灰色の膜がついている。


「今朝は、ここまで触っている」


 下役は、それを泥だと言った。


 ナギラは首を振った。


「泥だけなら、桶は閉じません」


「では何だ」


「まだ名前をつけていません」


「分からないもののために、荷を止めるのか」


「分からないから止めます」


 下役は不快そうに息を吐いた。


 王国の者は、止めることを嫌う。


 荷が止まる。

 飯が止まる。

 馬が止まる。

 橋工事が止まる。

 帳の日付がずれる。


 だが、第6文化圏では、水が怪しければ止める。


 止めなければ、腹が壊れる。

 腹が壊れれば、船が止まる。

 子どもが熱を出せば、船団そのものが止まる。


 先に止めるか。

 後で止まるか。


 その違いである。


     *


 下役は、しばらく帳面を見ていた。


 彼は川を見ていなかった。


 工事の遅れを見ていた。

 荷下ろしの遅れを見ていた。

 上役への報告を見ていた。

 税札のずれを見ていた。


 ナギラは、それを責めなかった。


 彼も、彼の流れを見ているのだと思った。


 王国には王国の流れがある。

 命令。

 許可。

 日付。

 荷。

 税。

 帳。


 ただ、その流れは、川の流れとは違う。


 帳の上では、穴は荷場の外にある。

 だが、土の下では、川へ近い。


 二つの流れが、同じ場所でずれていた。


 ナギラは言った。


「穴を上へ移してください。旧穴には石灰を入れてください」


「そこまで言うのか」


「埋めただけでは、下で残ります」


「水の女はしつこいな」


 ナギラは、少しだけ笑った。


「水の方がしつこいです」


 飯を食べていた作業員の一人が、ぼそりと言った。


「俺の下の子も、腹を壊すと長い」


 空気が変わった。


 下役は舌打ちした。


「分かった。穴は移す。旧穴は埋める。石灰も入れる」


 書記が帳に書いた。


 ナギラは、器の水をもう一度見た。


 これで終わりではない。


 すでに入ったものは流れる。

 流れたものは、どこかへ届く。


 だから、船団はまだ待つ。


     *


 小船が戻ると、船の上の者たちは結果を聞かなかった。


 動きを見れば分かる。


 飲み桶の石は、まだ外されない。

 魚洗いは、まだ始まらない。

 船団長は、出発の竿を立てない。

 ナギラは、器を伏せず、もう一度川へ向けた。


 まだ待つ、ということである。


 ハルは、足桶を持っていた。


 今度は迷わなかった。


 足桶は下手へ。

 飲み桶から離す。

 寝箱から離す。


 それを見て、年寄りの女が言った。


「今日は船の端で食え」


 ハルは顔を上げた。


 船の端で食える。


 それは、追い出されていないということである。

 まだ内側ではない。

 だが、船の外でもない。


 船団家族の一番外側に、彼は残された。


 それは、王国の物語なら、拾われた者が愛される話に見えるかもしれない。

 複数の者に構われ、叱られ、食べさせられ、寝る場所を与えられる話に見えるかもしれない。


 だが、第6文化圏の船では、愛されるとは、桶の順を覚えさせられることである。


 守られるとは、勝手に飲み桶を開けられないことである。


 家族に近づくとは、寝箱のそばに汚れた水を流さないことを、何度も見られることである。


 ハルは、まだそれを言葉にできない。


 だが、足桶を下手へ置くことはできた。


     *


 昼前、濁りは少し引いた。


 完全ではない。


 だが、泡の筋は細くなり、匂いも薄くなっている。

 右岸の柳の下では、作業員たちが穴を埋めていた。

 上手の高い場所には、新しい印が立っている。


 ナギラは川水を器に取った。


 見る。

 嗅ぐ。

 指で縁をなぞる。

 少し待つ。

 もう一度見る。


 それから、飲み桶の前へ戻った。


 船団中が、彼女を見ていた。


 彼女は、桶の石を取った。


 ただし、蓋はまだ開けない。


「煮てから」


 そう言った。


 船の中に、小さく息が流れた。


 出発できる。

 だが、いつも通りではない。


 水は煮る。

 魚洗いは、もう少し下流へ出てから。

 子どもには、先に冷ました水を渡す。

 布は、今日のうちは上手へ干さない。


 船団長が、出発の竿を立てた。


 舵取りが船尾へ入る。

 書記が帳を包む。

 ハルが足桶を下げる。

 ナギラが、自分の小さな控えを出す。


 それは、水運ギルドの正式帳ではない。

 船団長へ出す報告でもない。


 ただ、彼女のための控えである。


 右岸柳下、穴近し。

 朝、薄濁り。

 飲み桶、石。

 子、煮水。

 魚洗い止め。

 旧穴、石灰。

 昼前、やや戻る。

 名をつける前に閉じよ。


 最後の一行を書いて、ナギラは手を止めた。


 名をつける前に閉じよ。


 それは、水のことだった。


 だが、それだけではない。


 外から来た者。

 まだ名前で呼ばれない者。

 桶を間違えた者。

 布の順を覚えた者。

 帳に入らない危うさ。

 船団の内側に入れるかどうか分からない者。


 すぐに名をつければ、楽である。


 無知。

 汚れ。

 面倒。

 役立たず。

 外の者。


 だが、名前をつける前に、見るべきものがある。


 ナギラは、控えを閉じた。


     *


 船団が動き出した。


 竿が水を押す。

 舵が流れを受ける。

 船尾の低い段で、舵取りの尾のごときものが船の揺れを読む。

 飲み桶には、もう石はない。

 だが、蓋は重く閉じられている。


 ナギラは、船の中央に座った。


 飲み桶と子どもの寝箱の間である。


 母の場所ではない。

 船団長の場所でもない。

 舵取りの場所でもない。

 書記の場所でもない。


 だが、その朝、そこに座るべき者はナギラだった。


 ハルは船の端にいた。


 船の外ではない。

 船の内でもない。

 その境で、足桶の場所を見ている。


 王国の岸から見れば、彼は拾われ、世話を焼かれ、船団に囲われた幸運な男に見えるかもしれない。


 だが、船の上では違う。


 彼はまだ、試されている。

 守られながら、見られている。

 見られながら、少しずつ船の中へ入れられている。


 ナギラもまた、見られている。


 水を見すぎる女。

 桶を閉じる女。

 朝を止める女。

 帳にないことを控えに残す女。


 いつか、彼女の控えは船団の外へ出るだろう。


 川の掟だけでは足りない場所へ。


 桶と布と寝箱と子どもの腹を、別の言葉で記録しなければならない場所へ。


 王国でも第6文化圏でもない、もっと奇妙な清潔の順を持つ場所へ。


 その時、彼女はまだ知らない。


 その場所の名も。

 そこにいる者たちの名も。

 水を煮る手の意味も。

 火と腐れを分ける理由も。


 だが、その朝、彼女はすでに、その場所へ渡るためのものを持っていた。


 水を分ける目。


 桶を閉じる手。


 名をつける前に見る癖。


 そして、帳に載らないものを、自分の控えに残す習慣である。


 川は、すべてを運ぶ。


 水。

 荷。

 税。

 病。

 噂。

 怒り。

 子どもの熱。

 帳に載らない判断。


 流したものは、消えない。


 どこかへ届くだけである。


 船団は、右岸の荷場を後ろへ流して進んだ。


 ハルは足桶を見ていた。

 ナギラは飲み桶を見ていた。

 子どもは寝箱の中で眠っていた。


 その朝、船が動けたのは、誰かが強かったからではない。


 桶が閉じられたからである。

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