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十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第6文化圏 リザードマン 船の朝と桶の順

 第6文化圏の朝は、火よりも先に水桶を見る。


 王国の村では、朝になると竈に火が入る。

 第3文化圏の工房では、炉の灰をかき、火の色を見る。

 第4文化圏の草原では、蹄と脚の具合を見る。

 第5文化圏の水路都市では、日干し台と水脈の順を確かめる。


 第6文化圏の船では、まず桶である。


 飲み水の桶。

 煮る水の桶。

 洗う水の桶。

 足を流す桶。

 魚を洗う桶。

 布を湿らせる桶。

 船底の水をかい出す小桶。

 汚れた物を入れる桶。

 子どもに触れさせない桶。


 外から来た者には、どれも同じ桶に見える。


 だが、船の上では違う。


 桶は、ただ水を入れる器ではない。

 桶は、船の中の小さな掟である。


 どの桶を上手へ置くか。

 どの桶を下手へ置くか。

 どの桶を寝箱に近づけてよいか。

 どの桶を舷の外へ出してよいか。

 どの桶を夜の間は伏せるか。

 どの桶に石を置くか。

 どの桶を子どもに触れさせてはならないか。


 それを間違える者は、まだ船の内側には入れない。


 縄を結べなくても、まだ教えられる。

 魚を捌けなくても、手は余る。

 浅瀬を読めなくても、竿を持たせることはできる。


 だが、飲み水の桶と足を洗う桶を取り違える者は、船の中では危うい。


 その者は、水を殺すからである。


     *


 夜明け前の船は、静かである。


 中州の向こうには薄い霧が出ていた。

 流れは低く、舷の下で細い音を立てている。

 寝板の上では、布をかぶった者たちが丸くなって眠っていた。

 子どもの寝箱は船の中央へ寄せられ、濡れぬように底上げされている。

 魚干し台の下では、昨日使った縄がまだ湿っていた。


 船底の水をかい出す者が、小桶を持って腰をかがめた。


 船の底には、夜の間に水が溜まる。


 雨で入る水。

 夜露で落ちる水。

 船腹の隙間から染みた水。

 魚を洗った時に跳ねた水。

 子どもが寝る前にこぼした水。

 荷の下からにじみ出た水。

 どこから来たのか分からない水。


 同じ水ではない。


 だから、かい出す前に見る。


 水面に油があるか。

 泥が沈んでいるか。

 泡が残っているか。

 匂いがあるか。

 色があるか。

 小さな虫が浮いているか。


 それから、小桶で取る。


 見つけた水を、すぐ舷の外へ捨ててはならない。

 捨てれば、どの水だったのか分からなくなる。


 第6文化圏では、水は消えない。


 水に流したものは、どこかへ行くだけである。


     *


 この船には、拾われて三月の人間がいた。


 第1文化圏の男である。


 岸の荷運びをしていたが、父の家にも戻れず、岸の村にも残れず、水運ギルドの帳にも正式には載っていなかった。

 橋工事の荷場で働いていたところを、船団長に拾われた。


 拾われた、といっても、すぐ家族になるわけではない。


 第6文化圏の船団は、流された者を拾う。

 沈みかけた船の者。

 洪水で家を失った者。

 父の船に乗せてもらえなかった者。

 母の家から離された者。

 水運ギルドの罰で船を下ろされた者。

 他文化圏の荷運び。

 名を濡らした者。


 だが、拾った者をすぐ内側へ入れるわけではない。


 まず、船の端に置く。

 水桶を洗わせる。

 荷縄をほどかせる。

 寝板を日に出させる。

 魚の骨を捨てる場所を教える。

 上手と下手を間違えないか見る。

 飲み水に勝手に触れないか見る。

 子どもの桶へ泥を入れないか見る。


 それができれば、食事を分ける。

 それが続けば、寝場所を少し内側へ移す。

 嵐の時に縄を離さなければ、さらに内側へ入る。


 血ではない。

 流れの中で離さなかった手が、船団家族を作る。


 その人間は、まだ船の端にいた。


 名前はあった。

 だが、船団の者たちは、まだその名を強く呼ばない。


 名を呼ぶ前に、桶を見ているからである。


     *


 朝の最初の仕事は、桶を開けることではない。


 桶を開けてよいかを見ることである。


 水を見る女が、飲み水の桶の前に座った。


 年は若くない。

 鱗の色は薄く、目の端に白い筋がある。

 船団長ではない。

 舵取りでもない。

 水運ギルドの書記でもない。


 だが、朝の水については、彼女が一番強い。


 彼女は、桶の蓋に手を置いた。

 すぐには開けない。

 蓋の縁を見る。

 泥がついていないか。

 夜の虫が入った跡がないか。

 子どもの小さな指跡がないか。

 誰かが夜中に動かした跡がないか。


 それから、蓋を少しだけ上げた。


 匂いを嗅ぐ。


 水は、透明であれば飲めるわけではない。

 冷たければよいわけでもない。

 川の水だから清いわけでもない。


 川の民ほど、水を信じきらない。


 彼女は、小さな器に水を移した。

 夜明けの白い光へかざす。

 底を見る。

 水面を見る。

 器の縁を指でなぞる。


 それから、別の者へ渡した。


「煮る」


 短い言葉だった。


 船の中で、火を起こす者が動いた。


 火は小さく囲う。

 大きく燃やせば船を焦がす。

 風で火が飛べば布に移る。

 帆へ移れば、船団が死ぬ。


 だから、船火は低い。


 煮る水も、一度に多くは作れない。


 子どもに与える分。

 年寄りに与える分。

 薬を溶く分。

 朝の粥に使う分。


 順がある。


 水を見る女は、その順を決める。


 船団長は口を出さない。

 舵取りも口を出さない。

 書記も帳を開かない。


 船には、それぞれの場がある。


 船団長は、進むか止まるかを決める。

 舵取りは、流れを読む。

 書記は、札と帳を守る。

 水を見る者は、水を生かすか殺すかを見る。


 知らない者が命じれば、桶を間違える。

 桶を間違えれば、腹を壊す。

 腹を壊せば、船は進めない。


 だから、朝の水については、水を見る女が強い。


     *


 拾われた人間は、足桶を下げるよう命じられた。


 足桶。


 彼は一瞬迷った。


 足を流す桶。

 洗い物の桶。

 船底の水をかい出す小桶。

 どれも濡れている。

 どれも木でできている。

 どれも朝の薄明かりの中では同じように見える。


 船団長は、怒鳴らなかった。


 怒鳴れば、手順が壊れる。

 怒鳴られて動く者は、次も怒鳴られるまで動かない。


 舵取りが、横から低く言った。


「舷の下だ。泥のついた縁の桶」


 拾われた人間は、ようやく動いた。


 泥のついた縁の桶を持つ。

 それを船尾側へ下げる。

 飲み水から離す。

 子どもの寝箱からも離す。

 上手へは置かない。


 それだけのことだった。


 だが、第6文化圏では、それができるかどうかで、船の中に残れるかが決まる。


 彼は桶を持ち上げた。


 足元が濡れている。

 船板は、王国の石畳とは違う。

 川の上の板は、眠っているように見えても、ずっとわずかに動いている。


 彼の足が滑った。


 桶が傾く。


 水が少し、船板の上へこぼれた。


 こぼれた水は、低い方へ走った。

 子どもの寝箱の方へ向かう。


 舵取りの後ろにある尾のごときものが、低く動いた。


 重く、滑るように船板を押さえ、こぼれた水の流れを止める。

 同時に、年寄りの女が布を投げた。

 布は水を吸い、寝箱へ届く前に止まった。


 子どもは起きなかった。


 船は、まだ静かだった。


 拾われた人間は、息を止めていた。


 船団長は言った。


「上手と下手を、もう一度覚えろ」


 それだけだった。


 罰ではない。

 まだ、罰ではない。


 船に残る余地がある者には、最初に手順が与えられる。


     *


 濡れた布にも順がある。


 寝板の水を吸った布。

 足を拭いた布。

 汚れを受けた布。


 同じ布ではない。


 拾われた人間は、それを知らなかった。


 彼は、さきほど水を吸った布を魚干し台の近くへ置こうとした。

 年寄りの女が、それを止めた。


「それは寝板の水だ。魚のそばへ置くな」


 彼は慌てて戻した。


 年寄りの女は、続けて言った。


「濡れた布は三つ。寝板。足。汚れ。混ぜるな」


 寝板。

 足。

 汚れ。


 彼は小さく繰り返した。


 寝板。

 足。

 汚れ。


 同じ濡れた布に見える。

 だが、船では同じではない。


 寝板の湿りは、日に当てれば戻せる。

 足を拭いた布は、寝場へ戻さない。

 汚れを受けた布は、洗うまで船の下手へ置く。


 彼は、それを覚えなければならない。


 この船で生きるなら、血より先に、桶と布を覚えなければならない。


     *


 水が煮えた。


 最初の器は、子どもへ渡された。


 母ではない女が持っていく。

 子どもの母は、まだ寝箱の横で布を整えている。

 子どもは目を開けたが、泣かなかった。


 船団家族では、母だけが子に水を与えるわけではない。


 水を見た者。

 煮た者。

 器を冷ました者。

 寝箱を支えた者。

 子どもの口元を拭く者。


 その朝、その役を持った者が、子に近い。


 第1文化圏の帳では、この関係は書きにくい。

 父の名でも、母の名でも、婚姻の契約でもない。

 だが、船の中では、それは不自然ではない。


 子を濡らさなかった者。

 水を誤らなかった者。

 器を落とさなかった者。

 熱すぎる水を与えなかった者。


 それらが、船団家族の内側を作る。


 拾われた人間は、それを見ていた。


 彼には、まだ分からないことが多い。


 なぜ石一つで桶を開けなくなるのか。

 なぜ布の置き場に意味があるのか。

 なぜ水を見る女が、船団長より先に朝の順を決めるのか。

 なぜ母ではない者が、子どもに最初の水を与えるのか。


 だが、彼は見た。


 船は静かだった。

 静かなまま、動いていた。


 それは、王国の市場とも違う。

 役所とも違う。

 教会の鐘とも違う。


 声を大きくしない秩序である。


     *


 太陽が上がるころ、船底の水をかい出す小桶の者が、もう一度流れを見た。


 川面に、細かな泡があった。


 泡は川の中央をまっすぐ流れていない。

 右岸寄りに、細く寄っている。


 小桶の者は、舵取りを見た。

 舵取りは、すでに見ていた。


 水を見る女が、器を持って船縁へ出た。


 川水を少し取る。

 明るくなった光へかざす。


 濁りは薄い。

 だが、ある。


 泥だけではない。

 魚の腐りでもない。

 船板の黴でもない。

 油布の匂いでもない。


 水の底に、湿った獣の皮を沈めたような匂いがあった。


 水を見る女は、飲み水の桶へ戻った。


 蓋の上に、小さな石を置く。


 開けるな、という印である。


 子どもも触れない。

 母も勝手には開けない。

 船団長であっても、開ける前には水を見る者を呼ぶ。


 桶の石は、船の中の小さな法である。


 拾われた人間は、その石を見た。


 石一つで、船の中が変わる。

 誰も叫ばない。

 誰も走らない。

 だが、飲み水は閉じられた。


 水を見る女は、上流を見た。


 船団長も、上流を見た。

 舵取りも、上流を見た。

 書記は、まだ帳を開いていない。


 第6文化圏では、帳より先に水を見る。


 帳に書くのは、その後である。


 川は、今日も流れている。


 だが、流れているから清いとは限らない。

 透明だから飲めるとは限らない。

 冷たいから良いとは限らない。


 水は、道である。

 水は、家である。

 水は、食べ物を運ぶ。

 水は、病も運ぶ。


 だから、第6文化圏の者は川を信じきらない。


 信じるために、見る。

 見るために、朝早く起きる。

 朝早く起きるために、夜のうちに桶を伏せる。

 桶を伏せるために、寝る前に水を捨てる。

 水を捨てるために、上手と下手を確かめる。


 その繰り返しで、船団は朝を迎える。


 その朝、船団はまだ出発しなかった。


 飲み水の桶には、石が置かれている。

 足桶は下手へ下げられている。

 寝板の布と足の布と汚れの布は分けられている。

 拾われた人間は、三つの布を間違えなかった。


 水を見る女は、右岸の方を見た。


 薄い霧の向こうに、王国の仮設荷場の煙が上がりはじめていた。

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