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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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補完二の二 月の女神 名を隠すもの

 第7文化圏の海では、月は水に落ちない。


 海の者はそう言う。


 川の月は揺れる。


 池の月は沈む。


 桶の月は手で崩せる。


 だが、海の月は遠い。


 いくら波が立っても。


 いくら船が傾いても。


 いくら歌が風に裂かれても。


 月は、海の上で白く残る。


 セイレーンの女たちは、月を歌に入れる。


 ただし、正面からは歌わない。


 月を名指しにする歌は、恋の歌になりすぎる。


 恋の歌は、船を誤らせる。


 船を誤らせる歌は、私掠の法に触れる。


 だから、彼女たちは月を別の言葉で呼ぶ。


 白い舵。


 夜の櫂。


 沈まぬ皿。


 名を隠した顔。


 船乗りの男たちは、それを潮の歌だと思う。


 私掠免状を持つ船長は、航路の歌だと思う。


 王国の港役人は、酔った女たちの古い比喩だと思う。


 だが、娘たちは知っている。


 それは、月の女神の話である。


 名を持たぬ獣を見つけた女神。


 神殿の帳を離れた女神。


 父の名も、婚姻の文も、港の検印も届かぬところへ降りた女神。


 セイレーンの女たちは、その話を海の上で語らない。


 語れば、波に聞かれるからである。


 語るのは、船が岸へ戻り、濡れた髪をほどいた後である。


 夜の浜で。


 網を干す棒の陰で。


 声を使いすぎて喉を痛めた娘に、年長の女が水を飲ませる時である。


「名を隠しても、月は聞いている」


 その言葉は、慰めにも聞こえる。


 戒めにも聞こえる。


 セイレーンの船では、名を隠すことがある。


 私掠のため。


 逃亡のため。


 恋のため。


 敵船に知られぬため。


 港で別の顔を使うため。


 名を隠した者は、時に自分の本当の名を忘れそうになる。


 だから、月へ預ける。


     *


 第8文化圏の断崖では、月は風で欠けると言われている。


 ハーピーの里では、月の満ち欠けを、空の道の変化として見る。


 月が細い夜は、風も細い。


 月が満ちる夜は、断崖の影が深くなる。


 満月の夜は、下の谷まで見える。


 新月の夜は、口笛の返りだけを頼りに飛ぶ。


 王国人は、ハーピーを鳥と呼ぶ。


 ハーピー自身は、それを好まない。


 彼女たちは鳥ではない。


 風を受ける民である。


 断崖の法を持ち、口笛で名を渡し、風の向きで嘘を聞く民である。


 そのため、月の女神の話も、彼女たちの間では、降りる女神の話として語られる。


 天から森へ降りた女神。


 高いところから低いところへ身を落とした女神。


 安全な灯を離れ、夜の底へ向かった女神。


 ハーピーの娘たちは、それを聞くと黙る。


 高い場所に住む者ほど、降りることの怖さを知っている。


 断崖から飛び出すのは、落ちることではない。


 風を読むことである。


 だが、風を読み違えれば落ちる。


 月の女神は、風を読まずに降りたのではない。


 夜の底に何がいるかを見た上で、降りたのだと、年寄りの女たちは言う。


「見るだけなら、誰にでもできる」


「降りる者だけが、選んだことになる」


 この言葉は、婚礼前の娘にも言われる。


 追放された娘にも言われる。


 断崖関所の法から外れた娘にも言われる。


 風の上から見下ろすだけでは、何も変わらない。


 降りること。


 近づくこと。


 名を知らぬものの前に立つこと。


 それが、月の女神の話である。


     *


 第9文化圏の獣人たちは、月を獣祖の眼と呼ぶことがある。


 しかし、すべての氏族がそう呼ぶわけではない。


 狼の氏族は、遠吠えの先に月を見る。


 鹿の氏族は、角の影を月に重ねる。


 狐の氏族は、月を騙し合いの灯とする。


 熊の氏族は、冬眠前の脂の色を月にたとえる。


 獣人の社会では、名は氏族に結ばれる。


 誰の毛並みか。


 誰の耳か。


 誰の牙か。


 どの獣祖の誓いを持つか。


 それが名の根になる。


 だから、氏族の外で生まれた子は扱いに困る。


 父の氏族に入れない子。


 母の氏族からも遠ざけられる子。


 耳の形が曖昧な子。


 毛の色がどちらにも似ない子。


 そうした子の話をする時、女たちは月の女神の口伝を持ち出す。


 名を持たぬ獣がいた。


 どの氏族にも属さぬ獣がいた。


 誰の牙とも、誰の毛とも、誰の誓いとも数えられぬ獣がいた。


 それを、月の女神は見つけた。


 氏族の男たちは、この話を嫌う。


 名のないものを認めれば、氏族の線が乱れるからである。


 獣祖の誓いより前に、月が見たという話になるからである。


 だが、女たちは言う。


「氏族が名をくれる前に、見つけるものがある」


 生まれたばかりの子は、まだ誓いを知らない。


 牙も弱い。


 耳も立たない。


 毛並みも定まらない。


 それでも、母は見る。


 月の女神の話は、獣人の女たちにとって、氏族より前に見る者の話である。


     *


 第10文化圏ザポテックでは、月の女神は一人ではない。


 そう見える。


 神殿の壁には、いくつもの天の顔が刻まれている。


 羽を持つ女。


 蛇の名を持つ女。


 覆面の女。


 人を内へ入れる女。


 遠くから的を外す男の仮面。


 王立学術院の記録官は、それを混乱と呼ぶ。


 太陽神なのか。


 月神なのか。


 女神なのか。


 男神なのか。


 創世神なのか。


 競技神なのか。


 都市神なのか。


 分類欄が足りない。


 ザポテックの神官は、分類欄が足りないことを問題にしない。


 天は変わるものだからである。


 朝の顔。


 昼の顔。


 夕の顔。


 祭りの顔。


 供物を受ける顔。


 覆面をつけた顔。


 名を隠した顔。


 愛を重く抱え込む顔。


 神は、一つの名に閉じこもらない。


 月の女神の話も、ここでは変化している。


 森に降りた女神は、ある神殿では、相手の身振りを見る女神になる。


 別の神殿では、命を包む女神になる。


 また別の神殿では、人を内へ入れる重い愛の女神になる。


 若い競技者たちは、覆面をつけて神前で組み合う。


 名を隠す。


 相手を見る。


 技を受ける。


 倒されても立つ。


 相手の力を知り、それを返す。


 それは遊戯に見える。


 祭りにも見える。


 王国人には、奇妙な見世物に見える。


 だが、ザポテックの女神官は言う。


「見ることと、受けることは、同じ神に属する」


 月の女神が名を持たぬ獣を見たこと。


 その獣を恐れず、近づいたこと。


 その名を、自分の内から分けたこと。


 ザポテックでは、それが覆面と技と神前競技の中に入り込んでいる。


 真実を知っている者はいない。


 だが、誤った形のまま、輪郭だけが残っている。


     *


 第11文化圏ヤマトでは、月と太陽は完全には分かれない。


 天の女神は四つの御魂を持つと言われる。


 太陽の荒御魂。


 太陽の和御魂。


 月の荒御魂。


 月の和御魂。


 王国の神学者は、この信仰を説明しにくい。


 太陽神が男神ではない。


 月が太陽より下に置かれていない。


 荒ぶるものと和らぐものが、同じ女神の中にある。


 恋慕と喪失が、神の中心に残っている。


 正教会から見れば、不安定である。


 だが、ヤマトの巫女は、不安定とは言わない。


 同じ女でも、怒る日がある。


 笑う日がある。


 隠す日がある。


 照らす日がある。


 泣きながら飯を炊く日もある。


 笑いながら人を憎む日もある。


 だから、神にも御魂がある。


 ヤマトの月の話では、名を失った獣は、しばしば穢れたものとして語られる。


 女神は、その穢れへ近づく。


 祓うためではない。


 斬るためでもない。


 隔てるためでもない。


 見るためである。


 穢れに触れれば、女神も汚れるのではないか。


 そう問う娘がいる。


 巫女は答える。


「見ぬふりをした穢れほど、家の奥へ入る」


 月の女神の話は、ヤマトでは禊の話にもなる。


 洗い流すもの。


 隠すもの。


 触れてはならないもの。


 それでも見なければならないもの。


 月の和御魂は、見て守る。


 月の荒御魂は、見て怒る。


 どちらも月である。


     *


 第12文化圏の龍人たちは、月を律令の外に置きたがる。


 天命は上から下る。


 官位は上から与えられる。


 名は籍に記される。


 家は序列に入る。


 婚姻は認められ、血統は管理される。


 その中で、月の女神の話は扱いにくい。


 女神が、天の許可を待たずに降りるからである。


 獣に名を与えるからである。


 婚姻の帳なしに結びを持つからである。


 父系の籍に先立って、名を置くからである。


 龍人官僚は、この話を辺境俗信として処理する。


 ただし、完全には消さない。


 消すには、古すぎる。


 地方祭祀の奥に残りすぎている。


 女官たちの間に根を張りすぎている。


 宮城の奥には、夜にだけ開く小さな庭がある。


 そこでは、月を映すための石盤に水を張る。


 女官たちは、そこへ顔を映さない。


 月だけを映す。


 誰かに嫁ぐ前の娘。


 血統のために選ばれた女。


 名を変えられる女。


 官位のために沈黙を覚える女。


 そうした者が、石盤の前に立つ。


 彼女たちは祈らない。


 ただ見る。


 天命の帳に書かれる前の自分を、月の水に預ける。


 龍人の国では、記録されることは力である。


 だが、記録される前に失うものもある。


 月の女神の話は、その失うものを見ている。


     *


 第13文化圏アラクネでは、月の話は糸の奥へ入る。


 糸は見せる。


 布は売る。


 織りは誇る。


 模様は家名になる。


 だが、糸が生まれるところは見せない。


 下腹の奥。


 布に隠す場所。


 家の女たちだけが知る手順。


 初めの白い筋。


 空気に触れて固まる前の液。


 それは、工房の秘所である。


 アラクネの女たちは、月の女神を糸の女神とは呼ばない。


 けれど、糸を生む前の夜に、月を見る。


 名を持たぬものを見つけた女神。


 名を外から借りず、自分の内から分けた女神。


 その話は、糸を生む行為に近い。


 外から糸を拾うのではない。


 自分の内から出す。


 まだ形を持たぬものを、白い線にする。


 他人に見せられないところから、やがて布になるものを出す。


 若い職人が、月の話を嫌うことがある。


「工房の技は、神話ではありません」


 母は答える。


「神話でなければ、なぜ隠す」


 技だから隠す。


 恥だから隠す。


 家のものだから隠す。


 汚してはならないから隠す。


 どの答えも正しい。


 だが、正しい答えが多すぎるものは、たいてい月の側にある。


 アラクネの月の話では、獣の名は糸に縫われていたとも言われる。


 布にあった名を、誰かがほどいたとも言われる。


 ほどかれた名は、糸くずとなって夜へ散ったとも言われる。


 だから、古い工房では、失敗した初糸をすぐには捨てない。


 月の出る夜まで、布に包んで置く。


     *


 第14文化圏ケンタウロスでは、月は走る血を冷ますものとされる。


 昼の草原では、血が走る。


 風が走る。


 槍が走る。


 誓いが走る。


 若者の名が走る。


 夜になると、走ったものは戻ってこなければならない。


 だが、戻らない者がいる。


 突撃の中で名を失った者。


 氏族の列から外れた者。


 走れなくなった者。


 脚を折った者。


 血統の誇りに耐えられなかった者。


 そうした者のために、月の女神の話がある。


 ケンタウロスの男たちは、走れぬ者を哀れむ。


 女たちは、走れぬ者の寝床を見る。


 寝床で泣く者。


 自分の脚を見ない者。


 尾の毛束を切ろうとする者。


 もう氏族の風を受けられないと思い込む者。


 月の女神は、そうした者へ語られる。


「女神は、走る獣を選んだのではない」


「名を持たぬ獣を見つけたのだ」


 走れたからではない。


 強かったからではない。


 血統にかなったからではない。


 名があったからでもない。


 見たから、名が生まれた。


 この話は、若い戦士には分かりにくい。


 だが、怪我をした者には残る。


 自分が走れなくなった時、まだ見られているという話は、薬より遅く効く。


     *


 第15文化圏ダークエルフでは、月はあまり見えない。


 地下。


 泥炭。


 暗い水路。


 菌の光。


 低い天井。


 隠れた血。


 異教祖霊。


 そこで月の女神の話は、天の話ではなく、見えない光の話になる。


 外の月を見たことのない子もいる。


 それでも、月の話は残る。


 白い光としてではない。


 赤黒い名として。


 失われた名として。


 書かれていたのに読めなくなった名として。


 ダークエルフの古い祖霊棚には、時折、由来の分からない名札がある。


 誰の祖か分からない。


 どの家に属したか分からない。


 男か女かも分からない。


 ただ、捨てると夢見が悪い。


 そういう名札を、家の女は奥へしまう。


 正しい祖霊ではない。


 公に祀る名でもない。


 けれど捨てない。


 月の女神の話は、そこで語られる。


 見えない月がある。


 地下にいても、月は上にある。


 名を失ったものは、光を失ったものではない。


 読めない名も、消えた名ではない。


 泥脈洞の祖霊室を預かる老女は、そのような名札をいくつも見てきた。


 母名のない札。


 子名だけが残る札。


 骨片印だけが付いた札。


 削られた跡の上に、別の名を重ねた札。


 何も読めないのに、捨ててはならないと伝えられた札。


 老女は、それらを正しい祖霊筋へ入れなかった。


 だが、燃やしもしなかった。


 名が分からないものを、分かった名へ押し込まなかった。


 違うとも、同じとも決めず、祖霊棚の奥へ分けて置いた。


 それが正しい手順なのか、老女自身にも分からなかった。


 ただ、分からないものを捨てれば、後から確かめることもできなくなる。


 そう知っていた。


 その老女は、赤黒い月の名も知っていた。


 アセリアヘカシエラ。


 彼女は、その意味を知らなかった。


 誰に教わったかも覚えていなかった。


 幼い頃に、さらに古い祖霊付きの女から聞いたのかもしれない。


 由来の分からない名札の裏に刻まれていたのかもしれない。


 月食の夜に、寝言のように誰かが口にしたのかもしれない。


 どれも確かではない。


 老女は、確かでないものを、確かな由来へ結びつけなかった。


 ただ、月が血の色をして昏くなる夜には、その名を口にしてはいけないと言った。


 子どもが尋ねた。


「なぜ」


 老女は答えなかった。


 答えられなかったのではない。


 答えを言葉にすれば、その名が家の中へ入ってくると思ったからである。


 あるいは、名を口へ出した者まで、その名の筋へ数えられてしまうと恐れたからである。


 後に老女は、白い菌糸の入った泥炭と、十五年前に削られた母名と、逆向きに置かれた骨片を前にする。


 その時も、老女はすぐには同じと決めなかった。


 違うとも決めなかった。


 分からぬものを、分かった形へ整えるな。


 泥炭も。


 名も。


 老女は、そう言うことになる。


 月食名を知っていたことと、その判断が同じところから来たのかは分からない。


 だが、どちらも、読めない名を捨てない者の手つきだった。


     *


 第7から第15まで、月の話はまた形を変える。


 海では、名を隠す歌になる。


 断崖では、降りる者の話になる。


 氏族では、名を持たぬ子を先に見る話になる。


 神殿都市では、覆面と変化する天の顔になる。


 島の国では、荒ぶる御魂と和らぐ御魂になる。


 天命の都では、記録される前の自分を映す水になる。


 糸の街では、内から出る白い線になる。


 草原では、走れぬ者をなお見る夜になる。


 地下では、読めない名を捨てない作法になる。


 どれも同じではない。


 だが、どれも似ている。


 名を持たぬもの。


 名を失ったもの。


 名を隠すもの。


 名にできないもの。


 名をつける前に見なければならないもの。


 そこに、月がいる。


 王立学術院は、これを一つの神話系統としてまとめたがる。


 月女神俗信。


 女性儀礼。


 婚姻外伝承。


 出産習俗。


 地下祖霊信仰。


 水辺歌謡。


 氏族外児童保護譚。


 競技祭祀に混入した天体神話。


 分類は増える。


 分類が増えるほど、中心が見えにくくなる。


     *


 ある学術院の写字生は、補遺の末にこう書いた。


 月に関する女たちの口伝は、各文化圏において著しく変形している。


 だが、変形後もなお、次の要素を失っていない。


 一、名を持たぬものを見つけること。


 二、制度の外へ降りること。


 三、父系または公的帳簿に記載されない結びを扱うこと。


 四、女の身体、子、失われた名、隠された名と結びつくこと。


 五、正統神話・公的記録・男系制度から軽視されること。


 写字生は、そこで筆を置いた。


 この五つを並べると、月の女神の話は、単なる俗信ではなくなる。


 それは、公的制度が拾わないものを、別の方法で保存するための器である。


 そう書きたかった。


 だが、書かなかった。


 書けば、補遺ではなく異端論になる。


 だから、彼は紙の端にだけ、小さく印をつけた。


 月の印ではない。


 女神の印でもない。


 ただ、後で自分だけが分かる印である。


 帳に載せられないものを、帳の端へ残すための印である。


     *


 月は、すべてを照らすわけではない。


 太陽のようには照らさない。


 王の広間を満たさない。


 神殿の白壁を輝かせない。


 軍旗を掲げさせない。


 税の道を明るくしない。


 月は、足りない光で見る。


 足りないから、影が残る。


 影が残るから、隠れたものが分かる。


 明るすぎる光では消えてしまうものが、月の下では輪郭を持つ。


 名を持たぬ獣。


 名を隠した歌。


 名に入れられない子。


 記録される前の女。


 ほどかれた糸。


 走れなくなった者。


 読めない祖霊札。


 それらは、太陽の下では見えにくい。


 正しい名を求められるからである。


 正しい家を求められるからである。


 正しい血を求められるからである。


 正しい帳を求められるからである。


 月は、それを急がない。


 見つける。


 近づく。


 名をつける前に見る。


 名を失っても忘れない。


 だから、女たちは月を見る。


 海でも。


 断崖でも。


 氏族の火のそばでも。


 神殿都市の覆面の下でも。


 禊の水の前でも。


 宮城の石盤の上でも。


 糸工房の奥でも。


 草原の寝床でも。


 地下の祖霊棚の前でも。


 月は、帳に書けぬものを忘れない。


 そして、忘れられなかったものは、いつか別の場所へ流れ着く。


 その場所の名を、彼女たちはまだ知らない。


 ただ、どの文化圏にも、そこへ向かうための小さなものが残っている。


 歌。


 口笛。


 毛並みを見る目。


 覆面。


 水盤。


 糸を隠す布。


 走れぬ者の寝床。


 読めない名札。


 それらは、神話ではなく、生活の中にある。


 だから、消えない。


 月の女神の話は、神殿の上には残らなかった。


 王の帳にも、父の系譜にも、学術院の清書にも残らなかった。


 けれど、洗われた布に残った。


 ほどかれた髪に残った。


 閉じられた箱に残った。


 水面に残った。


 歌の節に残った。


 糸の初めに残った。


 名札の裏に残った。


 そして、それを語る女たちがいる限り、月の女神は失われない。


 名を持たぬものを、最初に見た女神として。


 名を失ったものを、最後まで忘れない女神として。

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