表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/4

第1文化圏 人間 城門前の朝

 城門前の朝は、鐘より早く始まる。


 まだ東の空が白みきらないうちに、荷車の車輪が石畳を鳴らす。

 馬の息が白い。

 眠そうな門番が槍を肩に立てる。

 水桶を担いだ女が、門の脇を通り抜ける。

 パン焼きの煙が、低い屋根の上へ流れる。


 城壁の内側は、まだ静かである。


 だが、城門だけは別だった。


 城壁の外から来る者。

 城壁の内へ入る者。

 内から外へ出る者。

 荷を売る者。

 荷を隠す者。

 税を払う者。

 税を逃れようとする者。

 名を持つ者。

 名を持たぬ者。


 朝の門は、それらを一つずつ飲み込んでいく。


 飲み込みながら、帳へ落とす。


     *


 門番は、最初に顔を見る。


 刃物を隠していないか。

 荷の下に人を隠していないか。

 酔っていないか。

 病んでいないか。

 目が泳いでいないか。

 王都へ入れてよい者か。


 次に、記録係が札を見る。


 通行符。

 商会印。

 荷札。

 封紐。

 関所泥。

 納税済みの小印。


 門番が身体を見るなら、記録係は紙を見る。


 記録係の机には、小さな砂が置かれている。

 乾かぬ墨を吸わせるためである。


 その横に、封蝋を温める小さな火がある。

 その火は、料理のためではない。

 暖を取るためでもない。

 印を受けるための火である。


 火のそばには、古い布が一枚ある。

 封蝋を拭う布である。


 その布は、黒く汚れている。


 記録係の指も、朝のうちに黒くなる。


 だが、帳だけは汚してはならない。


 指は汚れてよい。

 布は汚れてよい。

 帳は汚してはならない。


 それが門の作法である。


     *


 最初の商隊が止められた。


 麦袋が八つ。

 塩樽が二つ。

 羊毛袋が三つ。

 壊れた荷箱が一つ。


 商人は眠たそうにあくびをした。


「昨日も通った。急いでくれ」


 門番は聞かない。


 昨日通った者が、今日も同じ荷を持つとは限らない。


 記録係が荷札を読む。


 麦袋八。

 塩樽二。

 羊毛袋三。

 修繕用箱一。


 帳と合う。


 だが、秤役は顔をしかめた。


 羊毛袋が、少し重い。


 羊毛は軽い。


 濡れれば重くなる。

 石を入れても重くなる。

 別の物を包んでも重くなる。


 商人は笑った。


「夜露を吸っただけだ」


 秤役は、袋の下を指で叩く。


 鈍い音がした。


 夜露の音ではない。


 門番が槍の石突で袋を軽く押す。

 羊毛の奥で、何か硬いものがずれた。


 商人の笑いが止まる。


 記録係は、まだ何も言わない。


 ただ、帳の余白へ短く書いた。


 ――羊毛袋三のうち一、重量不審。


 その一行だけで、商人の朝は変わる。


 城門は、剣より先に帳で止める。


     *


 門の横では、別の女が膝をついていた。


 洗い場の女である。


 彼女は、門番の外套の泥を落としている。


 王都の門番は、王の門を守る。

 その外套は、見えるところだけは整っていなければならない。


 女は桶の水で布を濡らし、泥をこすった。


 水はすぐ黒くなる。


 門番はそれを見ない。


 記録係も見ない。


 商人も見ない。


 水を捨てる場所だけが決まっている。

 門の内側ではない。

 神殿の水路でもない。

 市場の井戸でもない。


 石畳の低い溝へ流す。


 その溝は、下町へ向かう。


 下町の者は、朝になるとその水を避けて歩く。


 避けられない者もいる。


 裸足の子供。

 荷を担いだ下働き。

 朝市へ急ぐ老婆。

 足の悪い男。


 王都の清さは、いつも低い方へ流れる。


 門の上から見れば、石畳は洗われている。

 溝の下から見れば、汚れが来る。


 同じ水である。


 見る場所が違うだけである。


     *


 城門の内側には、商会倉がある。


 そこで荷は一度ほどかれる。


 全部ではない。


 全部をほどけば、商売は止まる。


 怪しいものだけをほどく。


 壊れたものだけを見る。

 重さの合わないものだけを見る。

 封紐が新しすぎるものだけを見る。

 泥の色が道と合わないものだけを見る。


 商会倉の奥では、若い鑑定係が働いていた。


 彼はまだ正式な役人ではない。


 学術院の者でもない。


 貴族の子でもない。


 ただ、商会が雇った目のよい若者である。


 彼は荷札を読む前に、紐を見た。


 それから、袋の端に残った泥を見た。


 次に、木札の穴の削れ方を見た。


「この荷は、東の関所を通っていません」


 商人が振り向いた。


 記録係も顔を上げた。


「荷札には東の印がある」


 若い鑑定係は頷いた。


「印だけです。泥は南の橋の下のものです。紐も一度ほどいています。木札の穴が広がっています」


 商人は怒鳴った。


 倉の中がざわつく。


 年配の書記が、若い鑑定係を睨んだ。


「言い切るな。帳へは疑いと書け」


 若い鑑定係は口を閉じた。


 そして、小さく言い直した。


「疑いあり」


 それなら書ける。


 記録係は帳へ落とす。


 ――羊毛袋一、申告路と付着泥に差異あり。封紐再結束の疑い。


 若い鑑定係の名は、まだ帳には出ない。


 不正の疑いだけが残る。


 それが王国である。


 見た者の名より、見つけた不正の方が先に残る。


     *


 商会倉の裏では、女たちが布を洗っていた。


 貴族館から出た白布。

 神殿の祭壇布。

 商会倉の荷覆い。

 兵舎の包帯。

 市場の魚布。

 門番の外套。

 旅籠の寝布。


 布は、同じ場所へ集められる。


 だが、同じようには洗われない。


 貴族館の白布は、先に洗う。

 神殿の祭壇布も先に洗う。

 商会倉の荷覆いは、泥を落としてから別に置く。

 兵舎の包帯は、女たちが嫌がる。

 魚布は臭いが強い。

 旅籠の寝布は、誰が寝たか分からない。


 汚れにも階級がある。


 白い布についた香油は、まだよい汚れである。

 市場の魚の血は、嫌な汚れである。

 兵舎の膿は、悪い汚れである。

 旅人の汗と寝息は、分からない汚れである。


 洗い場の女たちは、それを知っている。


 だが、帳には載らない。


 洗い場は、王国の下にある。


 水を使う。


 灰を使う。


 棒で叩く。


 手で揉む。


 爪の間が割れる。


 冬には指が裂ける。


 それでも、洗い終えた布だけが、清いものとして上へ戻る。


 洗った者の名は、戻らない。


     *


 昼近くになると、貴族の馬車が通った。


 門番は姿勢を正す。


 記録係は通行符を見るが、時間はかけない。


 馬車の車輪には、乾いた泥がついていた。

 外套を着た従僕が、馬車の後ろで布袋を抱えている。

 袋の口から、香草の匂いがする。


 洗い場の女が、顔を伏せた。


 従僕は彼女を見ない。


 貴族の娘が、馬車の小窓から外を見た。


 白い手袋。

 細い指。

 透けるような肌。


 彼女は、洗い場の女の赤く荒れた手を見た。


 ほんの一瞬だけ。


 その顔に、嫌悪はなかった。


 だが、理解もなかった。


 彼女にとって布は、朝には清く置かれているものだった。


 誰かが洗ったものではない。


 清い布は、清い場所に現れる。


 それが彼女の世界である。


 洗い場の女は、また灰を取った。


 指の裂け目に灰が入る。

 痛みが走る。

 それでも布をこする。


 清い布は、誰かの痛みを吸って白くなる。


 だが、それは帳へ書かれない。


     *


 午後、門の前で揉め事が起きた。


 通行符を持たない母子がいた。


 母親は、北の村から来たという。


 村は焼かれた。

 夫はいない。

 家名を示すものもない。

 ただ、子供を抱いている。


 門番は困った。


 通行符がない者を入れるわけにはいかない。


 だが、子供は熱を出している。


 神殿の施し列へ行かせるには、門を通さなければならない。


 記録係は、母親に父名を問うた。


 母親は答えられなかった。


 子の父は死んだのか。

 逃げたのか。

 名乗れない者なのか。

 母親が言わないのか。


 門番は、そこまでは聞かない。


 聞いたところで、帳へ落とせない。


 母名だけでは、通行記録が弱い。


 村名は焼けている。


 後見人はいない。


 商会の保証もない。


 神殿の紹介札もない。


 母子は、城壁の前に立っている。


 城壁は人を守る。


 同時に、人を止める。


 記録係はしばらく迷い、仮札を出した。


 仮滞在。

 神殿施し列まで。

 日没までに再確認。

 保証人なし。

 母名のみ。


 母親は、札の意味を半分も分かっていない。


 それでも、頭を下げた。


 子供は、熱のある頬を母の肩に押しつけている。


 門番は通した。


 記録係は帳へ書いた。


 ――父名不明の幼子一。母名のみ。神殿へ回す。


 それで、母子は王都へ入った。


 しかし、帳の上ではまだ薄い。


 薄い者は、消えやすい。


     *


 夕方、商会倉では朝の羊毛袋がほどかれていた。


 中から出てきたのは、申告にない銀片だった。


 銀片は布で包まれていた。


 布は羊毛の中に隠されていた。


 封紐は一度ほどかれ、別の泥をつけられていた。


 商人は言い逃れをした。


 荷運びは知らないと言った。


 門番は怒った。


 記録係は怒らなかった。


 ただ、帳へ書く。


 怒りは裁きの場に回せばよい。


 帳は怒らない。


 帳は残す。


 若い鑑定係は、倉の端に立っていた。


 誰も褒めない。


 商会主は、面倒なことを見つけたという顔をしている。


 年配の書記は、若者に小声で言った。


「次は、先に私へ言え。門前で言い切るな」


 若い鑑定係は頷いた。


「はい」


「お前の目は使える。だが、目だけで生きるな。帳に載せる順を覚えろ」


 若い鑑定係は、少しだけ黙った。


 それから、羊毛袋の中から出た銀片を見た。


「帳に載せれば、見えますか」


 年配の書記は、鼻で笑った。


「載せ方を間違えなければな」


 それが第1文化圏の答えだった。


 正しいものが見えるのではない。


 正しく載せたものだけが、見えるものになる。


     *


 夜になると、城門は閉じる。


 門の内側には明かりが残る。

 門の外側には暗がりが残る。


 商会倉では、今日の荷札がまとめられる。


 封紐は箱へ入れられる。

 偽装の銀片は別に置かれる。

 羊毛袋は証拠として保留される。

 記録係の帳には砂が撒かれる。

 門番の外套は、明日の朝また洗われる。


 洗い場の女たちは、最後に自分たちの布を洗う。


 貴族館の白布はもう干されている。

 神殿の祭壇布も干されている。

 商会の荷覆いも、兵舎の包帯も、魚布も、旅籠の寝布も、順に干された。


 女たちの手拭いは、最後である。


 水はもう冷たい。

 灰も湿っている。

 指は赤く割れている。


 それでも、彼女たちは洗う。


 明日もまた、清い布を上へ戻すために。


 下町の水路では、朝に流された泥がまだ黒く残っている。


 子供がそれを避けて跳ぶ。


 避け損ねた小さな足が、汚れた水を跳ねる。


 遠くで神殿の鐘が鳴る。


 城壁の上には、夜警の火が灯る。


 火の下で、王都は清く見える。


 水路のそばでは、そうでもない。


     *


 第1文化圏の一日は、帳で閉じる。


 誰が入ったか。

 誰が出たか。

 何を運んだか。

 何を偽ったか。

 誰が仮札で通されたか。

 誰が父名を記せなかったか。

 どの荷が止められたか。

 どの布が洗われたか。


 ただし、すべてが帳に載るわけではない。


 洗い場の女の裂けた指は載らない。

 父名を持たぬ子の熱は、短くしか載らない。

 若い鑑定係の名は、まだ載らない。

 門番の迷いも載らない。

 下町へ流れた水の行き先も載らない。


 王国は、帳で人を見る。


 だが、帳はいつも人の一部しか見ない。


 その見えない部分に、周縁者が生まれる。


 城壁の外ではない。


 城壁のすぐ内側に。


 朝の門の横に。


 洗い場の水の中に。


 商会倉の端に。


 仮札の薄い文字の下に。


 第1文化圏の秩序は強い。


 強いからこそ、そこからこぼれる者の影も濃い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ