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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第1文化圏 人間 父系貴族家と城壁の帳

 王立学術院は、人間王国を第1文化圏と呼ぶ。


 これは、第1であるから優れている、という意味ではない。


 王国の帳簿、関所、税、通行符、封蝋、婚姻証、相続証、土地台帳、商会印、軍務記録が、もっとも早く学術院の整理対象となったためである。


 分類の順であって、価値の順ではない。


 もっとも、王国貴族の多くは、そうは考えていない。


 第1文化圏。


 その言葉を聞けば、王都の大広間に集う貴族たちは、当然のように頷く。


 人間こそが秤を持つ。


 人間こそが法を持つ。


 人間こそが王を戴く。


 人間こそが十五文化圏の中心である。


 彼らはそう考える。


 王立学術院の分類官は、そのたびに注記を加える。


 ――第1とは、観測順序である。


 だが、その注記は、社交界ではほとんど読まれない。


     *


 第1文化圏の基礎は、父系貴族家である。


 土地は父の家名に紐づく。


 爵位は父の家名を通る。


 封土、館、兵、納屋、葡萄畑、粉挽き場、橋の通行権、森の伐採権、塩の保管権は、家名とともに継がれる。


 子は、父の家へ入る。


 婚姻は、家と家を結ぶ。


 娘は、家を移す。


 息子は、家を継ぐ。


 庶子は、記録の端へ置かれる。


 養子は、証人と封蝋がなければ争いになる。


 未亡人は、後見人を置かれやすい。


 母の血は軽く見られているわけではない。


 だが、帳簿へ載る時、母の血はしばしば脇へ寄せられる。


 家名。


 父名。


 爵位。


 土地。


 納税義務。


 兵役義務。


 王国の帳は、その順で人を見る。


 ゆえに、第1文化圏で名を持つとは、単に呼ばれることではない。


 帳に載ることである。


 帳に載らぬ者は、そこに生きていても、税の上では見えない。


 税の上で見えなければ、保護の上でも見えにくい。


 これが、第1文化圏の強さであり、欠陥でもある。


     *


 王国の都市は、城壁を中心に読むと分かりやすい。


 城壁の内側には、王、貴族、神殿、商会、工房、兵舎、広場、裁きの場がある。


 城門には門番がいる。


 門番の横には通行記録がある。


 通行記録の横には、税を取る者がいる。


 税を取る者の奥には、印を押す者がいる。


 印を押す者の後ろには、帳簿を読む者がいる。


 そして、帳簿を読む者のさらに後ろには、帳簿を書き換える者がいる。


 第1文化圏は、剣だけで立っているのではない。


 帳で立っている。


 誰が入ったか。


 何を運んだか。


 どの橋を通ったか。


 どの商会印があるか。


 荷の重さはいくらか。


 税をいくら払ったか。


 封蝋は破れていないか。


 前月と同じ量か。


 今年はなぜ麦袋が減ったのか。


 なぜ塩樽の数が合わないのか。


 なぜ死んだはずの商人の印が、まだ荷札に残っているのか。


 王国は、剣で切る前に、帳で疑う。


 それが第1文化圏である。


     *


 この文化圏において、度量衡は政治である。


 秤は、ただ重さを量る道具ではない。


 税を決める道具である。


 升は、ただ穀物をすくう器ではない。


 飢える者と蓄える者を分ける器である。


 尺は、布を売るためだけのものではない。


 兵舎の材、橋の幅、城壁の修繕、墓地の区画を決める線である。


 王国は、統一された秤を持とうとする。


 だが、辺境では崩れる。


 商人の秤。


 村の秤。


 関所の秤。


 修道院の秤。


 鉱山から来た古い重り。


 ドワーフ商人が置いていった重り。


 水を吸って歪んだ升。


 底を厚くした枡。


 縁を削った銅皿。


 見た目は同じでも、量は同じではない。


 その差は小さい。


 だが、十袋、百袋、千袋と積めば、差は金になる。


 金になれば、不正になる。


 不正になれば、貴族と商人と関所役人が絡む。


 辺境度量衡監査官が必要とされるのは、そのためである。


 彼らは英雄ではない。


 剣を振るう者でもない。


 ただ、秤を見て、印を見て、帳を見て、前月との差を見る。


 その地味な作業が、時に反乱より大きな嘘を暴く。


     *


 第1文化圏は、整っている。


 少なくとも、そう見える。


 法がある。


 王がいる。


 貴族がいる。


 神殿がある。


 市場がある。


 通行証がある。


 税率がある。


 婚姻証がある。


 相続証がある。


 裁きの場がある。


 だから、王国の者は、自分たちを秩序の民と呼ぶ。


 だが、秩序は、常に誰かを外へ押し出す。


 家名を持たぬ者。


 父を記せぬ子。


 証人のない婚姻。


 封蝋を失った契約。


 通行証を持たぬ旅人。


 故郷を焼かれた農民。


 商会印を偽造された荷運び。


 領主の帳に載らない孤児。


 死んだ夫の家から追い出された女。


 戦で片腕を失い、兵役にも農役にも戻れない男。


 彼らは王国の内側にいる。


 だが、帳の上では端に寄せられる。


 周縁者とは、遠い荒野にだけいる者ではない。


 城壁の影にもいる。


 門の内側にもいる。


 市場の裏にもいる。


 貴族館の台所にもいる。


 神殿の施し列にもいる。


 王国は彼らを完全には捨てない。


 だが、完全には見ない。


 これが第1文化圏の法制上、家系上の弱点である。


     *


 第1文化圏の衛生は、階層によって分かれる。


 貴族館には湯がある。


 香草がある。


 白い布がある。


 銀の器がある。


 水を運ぶ下働きがいる。


 汚れた布を洗う者がいる。


 糞尿を運び出す者がいる。


 つまり、清さはある。


 だが、それは仕組みによって支えられているのではなく、身分差によって押し流されている。


 汚れは消えない。


 下へ移る。


 台所から裏庭へ。


 裏庭から水路へ。


 水路から低い町へ。


 低い町から川へ。


 川から下流の村へ。


 王都の高い窓から見れば、街は整って見える。


 しかし、下町の水路を見れば、王国の清さがどこへ押しやられているか分かる。


 この文化圏の衛生上の欠陥は、無知だけではない。


 分業があるのに、隔離が足りないこと。


 水を使うのに、水の行き先を見ないこと。


 布を洗うのに、汚れを受けた者の身体を見ないこと。


 清い者と汚れた者を、身分として分けてしまうこと。


 それが問題である。


 貴族館の寝台は清い。


 だが、その清さを支える洗い場の女の手は荒れている。


 神殿の祭壇は清い。


 だが、施しを待つ病人の列は、雨の泥の中にある。


 王国は、清さを持つ。


 しかし、清さを共有する術はまだ弱い。


     *


 第1文化圏における周縁者の典型は、帳の隙間に生まれる。


 たとえば、商会の下働きである。


 彼らは荷を担ぐ。


 だが、荷の値は知らない。


 封紐を結ぶ。


 だが、封印の意味は知らない。


 関所を通る。


 だが、税率の差は知らない。


 袋の重さを肩で覚える。


 だが、帳簿には名が残らない。


 こうした者の中に、稀に奇妙な者が現れる。


 数字に強すぎる者。


 荷の臭いだけで中身を言い当てる者。


 破れた封紐を見ただけで、どの関所を通ったかを当てる者。


 商人より先に不正を見抜く者。


 王立学術院は、そうした者を歓迎するとは限らない。


 身分が低ければ、推薦状が要る。


 推薦状には家名が要る。


 家名がなければ、後見人が要る。


 後見人がいなければ、才能は市場の裏で消える。


 このため、第1文化圏では、才能そのものより、才能を帳に載せる経路が重要になる。


 それを持たぬ者は、いくら見えていても、見えていない者として扱われる。


     *


 近年、王都南門の商会倉で、妙な噂があった。


 若い鑑定係が、封蝋を割らずに荷の偽装を見抜いたという。


 袋の膨らみ。


 紐の締まり。


 木札の乾き。


 関所印の泥。


 秤皿へ載せる前のわずかな重み。


 それだけで、中身と帳の差を言い当てたらしい。


 商会主は、その若者を気味悪がった。


 荷運びたちは、目がよすぎるのだと言った。


 古い書記は、あれは一度同じ不正で死んだ者の目だ、と笑った。


 王立学術院の記録には、まだ名はない。


 ただ、南門倉の帳の端に、次のような注記が残っている。


 ――鑑定係一名、荷札偽装を見抜く。

 ――商会印、旧印と新印の混在を指摘。

 ――関所泥の色により、申告路と実通行路の差を疑う。

 ――詳細、後日確認。


 この者が何者であるかは、第1文化圏の説明において本筋ではない。


 ただし、王国という文化圏の性質をよく示している。


 才能があっても、帳に載らなければ存在しない。


 だが一度帳に載れば、その者は王国の歯車となる。


 歯車は小さい。


 しかし、小さい歯車が止まれば、大きな門も動かない。


     *


 第1文化圏を理解するには、王だけを見てはならない。


 貴族だけを見てもならない。


 華やかな婚礼だけを見てもならない。


 城壁と門。


 門と通行証。


 通行証と税。


 税と荷札。


 荷札と秤。


 秤と帳。


 帳と家名。


 家名と父。


 父と相続。


 相続からこぼれる者。


 その順で見なければならない。


 第1文化圏は、十五文化圏の中で最も自らを中心と信じている文化圏である。


 同時に、最も多くの周縁者を、中心のすぐそばに抱えている文化圏でもある。


 王国は、秩序によって人を守る。


 王国は、秩序によって人を見失う。


 その二つは、同じ帳の表と裏である。

お読みいただきありがとうございます。


本作『第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄』は、本編『第十六個体観測録』の補助短編です。

本編では、王立学術院所属の辺境度量衡監査官補アリアと、第十六個体周辺群の観測を中心に物語が進みます。


本編とあわせて読むと、十五文化圏や周縁者たちの背景が少し見えやすくなると思います。


https://ncode.syosetu.com/n6732mh/

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