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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第1文化圏 人間 洗い場の手

 洗い場の朝は、手から始まる。


 目ではない。


 鐘でもない。


 帳でもない。


 水に手を入れた時の冷たさで、ミラはその日の朝を知る。


 冬に近い日は、桶の水が骨まで入る。


 雨の翌日は、布が重い。


 晴れた翌日は、泥が乾いて落ちにくい。


 兵舎の包帯が多い日は、湯の臭いが早く変わる。


 魚布が多い日は、桶を間違えると一日が終わる。


 ミラは、桶の縁に手をかけた。


 水は冷たい。


 だが、まだ動く。


 手が動くなら、仕事になる。


 仕事になるなら、銭になる。


 銭になるなら、子を食わせられる。


 それだけのことで、朝は始まる。


     *


 洗い場には、布が集まる。


 貴族館の白布。


 神殿の祭壇布。


 兵舎の包帯。


 商会倉の荷覆い。


 市場の魚布。


 門番の外套。


 旅籠の寝布。


 下働きの前掛け。


 捨てるには早いが、上へ戻すには汚れすぎた麻布。


 布は、同じ場所へ来る。


 しかし、同じものとしては扱えない。


 白布は白布の桶へ。


 祭壇布は、魚布の近くへ置かない。


 兵舎の包帯は、先に熱を抜く。


 膿のついたものは別にする。


 血の乾いたものは、湯へ入れる前に裂け目を開く。


 魚布は水を替える。


 旅籠の寝布は、誰が寝たか分からない。


 だから、分からないものとして扱う。


 分からない汚れを、分かっている布へ近づけてはならない。


 ミラは、それを誰かから習ったわけではない。


 母から少し聞いた。


 先にいた女から怒鳴られた。


 間違えて臭いを移し、夜まで叩かれたこともある。


 膿の布を白布の桶へ近づけ、神殿の下働きに罵られたこともある。


 手が裂けたまま灰を扱い、三日ほど指が動かなかったこともある。


 だから覚えた。


 覚えなければ、洗い場では生きられない。


 清い布と汚れた布。


 それは、貴族と下働きの違いではない。


 扱い方の違いである。


 清い布も、放っておけば汚れる。


 汚れた布も、扱いを間違えなければ、まだ戻せる。


 腐った布は捨てる。


 使える布は残す。


 近づけてよいものと、近づけてはならないものを分ける。


 ミラにとって、それは祈りより確かな規則だった。


     *


 洗い場の端に、子が座っていた。


 ミラの子である。


 名はリノ。


 リノは、桶の影で膝を抱え、眠そうに母の手を見ている。


 帳の上では、リノの欄は薄い。


 母名はある。


 父名は、ない。


 ない、というより、書けない。


 誰かに奪われたわけではない。


 誰かに問えば済む話でもない。


 名乗れば守られる父ではなく、名乗ればさらに面倒になる父というものも、この街にはいる。


 だから、ミラは書かなかった。


 書けなかった。


 書かないことにした。


 記録係は、羽根ペンを止めた。


 神殿の者は、目を伏せた。


 洗い場の女たちは、何も言わなかった。


 そういう子は珍しくない。


 珍しくないから、軽く扱われる。


 珍しくないから、救われるわけではない。


 リノは、帳の上では薄い。


 だが、そこにいる。


 ミラが名を呼べば、顔を上げる。


「リノ」


 子は、ぱっと母を見た。


 眠そうな目。


 汚れた袖。


 細い首。


 それでも、確かに振り向く。


 帳に薄くても、声には薄くならない。


 ミラは、そう思う。


 言葉にはしない。


 言葉にすれば、誰かが笑う。


 洗い場では、笑われる言葉は水より早く広がる。


 だから、ミラはただ布を絞る。


 絞りながら、もう一度だけ子の名を呼ぶ。


「そこ、濡れるよ」


 リノは少しだけ場所を移した。


 それだけでよい。


     *


 昼前、商会倉の方から若い男が来た。


 南門倉の、目のよい若い鑑定係である。


 名は、ミラも知らない。


 父名も知らない。


 家名も知らない。


 ただ、洗い場の女たちの間では「あの目のよい子」で通じる。


 泥を見て、通った道を疑う。


 封紐を見て、ほどいた者を疑う。


 荷札の穴の削れ方を見て、札の使い回しを疑う。


 商人よりも、記録係よりも先に、荷の嘘を見つけることがある。


 そういう者は便利である。


 便利な者は、長く無事ではいられない。


 ミラはそう思っている。


 若い鑑定係は、布を一枚抱えていた。


 濃い泥がついた荷覆いだった。


 泥だけではない。


 端に、灰色の粉が薄くついている。


 ミラは、彼が桶へ近づく前に言った。


「止まりな」


 若い鑑定係は足を止めた。


「これは、どこへ出せば」


「どこにも出すな。まだ水へ入れるんじゃない」


「泥を落とすように言われました」


「泥だけなら落とす。粉がついてる」


 若者は布を見た。


「銀片を包んでいたものです」


「なら、なおさら水へ入れるな」


「銀なら、汚れではないのでは」


 ミラは、思わず笑った。


 若者は不思議そうにする。


 目はよい。


 だが、水の前では素人だ。


「銀がきれいかどうかなんて、私には関係ないよ。粉は水へ移る。水へ移れば、他の布へ移る。包帯へ移れば傷へ入る。傷へ入れば、兵士が怒る前に傷が悪くなる」


 若者は、すぐに布を引いた。


「では、どうすれば」


「石の上に広げる。乾かす。払う。それから水。魚布の桶へも、包帯の桶へも近づけるな」


「白布は」


「論外だよ」


 若者は頷き、言われた通りに荷覆いを石の上へ広げた。


 動きは素直だった。


 だが、素直な者ほど、使われやすい。


 ミラは濡れた手を前掛けで拭き、布の端を確かめた。


 確かに粉がある。


 泥もある。


 封蝋の煤もある。


 商会倉の臭いもある。


 羊毛の臭いも少し残っている。


 荷覆いとは便利な布である。


 便利だから、何にでも使われる。


 何にでも使われるから、何を抱いたか分からなくなる。


「これを、白布の桶へ入れたらどうなりますか」


 若者が聞いた。


「怒られる」


「誰に」


「まず、貴族館の下働きに。次に、神殿に。最後に、洗い場の女たちに」


「最後が一番怖そうです」


「分かってるじゃないか」


 若者は、ほんの少しだけ笑った。


 笑うと、少し幼く見えた。


 ミラは、彼を見すぎないようにした。


 目のよい者は、見られることにも敏い。


     *


 若い鑑定係は、石の上の荷覆いを見ていた。


 泥。


 粉。


 煤。


 紐の跡。


 何度も折られた皺。


 彼には、そこから多くのものが見えるのだろう。


 どの橋を通ったか。


 どの倉で積み替えたか。


 どの商人が嘘をついたか。


 どの封紐が後から替えられたか。


 ミラには、そこまでは見えない。


 だが、別のものなら見える。


 水へ入れてよいか。


 先に乾かすべきか。


 膿の桶から離すべきか。


 熱を持った布か。


 臭いが移る布か。


 もう戻せない布か。


 まだ使える布か。


 見るものが違うだけで、見ていないわけではない。


「帳にも、こういう欄が要るのかもしれません」


 若者が言った。


 ミラは、桶の水を替えながら聞いた。


「こういう欄って、何だい」


「混ぜてよいものと、混ぜてはいけないものです」


「帳に書く前に分けないと、手遅れになるものもあるよ」


「手遅れ」


「水へ入れた後で、これは白布に近づけるなと言っても遅い。膿の布を祭壇布の桶へ入れた後で、間違いでしたと言っても遅い。子が熱でぐったりしてから、水が足りませんでしたと言っても遅い」


 若者は黙った。


 ミラは布を絞る。


「帳は便利なんだろうね。あとから見るには」


「はい」


「でも、水はあとから戻らない」


 若者は、石の上の荷覆いを見たまま、低く言った。


「帳に載せれば、見えると思っていました」


「見えるものもあるんだろうさ」


 ミラは、手元の布を石に叩きつけた。


 水が跳ねる。


「でも、帳に載る前に見ないと悪くなるものもある」


 若者は、その言葉を覚えようとしているようだった。


 覚えられても困る、とミラは思った。


 洗い場の言葉など、帳へ載せるものではない。


 だが、若者の目は、泥や封紐だけでなく、言葉の端まで拾ってしまう。


「あなたは、なぜ分かるのですか」


「何が」


「どの布を近づけてはいけないか」


「間違えたからだよ」


 ミラは即答した。


「間違えて、怒られて、臭わせて、病ませて、手を裂いて、覚えた。目がいいわけじゃない」


「それも、見ることでは」


「違うね」


「違いますか」


「見るだけなら、痛くない」


 若者は、そこで言葉を止めた。


 ミラは少しだけ意地悪を言いすぎたかと思った。


 だが、謝らない。


 洗い場で謝ってばかりいると、湯も灰も取られる。


     *


 午後、門の方から一組の母子が来た。


 昨日か、今朝か、仮札で通された母子だとミラはすぐに分かった。


 そういう者は、歩き方で分かる。


 門をくぐった者の足取りではない。


 まだ、入れてもらっただけの者の足取りである。


 母は若い。


 旅装は薄い。


 抱かれた子は、熱を持っている。


 頬が赤い。


 唇が乾いている。


 泣く力も弱い。


 母は、神殿裏の施し列へ向かう途中なのだろう。


 だが、どこへ行けばよいのか、まだ分かっていない。


 洗い場の女たちは、皆見た。


 だが、手は止めない。


 止めれば仕事が遅れる。


 遅れれば誰かが怒る。


 怒られるのは、いつも洗う者である。


 ミラは、桶の横に置いていた古い麻布を取った。


 昨日洗ったものだ。


 白布ではない。


 戻す先もない。


 だが、まだ使える。


 子の肩にかけるには足りる。


「そこの人」


 母が足を止めた。


 ミラは麻布を差し出した。


「子にかけな。門の石は冷える」


 母は戸惑った。


「お金は、ありません」


「捨て布だよ」


 嘘である。


 捨てるつもりはなかった。


 だが、そう言わなければ受け取らない顔をしていた。


 母は、ためらいながら布を受け取った。


 子の肩へかける。


 子が少しだけ身じろぎした。


 ミラは、それを見た。


 動いた。


 まだ、動く。


 なら、布を渡した理由には足りる。


「水は飲ませたかい」


 母は首を振った。


「どこで、もらえるか分からなくて」


「神殿へ行く前に、井戸の横で頼みな。空腹より先に水だよ。熱があるなら、なおさら」


 母は頷いた。


 その頷きも頼りない。


 仮札を握る手が震えている。


 木片には、母名だけが書かれているのだろう。


 子の父名は、おそらく空いている。


 ミラは、見なくても分かった。


 自分も通った欄だからだ。


 母が、小さく言った。


「母の名だけでは、だめなのでしょうか」


 若い鑑定係が、石の上の荷覆いから顔を上げた。


 洗い場の水音が、少しだけ遠くなる。


 ミラは、濡れた手を前掛けで拭いた。


「ここでは、足りないんだろうね」


 母の顔が沈む。


 だから、ミラは続けた。


「でも、呼ぶには足りる」


「呼ぶ」


「その子、名は」


 母は、抱いた子を見る。


 そして、小さく名を呼んだ。


 子のまぶたが、ほんの少し動いた。


 母は息を止めた。


 もう一度呼ぶ。


 今度は、子が母の服を弱く握った。


 ミラは頷いた。


「ほら。足りてる」


 母の目に、涙が浮かんだ。


 泣くなら早く行きな、とミラは思う。


 言わない。


 泣くことまで急かすほど、ミラも冷たくはない。


 ただ、長く止まられると、こちらも困る。


「神殿裏は、あっちだよ。先に水。次に日陰。列に並ぶなら、子を風に当てすぎない」


 母は何度も頭を下げた。


 布を抱え直し、子を抱いて歩いていく。


 仮札の薄い木片が、指の間に見えた。


 あれは三日で効力を失う。


 ミラはそれを知っている。


 三日で父名は生えない。


 三日で家名も戻らない。


 三日で焼けた村が元に戻るわけでもない。


 それでも、王国は三日と書く。


 帳に書ける長さが、三日だからだ。


     *


 若い鑑定係は、しばらく母子の背を見ていた。


「今のことも、帳に載りますか」


 ミラは笑わなかった。


「載らないね」


「仮札は載ります」


「布は載らない」


「水を先に、と言ったことも」


「載らない」


「子が名に反応したことも」


「載らない」


「でも、必要です」


「そうだよ」


 若者は、困ったような顔をした。


 泥の色や封紐の癖なら、見たものを帳へ落とせるのだろう。


 だが、今のものは落としにくい。


 母が名を呼んだ。


 子が指を動かした。


 古い麻布が一枚減った。


 水を先にと言った。


 それが何の証になるのか。


 どの欄に書くのか。


 誰の責任にするのか。


 若者は、まだ知らない。


 ミラも知らない。


 ただ、知らなくても、やることはある。


「何でも帳に載せようとすると、手が止まるよ」


 ミラは言った。


「手が」


「子が冷えてる時に、まず何の欄か考えるのかい」


 若者は首を振った。


「いいえ」


「なら、そういうことだよ」


 若者は、しばらく黙ってから、小さく言った。


「でも、載らないものは、忘れられます」


 ミラは、布を絞る手を止めた。


 その言葉は、少しだけ重かった。


 若者は続ける。


「荷も、名も、泥も、印も、載せなければ消えます。誰かが言い逃れます。誰かが、なかったことにします」


「そうだろうね」


「では、今のようなことは」


「誰かが覚えているしかない」


「誰が」


 ミラは、桶の水を見た。


 濁った水。


 浮いた糸くず。


 沈んだ泥。


 水面に映る自分の顔は、ゆがんでいる。


「洗った者。抱いた者。呼んだ者。水を渡した者。見てしまった者」


 若者は、その言葉を聞いていた。


「見てしまった者」


「お前さんも、見ただろ」


 若者は、はっとしたように母子が消えた方を見た。


 それから、静かに頷いた。


 ミラは少しだけ後悔した。


 この若者に、余計な荷を背負わせたかもしれない。


 しかし、見てしまったものは仕方がない。


 見なかったことにできる者と、できない者がいる。


 この若者は、おそらく後者である。


     *


 夕方、洗い場は冷え始めた。


 貴族館の白布は干された。


 神殿の祭壇布も干された。


 兵舎の包帯は、別の竿にかけられた。


 魚布は、風下へ回された。


 旅籠の寝布は、まだ少し臭う。


 商会倉の荷覆いは、乾いた粉を払ってから、ようやく水に入れられた。


 若い鑑定係は、最後までそれを見ていた。


 泥を見る時より、少し困った顔をしている。


「まだ何か見えるのかい」


 ミラが聞く。


「分からないものが増えました」


「なら、よかったじゃないか」


「よかったのですか」


「分かってるつもりで混ぜる方が危ない」


 若者は、また黙った。


 彼は、黙ることができる。


 それは悪くない、とミラは思った。


 目がよくて、すぐ言い切る者は危ない。


 だが、黙って見直せるなら、まだ使い潰されずに済むかもしれない。


 商会倉の方から、年配の書記が呼ぶ声がした。


 若い鑑定係は振り返る。


「戻ります」


「ああ」


「布のこと、ありがとうございました」


「次からは、桶へ入れる前に聞きな」


「はい」


 若者は、少し迷ってから言った。


「あなたの名を、聞いてもよいですか」


 ミラは手を止めた。


 洗い場の女たちが、こちらを見た。


 名を聞かれることは珍しくない。


 だが、商会倉の若い者が、洗い場の女の名を聞くことは少ない。


 ミラは、しばらく若者を見た。


 その目は、帳へ載せるための目ではなかった。


 少なくとも、今は。


「ミラ」


 若者は頷いた。


「ミラ」


「父名は聞かないのかい」


 ミラは、少し意地悪く言った。


 若者は、真面目に答えた。


「今、必要ですか」


 ミラは笑った。


 今度は、少しだけ本当に笑った。


「必要ないね」


「では、聞きません」


 若者はそう言って、商会倉へ戻っていった。


 ミラは、その背を見送った。


 変な子だ、と洗い場の女の一人が言った。


 ミラは答えなかった。


 変な子で済めばよい。


 目がよすぎる者は、時々、変な子では済まなくなる。


     *


 日が落ちる前、ミラは最後に自分たちの布を洗った。


 仕事の布が先である。


 貴族館。


 神殿。


 兵舎。


 商会。


 旅籠。


 市場。


 門番。


 それらが終わってから、洗い場の女たちの手拭いが桶へ入る。


 水はもう冷たい。


 灰は湿っている。


 指の裂け目にしみる。


 ミラは顔をしかめたが、手は止めない。


 リノが、桶のそばで眠りかけていた。


「リノ」


 子は目を開けた。


「帰るよ」


 リノは立ち上がる。


 少しふらつく。


 ミラは、濡れていない方の手で支えた。


 小さな肩。


 細い腕。


 温かい首筋。


 帳に薄い子。


 声には薄くない子。


 ミラは、その手を握った。


 洗い場の女たちは、今日の汚れた水を低い溝へ流す。


 水は下町へ向かう。


 王都の清さは、今日も低い方へ流れていく。


 ミラは、それを見た。


 見たからといって、止められるわけではない。


 だが、見なかったことにはできない。


     *


 夜、城門の明かりが遠くに見えた。


 商会倉では、若い鑑定係がまだ帳を見ているのかもしれない。


 今日の荷覆い。


 銀片。


 封紐。


 泥。


 申告路。


 疑いあり。


 そうしたものは、どこかに書かれる。


 だが、洗い場の水の冷たさは書かれない。


 ミラの裂けた指は書かれない。


 古い麻布を渡したことも書かれない。


 母が子の名を呼び、子が弱く指を動かしたことも、たぶん書かれない。


 リノが母の声で立ち上がったことも、どの帳にも載らない。


 けれど、なかったことではない。


 ミラはリノの手を引いた。


 子の手は小さい。


 濡れていない。


 それだけで、今日の仕事の終わりとしては十分だった。


 王国は、帳で人を見る。


 けれど、帳に載らないものを見ている者もいる。


 水の冷たさで朝を知る者。


 布の臭いで危うさを知る者。


 子の熱で夜の長さを知る者。


 名を呼んだ時の反応で、命がまだそこにあることを知る者。


 ミラは、そういう目を持っている。


 ただし、それは王立学術院が欲しがる目ではない。


 商会が雇う目でもない。


 貴族が名を与える目でもない。


 洗い場で手を裂きながら、こぼれたものを拾うための目である。


 その目が、いつか城壁の外を向くことになるなど、この時のミラはまだ知らない。


 ただ、リノの手を握り、低い水路を避けて歩いた。


 帳には載らない帰り道を、母と子で歩いていた。

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