表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/22

第5文化圏 ラミア 毒を盛らぬ女

セレナは、毒を盛る女と呼ばれていた。


 もちろん、本人の前でそう呼ぶ者は少ない。


 回廊の柱の陰で言う。


 香料茶の湯気に隠して言う。


 紙干し場の端で言う。


 井戸の順番を待つ間に言う。


 薬壺の蓋を閉めたあとで言う。


 あの女は毒を盛る。


 あの家は水を隠す。


 あの壺には眠り薬が混じっている。


 あの紙には都合の悪いことが書かれていない。


 そう言われていた。


 セレナは、青壺の家の長女である。


 青壺の家は、古い薬師家だった。


 井戸を二つ持つ。


 薬草畑を三つ持つ。


 紙干し場の一角に優先権を持つ。


 南水路の分岐に発言権を持つ。


 病の年には、水と薬を配った記録がある。


 尊ばれる家である。


 だから、疑われる家でもあった。


 薬を作れる家は、毒を作れる家である。


 水を配れる家は、水を止められる家である。


 紙に記録を残せる家は、紙から記録を消せる家である。


 第5文化圏では、その三つは切り離せない。


 セレナは、その家の長女だった。


 賢い。


 それは、誰も否定しない。


 水の匂いを分ける。


 薬草の干し時を外さない。


 紙の端の湿りを見る。


 壺の蓋のずれに気づく。


 水路の砂の噛み方を覚えている。


 誰が、どの桶を、どの順で置いたかを記録している。


 だが、可愛げはない。


 これも、誰も大きくは否定しない。


 笑うのが遅い。


 返事が短い。


 曖昧な褒め言葉を受け取れない。


 香料茶の席で、茶より先に皿の縁を見る。


 婚約の話をされても、水路の順を先に考える。


 誰かが「大丈夫」と言うと、「何を根拠に」と返してしまう。


 それに比べて、妹のリリアは可愛かった。


 誰もが、そう言った。


 リリアは、青壺の家の次女である。


 姉と同じ長い尾を持ち、同じ青い壺の紋を持ち、同じ薬草畑で育った。


 だが、まるで違った。


 笑顔が柔らかい。


 声が甘い。


 人の話を最後まで聞く。


 香料茶を注ぐ手つきが美しい。


 相手が望む言葉を、相手が望む時に言える。


 評議の老人にも、若い男にも、紙干し場の女にも、井戸守にも、同じように好かれる。


 リリアは水を見ないわけではない。


 薬を知らないわけでもない。


 紙を扱えないわけでもない。


 ただ、それ以上に人を見た。


 誰が怒っているか。


 誰が怖がっているか。


 誰が褒められたいか。


 誰が黙っていてほしいか。


 誰が、今、姉の言葉に傷ついたか。


 それが分かる。


 だから、リリアは可愛がられた。


 セレナは、信頼された。


 リリアは、愛された。


 その違いは、水路の細い段差のように、いつもそこにあった。


     *


 リリアには、誰にも言わない感覚があった。


 予感、と呼ぶには形がありすぎる。


 記憶、と呼ぶには由来がない。


 夢、と呼ぶには、目覚めても薄れなかった。


 青壺の家。


 白香の家。


 婚約茶。


 姉が茶を飲まないこと。


 回廊の空気が固くなること。


 白香の家の者が、静かに怒ること。


 姉が「分かりません」と言うこと。


 そして、自分が前に出れば、場が少しだけ戻ること。


 リリアは、それを知っているような気がしていた。


 知らないはずなのに、知っている。


 まだ起きていないはずなのに、手順だけが胸の奥に沈んでいる。


 姉を憎んでいるわけではない。


 姉は賢い。


 姉は間違ったことを言わない。


 けれど、正しいだけでは愛されない。


 水を見すぎる者は、人の顔を見落とす。


 紙を乾かす者は、言葉まで乾かしてしまう。


 毒と断じない姉は、誰からも安心されない。


 だから、誰かが間に入らなければならない。


 リリアは、そう思っていた。


 自分ならできる。


 白香の家も。


 青壺の家も。


 婚約者も。


 そして、たぶん姉も。


 誰も壊れきらない形へ、そっと戻すことができる。


 そう信じていた。


     *


 その朝、青壺の家には婚約の使いが来ていた。


 相手は、白香の家である。


 白香の家は、香料倉を多く持つ家だった。


 白い壺。


 甘い香り。


 薄い紙。


 水脈評議でも声が大きい。


 青壺の薬と、白香の香料が結べば、街の東側の水は、ほとんど二つの家で握れる。


 だから、この婚約は大きかった。


 回廊には、敷物が出された。


 香料茶が出された。


 青い釉薬の皿に、乾いた果皮が並べられた。


 薄い紙に、婚約条件の控えが置かれた。


 中庭の泉には、朝の水が静かに落ちていた。


 白香の家から来た若い男は、サイードといった。


 美しい男だった。


 鱗は淡く、尾は長い。


 声は柔らかい。


 香料茶を持つ手もきれいだった。


 リリアは、サイードに茶を注いだ。


 その手元は乱れなかった。


 杯を置く高さ。


 目を伏せる角度。


 微笑む間。


 返事をする前の小さな沈黙。


 すべて、自然にできた。


 サイードは、リリアに微笑んだ。


 リリアも微笑み返した。


 セレナは、その横で茶の皿を見ていた。


 サイードが言った。


「青壺の長女は、噂より静かですね」


 セレナは頭を下げた。


「水場では、あまり大きな声を出しません」


「なぜ」


「聞き落とすからです」


「何を」


「水の音を」


 サイードは少し笑った。


 その笑いは、悪意ではない。


 ただ、セレナの言葉を、少し風変わりなものとして受け取った笑いだった。


 リリアは、その空気を読んだ。


 すぐに柔らかく言う。


「姉は昔から、井戸の声まで聞こうとするのです。おかげで、我が家の薬壺は何度も助けられました」


 サイードの笑みが戻る。


「頼もしい妹君ですね」


「姉が頼もしいのです。私は、それを皆さまに分かりやすくお伝えしているだけです」


 回廊に小さな笑いが生まれた。


 リリアの言葉は、場を救った。


 セレナは、茶の皿から目を離さなかった。


 茶の香りが、少し強い。


 朝に出すには、白香が多い。


 祝いの席だからかもしれない。


 だが、皿の縁に小さな油の輪がある。


 香料の油ではない。


 薬草の油でもない。


 水壺の底に残るものに似ていた。


 セレナは、茶を飲まなかった。


 リリアは、それを見た。


 胸の奥で、薄く息を吸う。


 この先を、知っている気がした。


 姉は茶を疑う。


 サイードの顔が固くなる。


 白香の家の者が怒る。


 母が姉を黙らせようとする。


 自分が前に出る。


 場は、完全には壊れない。


 リリアは、香料茶の杯を両手で持ったまま、静かに待った。


 サイードが言った。


「気に入りませんか」


 セレナは答える。


「いえ」


「では、なぜ」


「少し、香りが強いので」


 その場の空気が、ほんの少し固くなった。


 香料の家で、香りが強いと言う。


 それは褒め言葉にもなる。


 だが、この場では違う意味にも取れる。


 白香の家の年長者が、静かに言った。


「毒だと?」


 セレナは首を振った。


「毒とは申していません」


「では」


「まだ分かりません」


 まだ分からない。


 それは、疑っているという意味に聞こえる。


 青壺の母が、セレナを見た。


 黙りなさい、という目だった。


 サイードの表情も、固くなった。


 リリアは、そこで杯を置いた。


「申し訳ありません」


 声は柔らかかった。


「姉は、毒などと申しているのではありません。ただ、青壺の家では、香りの強い茶に慣れておりませんので」


 白香の年長者がリリアを見る。


 リリアは続ける。


「祝いの席で、白香の香りを疑うなど、あってはならないことです。姉の言葉が足りませんでした」


 セレナが顔を上げた。


「リリア」


 リリアは、姉を見なかった。


 見れば、言えなくなる気がした。


 だから、サイードを見た。


「どうか、お許しください。姉は水と薬には強いのですが、人の心には少し遅いのです」


 場に、かすかな笑いが戻った。


 サイードの顔も少し緩む。


 白香の家の者たちは、リリアの言葉を受け取った。


 青壺の母も、それ以上セレナに話させなかった。


 婚約の席は、その場では壊れなかった。


 だが、ひびは入った。


 セレナの名に。


 サイードの心に。


 そして、リリアが胸の奥で恐れていた通りに。


     *


 夕方までに噂は広がった。


 青壺の長女が、白香の茶を毒と言った。


 白香の家を侮辱した。


 婚約を嫌がっている。


 別の水脈と結びたいらしい。


 薬壺を使って評議を動かすつもりだ。


 あの女は、やはり毒を盛る。


 その一方で、別の噂も流れた。


 妹のリリアは見事だった。


 柔らかく謝った。


 場を収めた。


 白香の若君も、彼女には笑っていた。


 青壺の家は、姉より妹を出した方がよいのではないか。


 水脈評議では、言葉の柔らかさも薬になる。


 リリアは、その噂を止めなかった。


 止められなかった、のではない。


 止めなかった。


 それが必要だと思ったからだ。


 姉がこのまま婚約の席に座り続ければ、もっと嫌われる。


 白香の家も、青壺の家も、固くなる。


 サイードも、安心できなくなる。


 リリアはそう考えていた。


 その日のうちに、セレナは家の奥へ呼ばれた。


 母と、叔母と、薬壺番と、紙記録を預かる老女がいた。


 リリアも呼ばれた。


 母が言った。


「なぜ飲まなかったの」


 セレナは答える。


「香りが強かったからです」


「祝いの席です」


「はい」


「白香の家です」


「はい」


「その場で言うことではありません」


「はい」


「毒だと思ったの」


「分かりません」


「また、それ」


 母の声が低くなる。


「分からないなら、黙りなさい」


 セレナは頭を下げた。


 正しい。


 分からないことは、言わない方がよい。


 だが、分からない水は薬に使えない。


 分からない香りは、飲めない。


 セレナはそう教えられてきた。


 リリアは、そこで静かに言った。


「お母様、姉は悪くありません」


 セレナが妹を見る。


 リリアは、きれいに頭を下げた。


「姉は、青壺の教えどおりに見ただけです。ただ、婚約の席には向きませんでした。私が、もっと早く言葉を添えるべきでした」


 母はリリアを見た。


 叔母も、老女も見る。


 リリアの言葉は、誰も傷つけない。


 姉を庇っている。


 家も守っている。


 白香への謝罪の道も残している。


 それは、見事な言葉だった。


 セレナだけが、その言葉の底にあるものを量れなかった。


 向かない。


 婚約の席には向かない。


 その言葉は、毒より薄く、しかし長く残る。


 母はため息をついた。


「茶の残りは」


 セレナが答える。


「皿に残っています」


「取ってあるの」


「はい」


「誰に言われて」


「誰にも」


「勝手に?」


「はい」


 母は目を閉じた。


 叔母が小さく笑った。


「この子は、評議より皿を信じる」


 紙記録の老女が言った。


「皿は嘘をつきにくいです」


 母は老女を見た。


 老女は肩をすくめた。


「紙も、皿も、壺も、見れば何か残っています。人の言葉よりは遅いですが」


 リリアは、その言葉を聞きながら、胸の奥を押さえた。


 姉は、やはり調べる。


 毒ではないと示そうとする。


 正しいものを見つけようとする。


 けれど、正しさだけでは足りない。


 リリアは、そう思った。


     *


 皿の縁に残った油は、ほんの少しだった。


 白香ではない。


 眠り草でもない。


 熱下げの根でもない。


 甘壺の香料でもない。


 水壺の底から上がる、古い脂に近い。


 それも、井戸縄の脂ではない。


 台所の油でもない。


 もっと重い。


 セレナは、皿の縁を紙片で拭った。


 紙片はすぐに捨てない。


 乾かす。


 乾かした後に、匂いを見る。


 濡れたままでは、匂いが嘘をつくからだ。


 夜まで待った。


 紙片は乾いた。


 匂いは、少し変わった。


 甘さが薄れ、苦さが残る。


 汚水壺の砂を替える時に使う布から、似た匂いがした。


 汚水壺。


 祝いの茶に、汚水壺の匂いが混じるはずがない。


 混じるとすれば、茶そのものではない。


 水である。


 茶を煎じる水。


 または、茶器を洗った水。


 翌朝、セレナは白香の家へは行かなかった。


 行けば、騒ぎになる。


 代わりに、白香の家へ水を運ぶ水路の分岐を見に行った。


 早朝である。


 まだ市場は開いていない。


 日よけ布も半分しか上がっていない。


 水路の分岐には、小さな石蓋があった。


 白香の家へ行く上水路。


 その下に、洗い場へ落ちる細い水路。


 普通なら混じらない。


 混じるようには作られていない。


 だが、石蓋の縁に、細い砂が噛んでいた。


 完全には閉じていない。


 上の水へ、下の湿りが戻るほどではない。


 だが、朝の一番水が通る時だけ、縁を舐めるように汚れが触れる。


 それだけである。


 それだけで、茶の皿の縁に油輪が出ることがある。


 セレナは石蓋を持ち上げた。


 重い。


 尾を石に巻き、身体を引いてずらす。


 蓋の裏に、黒いぬめりがあった。


 スライムではない。


 ただの汚れである。


 ただし、古い。


 水が通るたび、薄く触れていた汚れだった。


 彼女は、布で拭わなかった。


 勝手に拭けば、証拠が消える。


 まず見る。


 次に、紙に描く。


 石蓋の位置。


 砂の噛み方。


 水の流れ。


 汚れの位置。


 白香の家へ向かう水路との距離。


 それから、水路番を呼ぶ。


 水路番は眠そうな顔で来た。


「青壺の長女が、朝から水路を覗くのか」


「石蓋が浮いています」


「少しだ」


「上水へ触れます」


「触れたか?」


「跡があります」


「水は澄んでいる」


「皿の縁に油輪が出ました」


「皿?」


「昨日の婚約茶です」


 水路番の顔が変わった。


 婚約茶。


 白香の家。


 青壺の長女。


 毒の噂。


 その三つが、水路の石蓋でつながった。


 水路番は、すぐに口を閉じた。


「誰に言った」


「まだ」


「評議へ出すのか」


「分かりません」


「また分からないか」


「はい」


 水路番は舌打ちした。


「分からないなら、俺を呼ぶな」


「ひとりで直せば、私が毒を消したことになります」


 水路番は黙った。


 それは正しい。


 疑われている者が、疑いの元をひとりで消してはいけない。


 消せば、隠したことになる。


 ラミアの街では、汚れそのものより、汚れを消した手が疑われることがある。


 水路番は、石蓋の裏を見た。


 黒いぬめりを見る。


 砂を見る。


 水の縁を見る。


 そして、低く言った。


「呼ぶぞ」


「誰を」


「白香の水番だ。青壺の者だけで見たら、後で揉める」


 セレナはうなずいた。


 それでよい。


 自分が正しいと言いたいのではない。


 水がどこで汚れたかを、消える前に見たいだけである。


     *


 白香の水番が来るまでに、噂はまた変わった。


 青壺の長女が、白香の水路を覗いていた。


 白香の家を陥れるためだ。


 毒を盛った証拠を隠すためだ。


 婚約を壊すつもりだ。


 水脈を奪うつもりだ。


 その一方で、別の声もあった。


 妹のリリアなら、こんなことにはならなかった。


 リリアなら、まず相手の心を傷つけなかった。


 リリアなら、白香の家に先に謝った。


 リリアなら、青壺の家を守れる。


 セレナは何も言わなかった。


 言えば、噂に水を足す。


 水を足せば、噂は流れやすくなる。


 白香の水番は、年配の女だった。


 尾の鱗に白い粉がついている。


 香料倉の者ではない。


 水を見る者である。


 彼女は石蓋を見た。


 裏のぬめりを見た。


 砂の噛み方を見た。


 水路番の描いた印を見た。


 セレナの紙を見た。


 そして、皿を見た。


 皿の縁には、まだ薄い油の跡があった。


 白香の水番は、長く黙った。


 それから言った。


「これは毒ではありません」


 周囲の者が息を詰める。


「では、何です」


「汚れた水です」


 その言葉は、毒より軽い。


 だが、白香の家にとっては重い。


 毒なら、誰か一人を疑えばよい。


 汚れた水なら、管理全体が疑われる。


 サイードも来ていた。


 昨日、セレナに微笑み、リリアに笑い返した男である。


 彼は顔を少し青くしていた。


「うちの茶が」


 白香の水番は、男を見ない。


「茶ではない。水路です」


「しかし」


「皿を出したのは誰」


「姉が」


「水を取ったのは」


「下女です」


「石蓋を見たのは」


 誰も答えなかった。


 白香の水番は、そこで初めてセレナを見た。


「青壺の長女」


「はい」


「あなたは毒とは言わなかった」


「はい」


「分からないと言った」


「はい」


「それは、よくありません」


 セレナは頭を下げた。


「申し訳ありません」


「けれど、毒と言わなかったのは、よかった」


 白香の水番は、皿を置いた。


「毒と言えば、私たちは敵になった。汚れと言えば、水路を見られる」


 その場に、重い沈黙が落ちた。


 毒。


 汚れ。


 その違いは大きい。


 毒なら、誰かの悪意を探す。


 汚れなら、手順を探す。


 悪意を探せば、家と家は割れる。


 手順を探せば、まだ水を戻せる。


 セレナは、その違いを知っていた。


 だから、毒と書かなかった。


 分からないと書いた。


 だが、その場の全員が、彼女を理解したわけではなかった。


 リリアは少し離れた回廊の端で、その様子を見ていた。


 白香の水番は姉を認めた。


 水路番も、姉の紙を見ている。


 それでも、サイードの顔は晴れない。


 リリアには分かった。


 姉は正しい。


 でも、選ばれない。


 そう思った。


     *


 水脈評議は、昼過ぎに開かれた。


 大きな評議ではない。


 小評議である。


 出席したのは、青壺の家、白香の家、水路番、紙記録の老女、汚水壺を見る者、そして中立の井戸守だった。


 セレナは、正面には座らなかった。


 壁際に置かれた低い台のそばにいた。


 そこには、皿、紙片、石蓋の写し、汚れの位置図、朝茶の控えが置かれていた。


 リリアは、青壺の母の後ろに控えていた。


 低い台には近づかない。


 だが、全員の顔が見える場所にいた。


 評議では、まず毒の疑いが退けられた。


 試し紙に異常なし。


 眠り草の匂いなし。


 熱下げ根の苦みなし。


 苦根を多く入れた跡なし。


 白香の油も、祝いの茶として不自然な量ではない。


 次に、水路の汚れが確認された。


 石蓋の浮きあり。


 砂の噛みあり。


 上水路縁に汚れあり。


 朝一番水のみ接触可能性あり。


 茶器洗い水に使用された可能性あり。


 最後に、処置が決められた。


 白香の家の上水路、一日休み。


 茶器洗い場の水、三日別系統へ。


 石蓋の交換。


 砂除け布の追加。


 朝一番水を薬・香料へ回さない日を三日。


 婚約茶の席で出した紙記録を保存。


 罰は軽い。


 だが、白香の家にとっては恥である。


 サイードが、小さく言った。


「婚約は」


 誰もすぐには答えなかった。


 水脈評議は婚約を決める場でもある。


 だが、今日の評議は水のために開かれた。


 婚約をここで語れば、話が濁る。


 中立の井戸守が言った。


「三日、水を見てから」


 それで決まりかけた。


 三日。


 白香の家の水路を見る。


 青壺の家の薬を見る。


 その後、婚約を続けるか決める。


 破棄ではない。


 成立でもない。


 保留である。


 その時、リリアが前へ出た。


 全員が見る。


 リリアは、深く頭を下げた。


「お待ちください」


 母が小さく息を呑む。


 セレナも妹を見た。


 リリアは震えていた。


 だが、その震えは美しく見えた。


 怖がっている娘。


 家を守ろうとする妹。


 姉を庇おうとする者。


 そう見える震えだった。


「姉は、青壺の家のために正しいことをしました」


 リリアは言った。


「白香の家を毒と断じなかったことも、水路を消す前に人を呼んだことも、正しいことです」


 セレナは、わずかに眉を動かした。


 リリアは続ける。


「けれど、婚約とは水路だけではありません」


 その言葉に、評議の空気が変わった。


「家と家が結ぶには、水も、薬も、紙も必要です。でも、それだけでは足りません。互いを信じる気持ちがなければ、同じ茶を飲むこともできません」


 リリアはサイードを見た。


「姉は、正しい方です。けれど、サイード様が安心して茶を飲める相手ではないのかもしれません」


 サイードは何も言わない。


 リリアは目を伏せた。


「もし、この婚約が姉を苦しめ、白香の家を疑わせ、青壺の家を固くしてしまうなら、いったん白紙に戻すことも、家を守る道ではないでしょうか」


 白紙。


 その言葉は、紙干し場の者たちには重い。


 白紙に戻す。


 書かれたものを消すのではない。


 まだ書き直せる紙に戻す。


 リリアは、よく分かって言っていた。


 いや、少なくとも、そのように見えた。


 白香の年長者が言った。


「では、青壺の家は、この婚約を破棄したいと?」


 母が答える前に、リリアが言った。


「破棄ではなく、結び直しを」


 老女が目を細めた。


 セレナは、妹の言葉を追えなかった。


 結び直し。


 誰と誰を。


 リリアは、そこで初めて姉を見た。


 目が合う。


 優しい目だった。


 少なくとも、周りにはそう見えた。


「姉には、姉にしかできない役目があります。水を見る役目。紙を守る役目。毒と決めつけず、汚れを見つける役目です」


 リリアは一度息を吸った。


「そして、婚約の席に座る役目は、私が引き受けます」


 場が静まり返った。


 セレナは、妹の言葉を理解するのに少し遅れた。


 サイードがリリアを見る。


 白香の年長者も見る。


 青壺の母は、目を閉じた。


 リリアは、もう一度頭を下げた。


「姉を責めないでください。白香の家を責めないでください。水路の汚れは手順で直せます。けれど、傷ついた心は、別の結び方でなければ戻らないことがあります」


 美しい言葉だった。


 誰も傷つけないようで、ひとつの結論だけを導く言葉だった。


 セレナとの婚約は破棄。


 リリアとの婚約へ。


 それは、まるで最初からそこへ流れるための水路だった。


     *


 三日の保留はなくなった。


 評議は、その日のうちに結論を出した。


 セレナと白香の家の婚約は、白紙に戻す。


 青壺の家と白香の家の結びは維持する。


 新たな婚約相手として、リリアを候補に立てる。


 水路記録の相互確認は残す。


 薬の紙と香料の紙は、同じ棚で干さない。


 婚約茶を出す時は、第三の井戸の水を使う。


 条件は残った。


 だが、セレナは外された。


 サイードは最後まで迷っていた。


 けれど、リリアが彼に香料茶を差し出した時、彼は受け取った。


 今度の茶は、第三の井戸の水で淹れられていた。


 リリアは、皿の縁を見なかった。


 まず、サイードの顔を見た。


「ご安心ください。今度の水は、井戸守の前で汲んでおります」


 サイードは、少しだけ笑った。


「あなたは、場を柔らかくするのが上手い」


「水は、器に合わせて形を変えますから」


 白香の年長者たちが満足げにうなずく。


 青壺の母も、何も言わない。


 セレナは、低い台のそばに立っていた。


 皿の油輪の控え。


 石蓋の写し。


 水路図。


 毒物反応なしの記録。


 白香の水番の署名。


 それらは残っている。


 水路の汚れも見つかった。


 毒疑惑も退けられた。


 手順も直される。


 すべて、必要なことだった。


 それなのに、セレナだけが、婚約の席から消えていた。


 老女が小さく言った。


「水は戻ったね」


 セレナは答えた。


「はい」


「婚約は」


「流れました」


「あなたは」


 セレナは少し考えた。


「記録を残します」


 老女は、それ以上何も言わなかった。


     *


 夕方、紙干し場の端で、セレナは評議の紙を乾かしていた。


 昼の評議で使った紙である。


 水路の図。


 皿の油輪の控え。


 白香の水番の署名。


 青壺の母の署名。


 中立の井戸守の印。


 婚約変更の控え。


 風が強すぎれば、波打つ。


 湿りが戻れば、字が滲む。


 セレナは、一枚ずつ向きを変えた。


 リリアが来た。


 香料茶の席で見せた笑みは、もうなかった。


 代わりに、どこか安堵した顔をしていた。


「お姉様」


 セレナは振り返る。


「婚約、おめでとう」


「怒っていますか」


「何に」


「私が、代わりに婚約することに」


 セレナは少し考えた。


 怒り。


 その言葉を、自分の中に探す。


 あるのかもしれない。


 だが、今はまだ分類できない。


 悔しさ。


 まだ分けられない。


 疲れ。


 胸の重み。


 喉の渇き。


 指先の冷え。


 それでも、紙を押さえる力は残っている。


 そんな項目なら出てくる。


 だが、怒りと書くには証拠が足りない。


「分かりません」


 セレナは言った。


 リリアは、小さく笑った。


「そういうところです」


「何が」


「分からない、と言うところ」


 セレナは妹を見た。


 リリアは、紙干し場の白い紙を一枚、指で押さえた。


「お姉様は、いつも正しいです。でも、正しいだけでは駄目なのです」


「駄目」


「はい」


「何が」


「人は、正しい水だけでは生きられません。甘い茶も、優しい言葉も、安心できる笑顔も必要です」


「それは分かる」


「分かっていません」


 リリアの声は、思ったより冷たかった。


「お姉様は、茶を見た。皿を見た。水路を見た。紙を見た。全部見た。でも、サイード様の顔は見ませんでした」


「見た」


「見ただけです」


 セレナは黙った。


 見た。


 だが、読めなかった。


 水なら、匂いが残る。


 紙なら、波打ちが残る。


 壺なら、蓋のずれが残る。


 人の顔は、残りにくい。


 リリアは言った。


「私は、お姉様を助けたかったのです」


「助ける?」


「そうです。このままだと、お姉様はもっと嫌われます。もっと疑われます。もっと悪く言われます。だから、私が代わりました」


「頼んでいない」


「頼まれなくても分かります」


「何が」


 リリアは、セレナをまっすぐ見た。


 その目は、姉を憐れんでいた。


 そして、どこかで勝っていた。


「お姉様は悪役令嬢だから」


 セレナは、その言葉を記録できなかった。


 悪役。


 令嬢。


 どちらの語も分かる。


 悪い役。


 令嬢。


 だが、妹が言ったその並びは、セレナの記録のどこにも置けなかった。


「何ですか、それは」


 リリアは、少しだけ困ったように笑った。


「分からなくていいのです」


「なぜ」


「そういうものだから」


 そういうもの。


 それは、セレナが最も苦手な答えだった。


 水が濁るのには理由がある。


 紙が黴びるのには理由がある。


 壺の蓋がずれるのにも理由がある。


 毒と呼ばれるものにも、汚れと呼ばれるものにも、原因がある。


 だが、妹は言った。


 そういうものだから。


 セレナは、乾きかけた紙を押さえた。


 風で端が浮きかけていた。


 そこには、今日の記録がある。


 毒ではない。


 汚れた水。


 石蓋の浮き。


 砂の噛み。


 婚約、白紙。


 新婚約候補、リリア。


 そのどこにも、悪役令嬢という欄はない。


 リリアは、もう一度柔らかく言った。


「お姉様は、これから自由になれるのです。水や紙や壺を見るお役目に戻れます。婚約の席は、私が引き受けます」


「それは、あなたが望んだことですか」


「皆が望んだことです」


「あなたは」


 リリアは一瞬だけ言葉を止めた。


 それから笑った。


「私も、望んでいます」


 その笑顔は可愛かった。


 誰が見ても、そう言っただろう。


 セレナは、ようやく理解した。


 妹は嘘をついていない。


 少なくとも、妹自身はそう思っていない。


 リリアは、本当に姉を助けたつもりなのだ。


 そして、本当に自分が選ばれるべきだと思っている。


 それを、何と記録すればよいのか分からなかった。


     *


 その後も、セレナの噂は消えなかった。


 毒を盛る女。


 水を止める女。


 婚約茶を疑った女。


 白香の家を黙らせた女。


 青壺の水路を強くした女。


 妹に婚約を譲った女。


 婚約の席に向かなかった女。


 呼び名は増えた。


 良い名は少ない。


 だが、少しだけ違う名も混じりはじめた。


 水を見た女。


 毒と書かなかった女。


 石蓋を動かさずに人を呼んだ女。


 白香の水番に皿を見せた女。


 紙を乾かしてから匂いを見た女。


 それらは、長い。


 呼び名としては不格好だった。


 けれど、セレナは嫌ではなかった。


 短い悪名より、長い記録の方がよい。


 短い噂は流れやすい。


 長い記録は、少しだけ残りやすい。


 その夜、彼女は自分の控えに一行を書いた。


 毒と断ぜず。


 水を見よ。


 紙を乾かせ。


 人を呼べ。


 消す前に記録せよ。


 ただし、人の顔も見よ。


 最後の一行だけ、少し字が曲がった。


 それは命令書ではない。


 評議録でもない。


 婚約条件でもない。


 ただの覚え書きだった。


 だが、その覚え書きを見た紙記録の老女は、しばらく黙った。


 そして言った。


「これは、外でも使える」


「外?」


「水を見ない者の街で」


 セレナは首をかしげた。


 王国の城壁都市か。


 ドワーフの工房か。


 エルフの森か。


 オーガの草原か。


 どこに行っても、水はある。


 紙もある。


 汚れもある。


 毒と呼ばれる前に、見なければならないものもある。


 老女は、それ以上言わなかった。


 セレナも聞かなかった。


 聞けば、何かが動き出す気がしたからだ。


     *


 三日後、青壺の家へ砂道商人が来た。


 名を、ローデンという。


 商隊主はローデン一人だった。


 荷の仕入れ先を決める者も、売り先と値を決める者も、道の途中で何を捨て、何を残すかを決める者も、ローデン一人である。


 薬草を買う。


 薬包み用の紙を買う。


 青い小壺を買う。


 傷布を買う。


 水そのものは買わない。


 だが、どの水で壺を洗ったかを聞く。


 どの水で薬草を濡らしたかを聞く。


 紙を干した棚の上に、前日まで何を置いていたかを聞く。


 包み布が以前どの荷に使われていたかを聞く。


 青壺の薬師たちは、その質問を少し面倒がった。


 普通の買い手なら、量と値を聞けばよい。


 いつまで持つかを聞けばよい。


 何に効くかを聞けばよい。


 だが、ローデンは、それだけでは買わなかった。


「この紙は、香料を包んだ後に薬包みへ回せるか」


 薬壺番が答えた。


「紙は紙だ。破れていなければ使える」


「臭いは」


「乾けば消える」


「油は」


「見えない」


「見えないものは、ないのか」


 薬壺番は黙った。


 紙記録の老女が、セレナを呼んだ。


「見ておいで」


 セレナは紙を受け取った。


 端を見る。


 光へ透かす。


 爪で軽く押す。


 紙片を一枚重ね、手の中で少し温める。


 それから匂いを嗅いだ。


「香料の油が残っています」


「薬包みには」


「使いません」


「毒になるか」


「分かりません」


 ローデンは眉を上げた。


「分からないのに、使わないのか」


「薬の臭いが変わります」


「それだけか」


「変わった時、薬が悪いのか、紙から移ったのか分からなくなります」


「なら、何に使う」


「外袋です。薬包みの外へ巻きます」


「捨てないのか」


「使えるものまで捨てる必要はありません」


「薬包みとして売るか」


「売りません」


「外袋なら」


「使えます」


「売れるか」


 セレナは少し考えた。


「売れると思います」


「いくらで」


 答えられなかった。


 薬と水のことは分かる。


 紙に何が残っているかも分かる。


 何へ使ってはならないかも分かる。


 だが、それをいくらで売るかは知らない。


「分かりません」


 セレナは答えた。


「そうか」


 ローデンは紙を受け取った。


 失望した様子はなかった。


「分からないことを、分かったふりはしないんだな」


「はい」


「毒とも言わない」


「毒だと分からないので」


「安全とも言わない」


「安全だと分からないので」


「だが、何に使えるかは考えた」


「はい」


 ローデンは、香料油の残った紙を見る。


「外袋として売るなら、普通の紙より安い」


「はい」


「だが、捨てるよりは残る」


「はい」


「運賃をかけて遠くへ持っていけば、紙の値より運賃が高くなる」


 セレナは黙った。


 そこまでは考えていなかった。


「近くの薬師へ売るか。香料を嫌わない品の包みに回すか。自分の荷で使い切るか」


 ローデンは指を折る。


「物が何であるかを見る目と、何としてなら売れるかを見る目は違う」


「はい」


「お前は、前の目を持っている」


「後ろは」


「まだない」


 ローデンは簡単に答えた。


「だから、覚えればいい」


 セレナは顔を上げた。


 紙記録の老女が、わずかに笑っていた。


 青壺の母は笑っていなかった。


「商人にするつもりですか」


 母が聞いた。


「まだ、するとは言っていない」


 ローデンは答えた。


「商隊へ加えて、その目が道でも使えるかを見る」


「青壺の家の長女です」


「知っている」


「薬師家の者です」


「それも聞いた」


「婚約の代わりに、商隊へ出せと?」


「婚約の代わりではない」


 ローデンの声は変わらなかった。


「水を見る目が、家の水路にしか使えないなら、そこまでだ。外の水でも使えるなら、家の薬を外へ売る時にも役に立つ」


 母は黙った。


 青壺の薬を外へ売る道。


 それは家にとって損ではない。


「いつ戻るのです」


 母が聞く。


「買い付けの道は往復する」


「日を聞いています」


「荷と道と相場による」


「決まっていないのですか」


「決まった日に戻るなら、商隊ではなく定期便を使う」


 母の顔が固くなった。


 ローデンは気にしなかった。


 セレナは聞いた。


「私は、何をするのですか」


「水を見る」


「はい」


「薬を見る」


「はい」


「壺、紙、包み布、傷布、飲み水、蹄を洗った水を見る」


「はい」


「毒だと言われたものを、毒か、汚れか、腐りか、混じった臭いか分ける」


「はい」


「分からないものは、勝手に捨てない」


「はい」


「その上で、商いを覚える」


 セレナは少し止まった。


「商い」


「買う。運ぶ。売る」


「はい」


「何としてなら売れるかを決める。どこまで運べば値が残るかを考える。荷を止めた時、何を失わずに済んだか数える」


 ローデンは、香料油の残った紙を持ち上げた。


「薬師が薬だけを見て、商人が値だけを見ると、間にある荷が腐る」


「荷が腐る」


「水が混じる。紙が油を吸う。布が臭いを移す。壺が割れる。薬が濡れる。誰も毒を入れていないのに、売れない荷ができる」


 セレナは紙を見た。


 薬包みには使えない。


 外袋には使える。


 毒ではない。


 安全とも決められない。


 捨てる必要はない。


 別に置く。


 その考え方は知っている。


「私にできますか」


「それを確かめるために連れていく」


「できなければ」


「戻す」


「戻れるのですか」


「商隊は道を往復する」


 ローデンは簡単に答えた。


「行く線だけでは、商いにならん」


 紙記録の老女が言った。


「外でも使えると言っただろう」


 セレナは、老女を見る。


 次に、母を見る。


 母はすぐには答えなかった。


「青壺の名を捨てることは認めません」


 やがて言った。


「捨てません」


 セレナは答えた。


「家の薬の作り方を外へ話してはなりません」


「話しません」


「水路の位置も」


「話しません」


「家の長女であることも変わりません」


「はい」


 母はローデンを見る。


「買い付けの際には、必ずこの家へ戻してください」


「戻るかどうかは、本人にも聞け」


 母の目が細くなる。


「連れていく前から、勝手を教えるのですか」


「弟子にするなら、考えさせる」


「まだ弟子ではないのでしょう」


「今から決める」


 ローデンはセレナを見る。


「来るか」


 セレナは、すぐには答えなかった。


 母の顔を見る。


 紙記録の老女の顔を見る。


 薬壺番の顔を見る。


 そして、リリアを見る。


 リリアは回廊の端に立っていた。


 婚約茶の席で見せた笑みより、少し固い笑みを浮かべている。


「お姉様が望むなら」


 リリアは言った。


「自由になったのですから」


 自由。


 その言葉が何を指すのか、セレナにはまだ分からなかった。


 婚約がないことか。


 家の外へ出られることか。


 家の役目が減ったことか。


 妹が婚約の席へ座ったことか。


 分からない。


 だから、別に置く。


 だが、行くかどうかは分かる。


 外の水を見たい。


 水を見ない者の街で、何が毒と呼ばれるのかを見たい。


 紙の記録がない場所で、何が消されるのかを見たい。


 そして、人の顔も見たい。


「行きます」


 セレナは答えた。


 ローデンは頷いた。


「なら、最初の仕事だ」


「何ですか」


「道で何を見るか考えて、必要なものを自分で選べ」


「教えてはくれないのですか」


「全部教えたら、お前の目が要らない」


     *


 セレナが選んだものは、多くなかった。


 乾いた紙。


 使用済みの紙を分ける袋。


 壺の蓋を写すための墨。


 水を吸わせる小さな紙片。


 臭いの違う布を分ける紐。


 青い印布。


 原因が分からないものを、一時的に入れる小壺。


 乾かす前の紙を挟む薄板。


 そして、自分の覚え書き。


 毒と断ぜず。


 水を見よ。


 紙を乾かせ。


 人を呼べ。


 消す前に記録せよ。


 ただし、人の顔も見よ。


 ローデンは、セレナの荷を見た。


「薬は」


「青壺の薬を勝手に持ち出せません」


「水は」


「道で分けます」


「食べ物は」


 セレナは止まった。


 入れていない。


「水と紙だけ見て、食べずに進むつもりか」


「忘れました」


「商人は、自分が倒れた時の損も考える」


「はい」


「食料を入れろ。替え布もだ」


「はい」


「人の顔を見る前に、自分の腹も見ろ」


 紙記録の老女が笑った。


 セレナは、乾いた果皮と固焼きのパンを荷へ足した。


 替え布も一枚。


 母が、青い小壺を一つ持ってきた。


「これは」


「原因が分からないものを入れるのでしょう」


「はい」


「青壺の印がある方が、勝手に開けられにくい」


「ありがとうございます」


 母は答えなかった。


 リリアは見送りに来なかった。


 婚約の打ち合わせがあった。


 少なくとも、そう聞いた。


     *


 出立の朝、ローデンは商隊の荷を見せた。


 薬草。


 紙。


 青い小壺。


 乾燥果皮。


 傷布。


 香料。


 革袋の水。


 馬の汗を拭く布。


 油を塗った荷車の軸。


「最初に見るものは」


 ローデンが聞いた。


 セレナは、荷全体を見た。


 薬草と香料が近い。


 傷布と薬包みが同じ籠にある。


 飲み水と洗い水の革袋に印がない。


 油壺が紙の上に置かれている。


「水を分けます」


「ほかは」


「薬草と香料を離します」


「ほかは」


「傷布と薬包みを分けます」


「ほかは」


「油壺を紙の下へ置きません」


「なぜ」


「漏れた時、紙が吸います」


「漏れなければ」


「今は漏れていません」


「なら、そのままでいいか」


「よくありません」


「なぜ」


「漏れた後では、どの紙まで吸ったか分からなくなります」


「値は」


 セレナは答えられない。


「分かりません」


「なら、何を根拠に動かす」


「原因が混じる前に分けます」


「損が増えてもか」


「移す手間と、紙を捨てる損を比べます」


「紙の値を知らないだろう」


「教えてください」


 ローデンは、初めて少し笑った。


「聞けるならいい」


 紙一束の値。


 油壺一つの値。


 濡れた紙が何に使えるか。


 薬包み用から外袋用へ落とした時、どれだけ値が下がるか。


 ローデンは教えた。


「では」


 セレナは計算した。


 遅い。


 何度か間違えた。


 紙記録の計算と、商売の計算は少し違う。


「油壺を下へ移す手間の方が安いです」


「なら動かせ」


 セレナは油壺を移した。


 薬草と香料を離した。


 傷布を別籠へ入れた。


 水袋へ青と白の印を結んだ。


「青は」


「薬に近づけてよい水です」


「白は」


「飲み水です」


「洗い水は」


「灰にします」


「捨てる水は」


 セレナは少し考えた。


「赤です」


「分からない水は」


 答えに詰まった。


 安全。


 危険。


 飲用。


 薬用。


 洗浄。


 廃棄。


 どこにも入らない水がある。


 セレナは自分の荷から、黒い紐を出した。


「黒にします」


「意味は」


「まだ使わない。捨てない。別に置く」


 ローデンは頷いた。


「覚えておけ」


「はい」


「それは商いでも使う」


「商いでも?」


「売れるか分からない。捨てるには早い。別の町なら売れるかもしれない。そういう荷がある」


 毒とも決めない。


 安全とも決めない。


 売れないとも決めない。


 別に置く。


 乾かす。


 記録する。


 もう一度見る。


 セレナは、黒い紐を革袋へ結んだ。


 ローデンが言った。


「今日から、俺の最初の弟子だ」


 セレナは顔を上げた。


「今、決まったのですか」


「荷を見ずに外へ出ようとしたら、連れていかなかった」


「試していたのですか」


「商人は、買う前に見る」


「人もですか」


「とくに人をだ」


 人の顔も見よ。


 覚え書きの最後の一行を、セレナは思い出した。


「私は、ローデンの顔を見ていませんでした」


「今から見ろ」


「はい」


「ただし、見ただけでは足りない」


 リリアと同じ言葉だった。


 だが、意味は違うように聞こえた。


「何を見ればよいですか」


「自分で考えろ」


 それも、ローデンの教え方らしい。


     *


 セレナは、ローデンの最初の弟子になった。


 だからといって、青壺の家を捨てたわけではない。


 長女でなくなったわけでもない。


 水路の記録を手放したわけでもない。


 婚約を失ったことが、なかったことになったわけでもない。


 妹に悪役令嬢と呼ばれたことも、まだ分類できていない。


 ただ、外へ出た。


 外の水を見る。


 外の壺を見る。


 外の紙を見る。


 外で毒と呼ばれているものを見る。


 そして、毒ではないものを毒ではないと書くための手順を覚える。


 安全ではないものを、安全だと言わないための手順も覚える。


 それだけではない。


 何としてなら売れるか。


 どこまで運べば値が残るか。


 止めたことで何を失わずに済んだか。


 ローデンの横で、それを覚える。


 セレナは、自分の覚え書きへ二行を加えた。


 値を聞け。


 帰る線を確かめよ。


 最後の一行は、ローデンが言ったものではない。


 セレナが自分で書いた。


 商隊は道を往復する。


 行く線だけでは商いにならない。


 戻る線があれば、青壺の家へも戻れる。


 戻った時には、外で見た水を記録できる。


 外で毒と呼ばれたものを、家の紙へ残せる。


 水路の音が、出立する朝にも細く続いていた。


 家へ残る水の音だった。


 同時に、砂道へ流れ出す線の始まりでもあった。


 セレナは、黒い紐の革袋を確かめた。


 分類できないものは、捨てない。


 別に置く。


 乾かしてから、もう一度見る。


 そして今度は、その先にある値と道も見る。


 馬が荷車を引き、ローデン商隊が動き出した。


 青壺の門が、少しずつ遠ざかった。


 セレナは振り返った。


 一度だけ。


 家の顔を見るために。


 それから前を向いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ