表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/22

第5文化圏 ラミア 水路の朝と乾きの順

 ラミアの街の朝は、水音から始まる。


 鐘ではない。


 鶏の声でもない。


 石の水路を流れる細い音で、街は目を覚ます。


 まだ日が高くならないうちに、白い日干しレンガの壁が薄く明るくなる。

 中庭の泉には、夜の冷えが少しだけ残っている。

 水面には、回廊の柱と、日よけ布の影が揺れている。


 最初に起きるのは、井戸を見る者たちだった。


 水を汲む者ではない。


 見る者である。


 井戸の縁に手を置く。

 石の湿りを見る。

 虫が浮いていないかを見る。

 前日の葉が落ちていないかを見る。

 水面に油の輪がないかを見る。

 桶の匂いを嗅ぐ。

 縄の湿りを確かめる。

 滑車の音を聞く。


 それから、ようやく水を汲む。


 朝一番の水は、薬師家へ行く。


 次に、香料倉へ行く。


 その次に、紙干し場へ行く。


 それから、家々の洗い場へ分けられる。


 順番は決まっている。


 誰も大声では言わない。


 だが、間違えれば、すぐに分かる。


 薬師家の水が遅れれば、煎じる時刻がずれる。

 香料倉の水が濁れば、香りが死ぬ。

 紙干し場の水が多すぎれば、紙が波打つ。

 洗い場の水が早すぎれば、上の水と下の水が混じる。


 だから、水は順に動く。


 上の水。

 薬草の水。

 香料の水。

 紙の水。

 洗いの水。

 捨てる水。


 同じ水でも、名が変わる。


 名が変われば、扱いも変わる。


 上の水に手を入れてはいけない。

 薬草の水で足を洗ってはいけない。

 紙の水を洗い場へ戻してはいけない。

 洗いの水を井戸へ近づけてはいけない。

 捨てる水は、朝日の前に流してはいけない。


 王国の旅人には、面倒に見える。


 だが、第5文化圏では、その面倒が街を保っている。


     *


 水路の石蓋が、一枚ずつ上げられていく。


 長い尾を持つラミアたちは、石段ではなく、緩やかな傾斜の路地をすべるように進む。


 桶を抱える者。

 浅い皿を持つ者。

 薬草を束ねる者。

 紙を挟む板を抱える者。

 香料壺の蓋を押さえる者。


 人間の街なら、朝市へ向かう足音が響く。


 ラミアの街では、足音は少ない。


 かわりに、尾が石を擦る低い音がする。

 乾いた砂を引く音。

 濡れた石を滑る音。

 敷物の上で止まる音。


 水場では、若いラミアがひとり、桶の口を覗いていた。


 彼女は水を汲まない。


 まだ許されていないからだ。


 水を汲むには、ただ力があればよいわけではない。


 水面を見る目がいる。

 桶の匂いを嗅ぐ鼻がいる。

 縄の湿りを嫌がらない手がいる。

 そして、汲んではならない時に汲まない我慢がいる。


 その若いラミアは、桶の底に薄い濁りを見つけた。


 声を上げるほどではない。


 だが、きれいとも言いにくい。


 彼女は桶を傾け、朝日に透かした。


 水は透明だった。


 しかし、底の端に薄い輪がある。


 香料の油か。

 夜に落ちた花粉か。

 井戸縄の古い脂か。

 誰かが手を入れた跡か。


 分からない。


 分からない水は、薬には使えない。


 彼女は桶を脇へ下げた。


 年上の女が気づく。


「捨てるの?」


「薬には回せません」


「濁っている?」


「いいえ」


「臭う?」


「少し」


「何の匂い?」


「まだ分かりません」


 年上の女は、桶の中を見た。


 水面は澄んでいる。


 見た目だけなら、使える。


 だが、若いラミアはまだ桶を戻さなかった。


 年上の女は少し考え、うなずいた。


「香料倉へも回さない。洗い場へ落として」


「はい」


 桶の水は、薬師家へ行かなかった。


 香料倉へも行かなかった。


 洗い場へ回された。


 それだけである。


 誰も褒めない。


 誰も大きく記録しない。


 だが、その朝、ひとつの薬壺は濁らなかった。


     *


 薬草畑は、街の外縁にある。


 水路から近すぎず、遠すぎない場所だった。


 近すぎれば、根が湿りすぎる。

 遠すぎれば、葉が乾きすぎる。

 日が強すぎれば、香りが抜ける。

 影が多すぎれば、虫が湧く。


 ラミアの薬草畑には、背の高い木は少ない。


 代わりに、低い日よけ布が張られている。


 布の角度を変える者がいる。

 根元の土を指で崩す者がいる。

 葉の裏を見る者がいる。

 前日の水の跡を数える者がいる。


 薬草は、ただ摘めばよいものではない。


 朝摘む葉。

 昼まで待つ根。

 日陰で乾かす茎。

 日で焼く皮。

 水にさらす種。

 水を嫌う花。


 それぞれに順がある。


 薬師家の女が、細い根を一本抜いた。


 根に泥がまとわりついている。


 よい泥ではない。


 重い。


 水が多すぎる。


 隣の畝では、別のラミアが葉を一枚ちぎり、舌の先に触れた。


 すぐに吐き出す。


「苦い」


「いつもより?」


「いつもより遅い苦さです」


 早く苦いなら、日が強い。

 遅く苦いなら、水が残っている。

 苦くないなら、草が弱い。


 その家では、そう教えられている。


 王国の薬師なら、秤を使うかもしれない。


 ドワーフなら、乾燥日数を刻むかもしれない。


 ラミアは、舌と匂いと水の跡で見る。


 もちろん、それだけではない。


 薬草束には小さな紙が結ばれる。


 井戸名。

 畝の位置。

 摘んだ時刻。

 干す場所。

 担当者。

 使える日。


 紙がなければ、薬草はただの草になる。


 紙があっても、濡れれば疑われる。


 だから、薬草を摘む者の隣には、必ず紙を見る者がいる。


 薬草を見る者より、少し低く見られる仕事だった。


 だが、紙を間違えれば、薬は毒になる。


 その日、紙を見る者は、ひとつの束を別に置いた。


「これは昨日の棚です」


 薬師家の女が振り返る。


「今日の棚では?」


「紙の端が波打っています。昨日の夜露を吸っています」


「字は読める」


「読めます。でも、紙が濡れました」


「薬草は?」


「見た目はよいです」


「なら」


「記録が濡れています」


 少しの沈黙があった。


 見た目のよい薬草を捨てることは、惜しい。


 だが、記録が濡れている薬草は、後で疑われる。


 疑われる薬は、飲ませにくい。


 飲ませにくい薬は、薬ではなくなる。


 薬師家の女は息を吐いた。


「粉にはしない。外用へ回す」


「はい」


 紙を見る者は、束を別の籠へ移した。


 また、誰も褒めない。


 だが、その日、飲み薬の中に、疑われる草は混じらなかった。


     *


 紙干し場は、街で最も静かな場所のひとつである。


 水音は近い。


 だが、飛沫は届かない。


 風は通る。


 だが、砂は入りにくい。


 日も当たる。


 だが、強すぎる光は布で遮られる。


 薄い紙が、板と板の間に挟まれている。


 紙干し場の者たちは、朝の風を読む。


 北からの風なら、乾きが早い。

 南からの風なら、香料倉の匂いが混じる。

 水路からの風なら、紙の端が丸まる。

 市場からの風なら、砂が入る。


 そのため、紙干し場には水路よりも細かい順がある。


 薬の紙。

 契約の紙。

 香料包みの紙。

 市場札の紙。

 練習用の紙。

 捨て紙。


 白いから同じではない。


 薄いから同じでもない。


 薬の紙は、匂いを持ってはいけない。

 契約の紙は、端が痩せてはいけない。

 香料包みの紙は、香りを殺してはいけない。

 市場札の紙は、濡れても字が残らなければならない。

 練習用の紙は、少し悪くてもよい。


 この順を間違えると、後で争いになる。


 ある朝、紙干し場の端で、幼いラミアが叱られていた。


 薬の紙のそばに、香料包みの紙を置いたからである。


 香料包みの紙は、昨夜、白香の倉で匂いを吸っていた。


 見た目は同じ白紙である。


 だが、薬の紙に香りが移れば、薬草の匂いが分からなくなる。


 匂いが分からない薬は、疑われる。


 疑われる薬は、売れない。


 売れないだけならよい。


 病人が飲まない。


 叱られた子は泣かなかった。


 代わりに、紙を一枚ずつ鼻に近づけた。


 年上の者が言う。


「泣くより嗅ぎなさい」


 子はうなずいた。


 紙は、文字が書かれる前から責任を持つ。


 ラミアの街では、そう教える。


     *


 香料倉の扉が開くのは、日が高くなりすぎる前である。


 強い日が入れば、香りが飛ぶ。


 湿った朝のまま閉じれば、香りが濁る。


 だから、扉を開ける時刻は短い。


 香料倉の中は暗い。


 だが、壁の高いところに細い窓がある。


 光が斜めに入る。


 壺の丸みが、その光で浮かぶ。


 ラミアの香料倉では、壺の蓋を見る者がいる。


 これも低い仕事である。


 中身を調合する者ではない。

 香りを売る者でもない。

 客に茶を出す者でもない。


 蓋を見る者である。


 蓋の縁に湿りがないか。

 封じの糸が緩んでいないか。

 虫が入った跡がないか。

 誰かが爪をかけた跡がないか。

 香りが漏れすぎていないか。


 その日、蓋を見る者は、青い壺の前で止まった。


 壺は閉じている。


 糸も切れていない。


 だが、蓋の端だけがほんの少し甘く匂った。


 甘い匂いは、よいことではない。


 この壺は、苦い根を乾かした粉の壺である。


 甘くなるはずがない。


 彼女は蓋を開けなかった。


 開ければ、倉全体に匂いが混じる。


 まず壺の周りを空ける。


 隣の壺を離す。


 床の乾いた砂を足す。


 それから、年長の香料師を呼ぶ。


 香料師は蓋を見た。


 匂いを嗅ぐ。


 眉を寄せる。


「誰かが開けた?」


「糸は切れていません」


「虫?」


「跡はありません」


「水?」


「水なら苦みが先に出ます」


「では」


「隣の甘壺の蓋が、昨日ずれていました」


 香料師は隣の壺を見た。


 そちらは白香の壺である。


 白香の壺から漏れた匂いが、苦根の壺の蓋へ移った。


 たったそれだけである。


 だが、苦根を煎じる薬師がその匂いを嗅げば、異物混入を疑う。


 疑えば、水脈評議へ持ち込まれる。


 持ち込まれれば、香料倉の管理が問われる。


 香料師は言った。


「苦根は薬師家へ出さない。虫除けに回す」


「はい」


「甘壺の蓋を替える」


「はい」


「昨日の番は?」


「記録にあります」


「呼びなさい」


 声は荒くなかった。


 しかし、倉の空気は冷えた。


 壺の蓋が、ほんの少しずれただけである。


 それでも、香りは移る。


 香りが移れば、薬は疑われる。


 ラミアの街では、匂いも証人になる。


     *


 昼が近づくと、路地は白くなる。


 日干しレンガの壁が光を返す。


 日よけ布の影が濃くなる。


 中庭の水は、朝より少し温む。


 この時刻になると、汚れた水が動きはじめる。


 洗い場から出た水。

 薬草の泥を落とした水。

 紙干し場の板を拭いた水。

 香料倉の床を湿らせた布の水。

 台所の水。

 身体を洗った水。


 それらは、ひとつにはならない。


 ならないように作られている。


 洗いの水は低い水路へ。

 薬草の泥水は沈め壺へ。

 香料の水は砂へ通す。

 紙の水は濾し布へ。

 台所の水は油壺で分ける。

 身体を洗った水は、朝の井戸へは戻さない。


 戻せば早い。


 早いが、街が死ぬ。


 だから戻さない。


 この時間、汚水壺を見る者たちが動く。


 これも、好かれる仕事ではない。


 薬師家より低い。

 香料師より低い。

 紙工房より低い。

 井戸守より低い。


 汚れた水を見る者である。


 だが、彼らが見なければ、汚れは上へ戻る。


 上へ戻れば、薬師家も香料倉も紙干し場も、すべて疑われる。


 ある汚水壺で、泡が多かった。


 若い男が言った。


「香料倉の水だ」


 別の者が首を振る。


「洗い場だろう」


「匂いが違う」


「泡は泡だ」


「この泡は消えない」


 男は棒で泡を寄せた。


 すぐに消えない。


 細かい膜が残る。


 香料倉の床拭き水が、洗い場の水路へ混じっていた。


 それだけなら、まだ大きな事故ではない。


 だが、この水がさらに紙干し場の下へ回れば、紙に匂いがつく。


 紙に匂いがつけば、薬の記録が疑われる。


 男は水路の石蓋を閉めた。


 流れが止まる。


 すぐに苦情が来る。


 洗い場の女が声を上げる。


「水が止まった」


「混じった」


「何が」


「香料の水」


「少しでしょう」


「少しなら、薬の紙に匂いがついてもよいのか」


 洗い場の女は黙った。


 石蓋は、しばらく閉じられた。


 別の壺へ水を回す。


 砂を足す。


 濾し布を替える。


 汚れた水のために、清い水を少し使う。


 もったいない。


 だが、使わなければならない。


 水を惜しみすぎると、水を失う。


 そのことを、第5文化圏の者はよく知っている。


     *


 夕方、紙干し場の板がしまわれる。


 薬草棚の布が下ろされる。


 香料倉の壺が奥へ移される。


 水路の細い蓋が閉じられる。


 中庭の泉には、夕日の色が落ちる。


 朝、桶を下げた若いラミアは、もう一度その桶を見に行った。


 洗い場へ回した水は、もうない。


 桶は洗われ、伏せられている。


 彼女は桶の底を嗅いだ。


 まだ、わずかに甘い。


 香料倉の白香ではない。


 果皮でもない。


 薬草でもない。


 井戸縄の脂でもない。


 彼女は指で桶の底をなぞった。


 ぬめりはない。


 だが、匂いだけが残っている。


 年上の女が来た。


「まだ見るの?」


「朝の水です」


「もう捨てた」


「はい」


「なら終わり」


 若いラミアは、少しだけ迷った。


「終わりでしょうか」


 年上の女は答えなかった。


 終わりにしなければ、朝は終わらない。


 だが、終わりにしすぎれば、原因が残る。


 ラミアの街では、その間で生きる。


 年上の女は桶を受け取り、もう一度嗅いだ。


「明日の朝、この井戸は二番水から薬へ回す」


「一番水は?」


「洗い場へ」


「評議へ出しますか」


「出さない。まだ弱い」


「記録は」


「残す」


 若いラミアはうなずいた。


 記録を残す。


 それで、ひとまず終わりになる。


 終わらせるために、記録する。


 終わらせすぎないためにも、記録する。


 彼女は小さな紙に書いた。


 朝一番水、微甘。

 濁りなし。

 油輪なし。

 薬へ回さず。

 香料へ回さず。

 洗い場へ落とす。

 翌朝、一番水休み。


 紙は、まだ湿っていない。


 字は細く、読める。


 彼女はそれを低い台の上へ置いた。


 風が通る。


 紙が少しだけ震える。


 中庭の水面も、同じように震えていた。


     *


 夜になると、ラミアの街は香る。


 薬草の苦さ。

 香料の甘さ。

 乾いた紙の匂い。

 日干しレンガの熱。

 水路の湿り。

 中庭の泉。

 洗い場の石鹸草。

 汚水壺の奥に残る重い匂い。


 美しい街である。


 だが、美しさは、朝から夜まで続く小さな判断の上にある。


 桶を下げる。

 うろではなく井戸を見る。

 紙を嗅ぐ。

 壺の蓋を疑う。

 水路の石蓋を閉める。

 薬草を飲み薬から外す。

 香料を虫除けへ回す。

 汚れた水を戻さない。

 記録する。


 どれも、歌にはなりにくい。


 王国の旅人は、白い壁と青い釉薬を見る。


 中庭の泉を見る。


 長い身体が回廊をすべる姿を見る。


 香料茶を飲み、薬壺を眺め、薄い紙を買う。


 そして言う。


 ラミアの街は美しい、と。


 それは間違いではない。


 だが、ラミアの街の美しさは、水そのものにあるのではない。


 水を疑う目にある。


 乾きを疑う指にある。


 香りを疑う鼻にある。


 白い紙を疑う手にある。


 誰かが、朝の一杯を薬へ回さなかったことにある。


 誰かが、紙の端の波打ちを見つけたことにある。


 誰かが、壺の蓋の甘さに気づいたことにある。


 誰かが、汚れた水路を止めたことにある。


 その誰かの名は、たいてい表には出ない。


 水脈評議の正面にも出ない。


 婚姻交渉の席にも呼ばれない。


 香料茶の客にも紹介されない。


 しかし、彼らがいなければ、薬は毒になる。


 紙は罪になる。


 水は病になる。


 ラミアの朝は、水音から始まる。


 その水音が清く聞こえるのは、誰かがその前に、疑うことを覚えているからだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ