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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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補完一の一 スライム 汚物処理と残毒

 王立学術院の分類に、スライムの文化圏はない。


 当然である。


 スライムには家名がない。

 部族もない。

 長老もいない。

 王もいない。

 婚姻もない。

 契約もない。

 歌もない。

 工房評議もない。

 境界杭を立てることもない。


 人間の役人は、スライムを民とは呼ばない。

 エルフは、森の記憶に入れない。

 ドワーフは、家名を与えない。

 オーガは、血統の歌に置かない。


 それでも、十五文化圏のどこにも、スライムはいる。


 城壁都市の共同便所。

 市場裏の溝。

 森の外れの大木のうろ。

 工房裏の酸の溝。

 船底の汚水。

 崖下の鳥糞溜まり。

 獣人の冬屋の床下。

 神殿裏の生ごみ穴。

 砦裏の下肥壺。

 地下廃坑の縦穴。

 草原の骨の山。


 そこに、いつの間にか湧く。


 誰かが作ったわけではない。

 誰かが呼んだわけでもない。

 誰かが契約して置いたわけでもない。


 汚れがある。

 湿りがある。

 腐りがある。

 残飯がある。

 脂がある。

 血がある。

 皮がある。

 糞尿がある。


 すると、スライムは現れる。


 王立学術院では、これを文化圏の外に置く。


 理由は明確である。


 スライムは、言葉を持たない。

 法を持たない。

 単位を持たない。

 通行証を持たない。

 市場を持たない。

 親子関係を記録できない。

 自らの境界を主張しない。


 しかし、文化圏の外にあるからといって、制度の外にあるわけではない。


 むしろ逆である。


 スライムは、どの文化圏の制度にも、下から入り込んでいる。


 都市が汚物を捨てる場所。

 森が果皮を戻す場所。

 工房が酸を扱う場所。

 船が汚水をためる場所。

 砦が下肥を置く場所。

 野営地が骨を捨てる場所。


 そうした場所には、必ず処理がある。


 誰が運ぶか。

 どこへ捨てるか。

 どれだけ残すか。

 いつ埋めるか。

 いつ燃やすか。

 どの水場から離すか。

 どの風下へ置くか。

 どの穴を使い、どの穴を休ませるか。


 その手順の底に、スライムがいる。


 スライムは、汚れを消す。


 そのように覚えられている。


 腐った肉を投げ込めば、翌朝には小さくなる。

 果皮を入れれば、跡形もなく沈む。

 血のついた布を近づければ、縁からほどける。

 骨を置けば、脂が落ちる。

 汚物を流せば、かさが減る。

 腐った皮を入れれば、臭いが少し薄くなる。


 だから便利だった。


 あまりにも便利だった。


 火で焼くには薪が要る。

 穴を掘るには人手が要る。

 遠くへ運ぶには荷車が要る。

 川へ流せば下流の村と争いになる。

 城壁の外へ積めば、犬と鼠が集まる。

 野営地に残せば、次の朝には虫と獣が寄る。


 だが、スライムに食わせればよい。


 そう言えば、たいていの者は納得する。


 汚れは減る。

 臭いも薄くなる。

 目の前からは消える。


 目の前から消えたものは、終わったことにされる。


 そこに、最初の誤りがある。


 スライムは、汚れを無かったことにしているのではない。


 汚れを、別の形に変えている。


 酸のぬめり。

 泡。

 湿った跡。

 薄く残る匂い。

 黒ずむ金属。

 痩せる布。

 柔らかくなる木。

 赤くただれる皮膚。

 濁った水。


 それらは、汚れとは別の名で呼ばれる。


 人間は、貧民街の病と呼ぶ。

 エルフは、木の寿命と呼ぶ。

 ドワーフは、配合の失敗と呼ぶ。

 オーガは、運の悪い蹄と呼ぶ。

 船乗りは、水樽の祟りと呼ぶ。

 山の民は、羽の病と呼ぶ。

 地下の者は、寝床の湿りと呼ぶ。


 名は違う。


 だが、底にあるものは似ている。


 汚れを消すものが、残毒を置いていく。


 王立学術院の分類では、スライムは文化圏ではない。


 だが、十五文化圏の生活は、すでにスライムを前提に組まれている。


 これは民ではない。


 制度でもない。


 しかし、制度が見ない場所で、制度を支えるものだった。


     *


 スライムを管理するための正式な官職は、ほとんどない。


 少なくとも、王国の貴族名簿には載らない。

 エルフの長老合議にも席はない。

 ドワーフの工房評議で、炉の中心に呼ばれることもない。

 オーガの火の前で、血統として歌われることもない。


 それでも、どの文化圏にも、スライムのそばで働く者はいる。


 穴を見る者。

 溝を見る者。

 うろを見る者。

 酸を見る者。

 骨の山を見る者。

 ぬめりを避ける者。

 子どもを近づけない者。

 水場の上流と下流を分ける者。


 名は低い。


 仕事も低い。


 手も服も臭くなる。


 褒められることは少ない。


 汚れが消えれば、誰もその者を見ない。

 汚れが残れば、その者だけが叱られる。


 そういう仕事である。


 だが、その仕事がなければ、文化圏のきれいな部分は長く保たない。


 城壁の広場も。

 森の泉も。

 工房の炉も。

 草原の天幕も。


 すべて、どこかで汚れを外へ出している。


 外へ出された汚れを、さらに別の場所へ押し込む。


 その先で、スライムが動く。


 ゆっくりと。

 音もなく。

 何かを飲み込むように。


 スライムは、食う。


 肉を食う。

 脂を食う。

 皮を食う。

 布を食う。

 木を食う。

 紙を食うこともある。


 紙を食えば、字が消える。


 封蝋を舐めれば、印の端が崩れる。


 荷札の紐に触れれば、結び目だけが弱くなる。


 それでも、誰もスライムが文字を読んだとは考えない。


 当然である。


 スライムには、言葉がない。


 声もない。


 目も、耳も、指もない。


 だから、王立学術院はこう書く。


 スライムに知性なし。


 この一文は、分類上は正しい。


 ただし、現場の者はときどき別のものを見る。


 人が火を持てば、スライムは遠ざかる。

 灰を置けば、近づくものがある。

 酸に弱い金属だけを避けるように見えるものがある。

 血のついた布を先に食うものがある。

 同じ印の荷札ばかりを痩せさせるものがある。

 人が強く声を出した時だけ、動きを止めるように見えるものがある。


 だが、それらは知性とは呼ばれない。


 癖。

 反応。

 偶然。

 湿りの差。

 餌の匂い。

 酸の強さ。


 そう記録される。


 そう記録するしかない。


 スライムが言葉を分かるなどと書けば、分類が崩れる。


 民ではないものが、民の言葉に反応することになる。


 文化圏ではないものが、文化圏の印を覚えることになる。


 契約できないものが、封蝋の違いを知ることになる。


 それは、王立学術院の分類には置きにくい。


 だから、置かない。


 スライムは文化圏ではない。


 スライムに知性はない。


 スライムは汚れを処理するもの。


 そう書けば、表は閉じる。


 だが、閉じた表の外で、ぬめりはまだ動いている。


 消えた汚れのあとに、何かを残しながら。


 食った文字の形を、どこかに沈めながら。


 誰にも読まれないまま、次の汚れへ移っていく。

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