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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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12/21

第4文化圏 オーガ 蹄を見る者を歌う者

 バルグは、戦の歌に入らない。


 それは、まだ若いからではない。


 傷がないからでもない。


 血統が薄いからでもない。


 彼の父は、三つの冬を越えた戦士だった。


 母は、七つの天幕を渡って子を産んだ女だった。


 祖父は、南の低地でケンタウロスの槍を受けた者として歌に残っている。


 だから、血統だけを見れば、バルグは中心の火のそばに座ってよい若者だった。


 だが、彼はそこに座りにくかった。


 戦の歌を覚えるのが、遅い。


 敵の名は覚えられる。


 馬道も覚えられる。


 どの谷で水が濁ったかも覚えられる。


 どの骨の山にスライムが寄ったかも覚えられる。


 だが、誰が誰を倒したかを長く歌おうとすると、途中で節がずれる。


 部族長の祖父の名を、ひとつ飛ばしたこともある。


 その時、火のそばが静かになった。


 忘れたのではない。


 ただ、先に馬の蹄が浮かんだ。


 南の低地で、祖父の馬が蹄を割って倒れたこと。


 倒れた馬を置いて、戦士たちが歩いて帰ったこと。


 そのせいで、次の谷まで幼い子を三人背負ったこと。


 バルグは、それを覚えていた。


 だが、長い歌では、祖父が槍を受けて立ったことの方が大きく残る。


 割れた蹄は、歌の端にしかない。


 バルグは、その端ばかりを見てしまう。


     *


 朝、彼は馬の足元にいた。


 部族はまだ完全には起きていない。


 天幕の布は夜露を含み、火の灰は低く白い。


 犬が骨の山の方へ鼻を向けている。


 子どもが一人、母の腕から抜け出そうとしていた。


 バルグは、その子を見て、骨の山を見た。


 近い。


 昨日より、また近い。


 犬がくわえて運んだ骨が、天幕の輪の内側へ一本入っている。


 彼は、それを拾った。


 脂が残っている。


 指が滑る。


 臭いも強い。


 そのまま風下へ運ぶ。


 途中で、年上の戦士が笑った。


「また骨か」


 バルグは答えなかった。


「お前は骨と蹄ばかり見ている」


 それにも答えなかった。


 答えれば、笑いが長くなる。


 黙っていれば、早く終わる。


 バルグは、それを知っている。


 彼は骨を置き、乾いた草をかぶせた。


 本当は、もっと遠くがよい。


 だが、出発前で人手が足りない。


 いま動かせる距離は、ここまでだった。


 それから、馬の列へ戻った。


 白くただれていた左前の蹄を見る。


 昨日より熱は低い。


 だが、縁がまだ軟らかい。


 泥を落としきれていない。


 バルグは革紐をほどき、布を外した。


 馬が嫌がって首を振る。


「痛いな」


 バルグは小さく言った。


 馬は答えない。


 だが、蹄を持ち上げる角度で分かる。


 痛い。


 歩ける。


 しかし、急げば裂ける。


 この三つは違う。


 戦士たちは、最初の二つしか見ない。


 馬が痛がるか。


 歩けるか。


 バルグは、三つ目を見る。


 急げばどうなるか。


 それを見てしまう。


「よく見るな」


 背後から声がした。


 バルグは振り向かなかった。


 誰の声か、分かったからだ。


 痩せた歌い手、サルガである。


 火のそばにいる時は、いつも低く喉を鳴らしている。


 境界杭を歌に入れようとして、年寄りたちに嫌な顔をされた男だ。


 サルガは、馬の横へしゃがんだ。


 歌い手のくせに、足音が薄い。


 近づかれるまで気づかないことがある。


 バルグは、それが少し苦手だった。


 苦手なのに、嫌ではなかった。


「見るしかない」


「誰も見ないからか」


「見えるからだ」


 サルガは笑った。


 その笑いは、戦士たちの笑いとは違った。


 上からではない。


 からかいでもある。


 だが、切り捨てる笑いではない。


「見える者は、面倒だな」


「なら見るなと言え」


「俺は言わない」


 バルグは、そこで初めてサルガを見た。


 サルガの目は、馬の蹄ではなく、バルグの手を見ていた。


 骨の脂が残った指。


 泥で黒くなった爪。


 馬の足を支えている腕。


 見られていると気づき、バルグは手を引きそうになった。


 だが、馬の蹄を落とすわけにはいかない。


「手が汚れている」


 バルグが言うと、サルガは目を細めた。


「汚れている手ほど、何をしたか分かる」


「歌い手は、そういうことばかり言う」


「お前は、そういうことを嫌がる顔ばかりする」


 バルグは黙った。


 サルガは、なおも見ている。


 蹄を見る者を、誰かが見ている。


 それだけのことなのに、バルグの胸の奥が落ち着かなかった。


     *


 部族は西へ寄ることになっていた。


 水は少ない。


 草も濃くない。


 だが、馬を休ませるには足りる。


 部族長の判断は決まっている。


 だから、若い戦士たちは不満だった。


 南へ下れば、王国の境界杭がある。


 抜いて燃やせばよい。


 そう考える者が多い。


 杭を抜くことは、分かりやすい。


 笑える。


 怒れる。


 歌にもなる。


 西へ寄って、馬を休ませることは、歌にしにくい。


 まして、白くただれた蹄のために道を変えたなど、戦士たちは口にしたがらない。


 バルグは、水革を持つ女のそばで馬を見ていた。


 女が言った。


「その馬は、先に水か」


「先に泥を落とす」


「水が少ない」


「泥が残れば裂ける」


「裂けたら」


「置くことになる」


 女は黙った。


 馬を置く。


 その言葉は軽くない。


 オーガの部族で、馬を置くということは、荷を置くことに近い。


 子を乗せられない。


 怪我人を運べない。


 羊皮を捨てる。


 鍋を捨てる。


 骨のある者を置いていくことすらある。


 水革を持つ女は、少し考え、革袋を傾けた。


「少しだけだ」


「足りる」


 バルグは馬の蹄へ水をかけた。


 泥が黒く流れる。


 白くただれた縁が見えた。


 女が眉を寄せた。


「これは悪いのか」


「まだ悪くない」


「なら、なぜそんな顔をする」


「悪くなる前の顔だから」


 女は、奇妙なものを見るようにバルグを見た。


 それから小さく言った。


「お前は、悪くなる前ばかり見ているな」


 バルグは答えなかった。


 そうなのだと思った。


 悪くなる前。


 腹を壊す前。


 馬が倒れる前。


 骨の山に犬が集まる前。


 杭を忘れて、また同じ場所で王国兵とぶつかる前。


 彼は、そういうものが気になる。


 まだ起きていないものを言うと、笑われる。


 起きてから言うと、遅い。


 その間に立つ言葉を、バルグはうまく持てなかった。


 少し離れたところで、サルガがこちらを見ていた。


 何も言わない。


 ただ、見ている。


 バルグは、その視線に気づかないふりをした。


 だが、気づいていた。


     *


 出発前、子どもたちは天幕の外に集められた。


 母たちは荷をまとめている。


 戦士たちは武器を見る。


 年寄りは火の灰を埋める。


 バルグは、子どもたちが骨の山へ近づかないように、そちら側へ立っていた。


 そのせいで、また笑われた。


「骨番」


 今度は、年下の子が真似をした。


「骨番、骨番」


 周りの子どもが笑う。


 バルグは、その子を見た。


 その子は昨日、腹を壊していた。


 薄い汁を先に飲ませた子である。


 今日は笑っている。


 それなら、よい。


 そう思った。


 腹が戻ったなら、笑えばよい。


 笑われることと、子が歩けることを比べれば、後者の方が重い。


 そう考えてから、バルグは少し嫌になった。


 自分はまた、歌にならない方を選んでいる。


 戦士なら、からかわれれば言い返す。


 腕をつかむ。


 押し倒す。


 笑いを止める。


 だが、バルグは子どもの腹を見た。


 目の下の色を見る。


 足取りを見る。


 昨日よりよい。


 それで十分だと思ってしまう。


 彼は、中心の火に向かない。


 そう思った。


「骨番か」


 背後でサルガが言った。


 バルグは振り返った。


「お前まで言うな」


「呼びやすい」


「好きではない」


「なら、蹄番」


「もっと嫌だ」


 サルガは笑った。


 笑いながら、バルグの横へ立つ。


 近い。


 戦士たちが並ぶ距離より、少し近い。


 肩が触れそうで、触れない。


 バルグは一歩ずれようとした。


 だが、サルガが先に言った。


「離れるな。そこに立っていろ」


「なぜ」


「骨の方へ子が行く」


 確かに、子どもが一人、また骨の方を見ていた。


 バルグは足を止めた。


 サルガは、低く喉を鳴らした。


 骨を遠く。


 腹を軽く。


 子を火の内に戻せ。


 短い節だった。


 子どもたちが、すぐに真似する。


 骨を遠く。


 腹を軽く。


 意味は少しずれている。


 だが、骨から離れた。


 笑っていた子も、節を真似しながら天幕の方へ戻った。


 バルグは、サルガを見た。


「今のは何だ」


「骨番の歌だ」


「やめろ」


「役に立った」


「そういう問題じゃない」


「そういう問題だ」


 サルガは言った。


 その声は低かった。


 バルグだけに届くほど低い。


「お前が黙って立っているだけでは、あいつらは笑う。俺が歌えば、あいつらは真似る」


「俺を笑って真似ているだけだ」


「それでも骨から離れた」


 バルグは何も言えなかった。


 それは、その通りだった。


     *


 南から二騎が戻った。


 偵察に出ていた若者たちだった。


 彼らは、王国の杭の近くで、荷馬車の跡を見たという。


 新しい。


 車輪が深い。


 荷が重い。


 馬ではなく牛かもしれない。


 王国の開拓隊が、低地へ道具を運んでいる。


 火のそばにいた者たちがざわめいた。


「なら、南だ」


「杭を抜く」


「荷を奪える」


「王国の道具を燃やせる」


 声が大きくなる。


 部族長は黙って聞いていた。


 サルガは喉を鳴らしていた。


 バルグは、馬の列を見た。


 白い蹄の馬は、南へは向かない。


 南の低地は湿っている。


 杭が立つ場所なら、人の足が踏み固めている。


 牛車の跡が深いなら、泥も深い。


 そこへ行けば、蹄は悪くなる。


 悪くなるのは、一頭だけではない。


 馬が遅れれば、部族も遅れる。


 荷を奪っても、運ぶ馬が悪ければ、奪ったものを捨てることになる。


 バルグは、喉が乾くのを感じた。


 言わなければならない。


 だが、言えば笑われる。


 また骨番が蹄を言う。


 また戦の前に水を惜しむなと言う。


 また南へ行くなと言う。


 彼は、そういう者になる。


 中心の火の前で、若い戦士たちが南を望んでいる。


 部族長は、まだ決めていない。


 今なら、言える。


 言わなければ、南へ行くかもしれない。


 バルグは一歩前へ出ようとした。


 その時、サルガの手が彼の腕に触れた。


 強くはない。


 止めるほどではない。


 ただ、触れただけだった。


 それなのに、バルグは息を止めた。


 サルガは、彼を見ていない。


 火の方を見ている。


 だが、指だけがバルグの腕にあった。


「言え」


 低い声だった。


「笑われる」


「俺が聞いている」


「お前が聞いても」


「俺が歌う」


 バルグは、サルガを見た。


 サルガはまだ火の方を見ている。


 横顔だけだった。


 痩せた頬。


 傷の少ない顎。


 戦士のように太くはない首。


 だが、その喉には部族の記憶がある。


 バルグは腕に残る指の熱を感じた。


 その熱が離れる前に、彼は一歩前へ出た。


「南は、蹄が悪くなる」


 声は大きくなかった。


 しかし、火のそばでは聞こえた。


 若い戦士が振り向いた。


「また蹄か」


 別の者が笑った。


「骨番は南が怖いらしい」


 バルグは、拳を握った。


 言い返したい。


 怖くないと言いたい。


 南へ行って杭を抜くくらいできると言いたい。


 だが、それでは意味がない。


 彼は、南の泥を見ている。


 白い蹄を見ている。


 牛車の跡を聞いている。


 馬の荷を見ている。


「牛車の跡が深いなら、泥が残る。泥が残れば蹄が割れる。蹄が割れれば荷を捨てる。荷を捨てれば、奪っても持てない」


 戦士たちの笑いが少し薄れた。


 部族長がバルグを見た。


「何頭、悪い」


「三頭、熱がある。一頭は白くただれている。二頭は割れが浅い」


「西へ行けば」


「三日は歩ける。休ませれば戻る。南へ行けば、裂けるかもしれない」


「かもしれない、か」


 部族長の声は低かった。


 バルグは息を止めた。


 かもしれない。


 その言葉は弱い。


 戦士の言葉ではない。


 倒した。


 奪った。


 燃やした。


 守った。


 そういう言葉に比べると、かもしれない、は弱い。


 だが、草原では、かもしれないものを見なければ死ぬ。


 バルグは言った。


「裂けてからでは、遅い」


 沈黙が落ちた。


 水革の女が、横から言った。


「朝、私も見た。悪くなる前の蹄だ」


 鍋番の女も言った。


「子どもの腹も、まだ戻りきっていない。南へ急げば遅れる」


 年寄りが咳をした。


「牛車の跡が深いなら、低地は湿っている」


 少しずつ、声が増えた。


 戦士たちは不満そうだった。


 だが、笑いは止まっていた。


 部族長は、火の灰を見た。


 それから言った。


「西へ寄る。南は、歌に残す」


 サルガの喉が、低く鳴った。


 王国の杭。


 牛車の跡。


 湿った低地。


 裂ける前の蹄。


 西へ寄った朝。


 新しい節が、まだ声になる前に形を持ちはじめていた。


 バルグは、サルガの方を見なかった。


 見れば、何かが顔に出る気がした。


     *


 部族が動き出すと、草原はすぐに忙しくなる。


 天幕は丸められる。


 羊皮は束ねられる。


 鍋は冷まされる。


 骨の山は遠ざけられる。


 子どもは馬へ乗せられる。


 年寄りは低い荷台へ座る。


 犬は走る。


 馬は鼻を鳴らす。


 バルグは、白い蹄の馬の荷を減らした。


 水革を一つ、別の馬へ移す。


 小さな鍋を、若い戦士に持たせる。


 戦士は不満そうだった。


「なぜ俺が鍋を持つ」


「馬が持てない」


「俺は馬ではない」


「だから持てる」


 近くで誰かが笑った。


 今度の笑いは、先ほどより少し軽かった。


 馬鹿にするだけではない笑いだった。


 若い戦士は舌打ちしたが、鍋を持った。


 白い蹄の馬は、少し歩きやすそうになった。


 バルグは、その足取りを見た。


 まだ痛い。


 だが、歩ける。


 急がなければ、裂けないかもしれない。


 また、かもしれない、である。


 彼の仕事は、いつもそこにある。


 確定した手柄ではない。


 防いだかもしれない失敗。


 起きなかったかもしれない病。


 裂けなかったかもしれない蹄。


 歌になりにくい。


 だが、部族は歩いている。


 列の少し後ろから、サルガの声がした。


 まだ小さい。


 正式な長調ではない。


 子どもが覚えるための短い節に近い。


 川を越えず、杭を燃やさず。

 牛の車輪、泥を深くし。

 白い蹄、裂ける前に。

 骨を遠く、馬を軽く。

 西の谷へ、三日寄る。


 近くの子どもが笑った。


「骨番の歌だ」


 バルグは振り向いた。


 サルガは、わざと知らない顔をしている。


 子どもが節を真似した。


 骨を遠く、馬を軽く。


 別の子も真似した。


 馬を軽く。


 骨を遠く。


 節はすぐ崩れた。


 だが、言葉は残った。


 骨を遠く。


 馬を軽く。


 バルグは、嫌な顔をした。


 しかし、完全には嫌ではなかった。


 子どもが覚えれば、次の野営で骨の山は少し遠くなるかもしれない。


 馬の荷も少し軽くなるかもしれない。


 彼が毎回言わなくても、誰かが思い出すかもしれない。


 サルガは横目で彼を見た。


「歌になったぞ」


「変な歌だ」


「変なものほど残る」


「俺の名は入れるな」


「なら、骨番で入れる」


「やめろ」


「蹄番」


「もっとやめろ」


 サルガは笑った。


 バルグも、少しだけ息を漏らした。


「なら、何と入れる」


 サルガが聞いた。


「入れなくていい」


「それは聞いた」


「なら聞くな」


「俺は、残す名を聞いている」


 バルグは黙った。


 残す名。


 そんなものは、戦士が持つものだ。


 敵を倒した者。


 杭を抜いた者。


 冬を越えた者。


 彼にはない。


 バルグはそう思った。


 だが、サルガは待っていた。


 急かさない。


 笑わない。


 ただ、待っている。


 その沈黙が、妙に逃げ場をなくす。


「バルグでいい」


 小さく言った。


 サルガの目が、少しだけ細くなった。


「そうか」


「何だ」


「やっと言った」


「自分の名くらい言う」


「火の前では言わない」


 バルグは顔を背けた。


 サルガは、それ以上からかわなかった。


 ただ、もう一度だけ低く節を鳴らした。


 骨を遠く、馬を軽く。

 バルグは裂ける前を見た。


 バルグは、歩きながら拳を握った。


 恥ずかしい。


 腹が立つ。


 なのに、その節が耳から離れなかった。


     *


 夕方、西の谷が見えた。


 草は濃くない。


 水も多くない。


 だが、風は弱い。


 馬を休ませるには悪くない場所だった。


 部族長は、そこで止まることを決めた。


 天幕の位置が決まる。


 馬の輪が決まる。


 火の場所が決まる。


 骨の山の場所を決める前に、バルグは風を見た。


 サルガが横に立った。


「どこだ」


「もっと外」


「遠いな」


「近いと犬が運ぶ」


「歌の通りだ」


「歌で言うな」


「言わないと忘れる」


 バルグは、骨の山の場所を示した。


 子どもが数人、そこを見ていた。


 ひとりが言った。


「骨は遠く」


 別の子が続けた。


「馬は軽く」


 バルグは顔をしかめた。


 だが、骨の山は遠くなった。


 それでよかった。


 名前が残るかどうかは、まだ分からない。


 残らなくてもよい。


 骨が遠くなればよい。


 馬が歩ければよい。


 子どもが腹を壊さなければよい。


 部族が明日も動ければよい。


 そう考える自分を、バルグは少し情けなく思い、少し誇らしくも思った。


 サルガは、バルグが示した場所へ骨を運びはじめた。


 歌い手が骨を持つことは珍しい。


 近くの戦士が笑いかけて、途中でやめた。


 昼に部族長が西を選んだことを、皆が覚えている。


 バルグが言ったことを、皆が聞いている。


 サルガが歌にしたことを、子どもたちがもう真似している。


 笑えば、自分の方が遅れる。


 そういう空気が、少しだけ生まれていた。


 バルグは、サルガから骨を受け取った。


 指先が触れた。


 脂と泥で汚れた手同士だった。


 サルガが、低く言った。


「汚いな」


「お前が持ったからだ」


「お前の仕事だろう」


「歌い手は歌っていろ」


「歌うために見ている」


 バルグは返事をしなかった。


 指先に触れた感覚が、なぜか骨の臭いより強く残っていた。


     *


 夜、火のそばで長い歌が始まった。


 大きな歌である。


 祖父の名。


 戦士の名。


 倒した敵。


 越えた冬。


 失った馬。


 守った子。


 王国の杭。


 ケンタウロスの槍。


 そうしたものが、低い声でつながっていく。


 バルグは、火の輪の少し外に座った。


 中心ではない。


 だが、完全に外でもない。


 馬の列が見える場所である。


 白い蹄の馬は、横にならずに立っている。


 痛みは残っている。


 しかし、悪くはなっていない。


 サルガが長い歌の合間に、短い節を差し込んだ。


 骨を遠く、馬を軽く。

 裂ける前に、蹄を見よ。

 南の泥を避けた者。

 バルグは西へ足を残した。


 火のそばが、少し静かになった。


 名が入った。


 バルグの名が。


 戦士の一人が鼻で笑おうとした。


 しかし、年寄りの一人が先に頷いた。


「よい」


 その一言で、笑いは消えた。


 鍋番の女が、低く節を繰り返した。


 水革の女も、後半だけをなぞった。


 子どもはすぐ真似した。


 バルグは、膝の上で手を握った。


 自分の名である。


 手柄ではない。


 敵を倒していない。


 杭を抜いていない。


 ただ、蹄を見た。


 それなのに、名が火のそばに置かれた。


 怖かった。


 嬉しいとは、すぐには思えなかった。


 声になれば、笑われる。


 声になれば、残る。


 声になれば、次から自分はさらに見なければならなくなる。


 見える者として扱われる。


 それは、中心へ近づくことではない。


 中心とは別の場所を与えられることだった。


 サルガが、火の向こうからバルグを見ていた。


 その目が、言っているように見えた。


 逃げるな。


 お前は、そこに座れ。


 バルグは目をそらした。


 だが、立たなかった。


     *


 夜が深くなり、歌が途切れたころ、バルグは馬の列を見に行った。


 白い蹄の馬は、まだ立っている。


 熱は少し下がっていた。


 布を巻き直そうとすると、背後から足音がした。


 サルガだった。


「まだ見るのか」


「見る」


「歌にしたのに」


「歌にしても、蹄は治らない」


 サルガは笑った。


「そうだな」


 それから、隣にしゃがんだ。


 近い。


 昼よりも近い。


 火から離れているせいか、声が低く聞こえる。


「怒ったか」


「何に」


「名を入れた」


「怒っている」


「そうか」


「勝手に入れるな」


「入れなければ、また骨番だ」


「骨番でもよかった」


「よくない」


 サルガの声が、少しだけ強くなった。


 バルグは手を止めた。


 サルガは、馬ではなくバルグを見ている。


「お前は、骨番ではない」


「蹄番でもない」


「そうだ」


「なら何だ」


「バルグだ」


 ただ名前を言われただけだった。


 それだけなのに、妙に重かった。


 火のそばで聞いた時よりも、近かった。


 サルガの喉から出たその名は、歌ではない。


 だが、歌よりも逃げにくい。


 バルグは、布を巻く手に力を入れた。


「変な声で呼ぶな」


「どんな声だ」


「知らん」


 サルガは笑った。


 そして、何も言わずに布の端を持った。


 二人で馬の脚に布を巻く。


 片方が押さえ、片方が結ぶ。


 戦士同士なら、こんな作業はほとんど言葉にならない。


 だが、バルグには分かった。


 サルガは、手順を覚えようとしている。


 歌にするためか。


 それとも、次に自分で巻くためか。


 分からない。


 布を結び終えた時、サルガの手がまたバルグの指に触れた。


 今度は、すぐには離れなかった。


 一息分だけ、残った。


 バルグは、顔を上げなかった。


 サルガも何も言わなかった。


 馬が鼻を鳴らす。


 遠くで犬が吠える。


 火のそばでは、誰かが寝返りを打った。


 それだけだった。


 だが、その一息分の沈黙を、バルグは長く覚えることになる。


     *


 第4文化圏では、強い者が火の前に座る。


 長く歌える者が名を残す。


 多く倒した者が子に覚えられる。


 それは、草原を生きるために必要な秩序である。


 だが、火の外側にも座る者がいる。


 馬の蹄を見る者。


 骨の山を遠ざける者。


 腹を壊す前の子を見る者。


 境界杭の位置を、抜く前に覚えようとする者。


 南へ行けば裂けるかもしれないと、笑われながら言う者。


 その者たちは、部族の中心ではない。


 しかし、中心だけでは部族は動けない。


 バルグは、まだ戦の歌には入らない。


 祖父のように槍を受けたわけでもない。


 父のように冬の敵を倒したわけでもない。


 部族長のように道を決めたわけでもない。


 ただ、蹄を見た。


 骨を遠ざけた。


 南へ行かない理由を言った。


 そして、その声はサルガの喉を通って、小さな節になった。


 草原には、そういう名の残り方もある。


 血統の大きな歌ではなく。


 子どもの口に残る、短い移動の歌として。


 あるいは、誰か一人の声に呼ばれる名として。

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