第4文化圏 オーガ 蹄を見る者を歌う者
バルグは、戦の歌に入らない。
それは、まだ若いからではない。
傷がないからでもない。
血統が薄いからでもない。
彼の父は、三つの冬を越えた戦士だった。
母は、七つの天幕を渡って子を産んだ女だった。
祖父は、南の低地でケンタウロスの槍を受けた者として歌に残っている。
だから、血統だけを見れば、バルグは中心の火のそばに座ってよい若者だった。
だが、彼はそこに座りにくかった。
戦の歌を覚えるのが、遅い。
敵の名は覚えられる。
馬道も覚えられる。
どの谷で水が濁ったかも覚えられる。
どの骨の山にスライムが寄ったかも覚えられる。
だが、誰が誰を倒したかを長く歌おうとすると、途中で節がずれる。
部族長の祖父の名を、ひとつ飛ばしたこともある。
その時、火のそばが静かになった。
忘れたのではない。
ただ、先に馬の蹄が浮かんだ。
南の低地で、祖父の馬が蹄を割って倒れたこと。
倒れた馬を置いて、戦士たちが歩いて帰ったこと。
そのせいで、次の谷まで幼い子を三人背負ったこと。
バルグは、それを覚えていた。
だが、長い歌では、祖父が槍を受けて立ったことの方が大きく残る。
割れた蹄は、歌の端にしかない。
バルグは、その端ばかりを見てしまう。
*
朝、彼は馬の足元にいた。
部族はまだ完全には起きていない。
天幕の布は夜露を含み、火の灰は低く白い。
犬が骨の山の方へ鼻を向けている。
子どもが一人、母の腕から抜け出そうとしていた。
バルグは、その子を見て、骨の山を見た。
近い。
昨日より、また近い。
犬がくわえて運んだ骨が、天幕の輪の内側へ一本入っている。
彼は、それを拾った。
脂が残っている。
指が滑る。
臭いも強い。
そのまま風下へ運ぶ。
途中で、年上の戦士が笑った。
「また骨か」
バルグは答えなかった。
「お前は骨と蹄ばかり見ている」
それにも答えなかった。
答えれば、笑いが長くなる。
黙っていれば、早く終わる。
バルグは、それを知っている。
彼は骨を置き、乾いた草をかぶせた。
本当は、もっと遠くがよい。
だが、出発前で人手が足りない。
いま動かせる距離は、ここまでだった。
それから、馬の列へ戻った。
白くただれていた左前の蹄を見る。
昨日より熱は低い。
だが、縁がまだ軟らかい。
泥を落としきれていない。
バルグは革紐をほどき、布を外した。
馬が嫌がって首を振る。
「痛いな」
バルグは小さく言った。
馬は答えない。
だが、蹄を持ち上げる角度で分かる。
痛い。
歩ける。
しかし、急げば裂ける。
この三つは違う。
戦士たちは、最初の二つしか見ない。
馬が痛がるか。
歩けるか。
バルグは、三つ目を見る。
急げばどうなるか。
それを見てしまう。
「よく見るな」
背後から声がした。
バルグは振り向かなかった。
誰の声か、分かったからだ。
痩せた歌い手、サルガである。
火のそばにいる時は、いつも低く喉を鳴らしている。
境界杭を歌に入れようとして、年寄りたちに嫌な顔をされた男だ。
サルガは、馬の横へしゃがんだ。
歌い手のくせに、足音が薄い。
近づかれるまで気づかないことがある。
バルグは、それが少し苦手だった。
苦手なのに、嫌ではなかった。
「見るしかない」
「誰も見ないからか」
「見えるからだ」
サルガは笑った。
その笑いは、戦士たちの笑いとは違った。
上からではない。
からかいでもある。
だが、切り捨てる笑いではない。
「見える者は、面倒だな」
「なら見るなと言え」
「俺は言わない」
バルグは、そこで初めてサルガを見た。
サルガの目は、馬の蹄ではなく、バルグの手を見ていた。
骨の脂が残った指。
泥で黒くなった爪。
馬の足を支えている腕。
見られていると気づき、バルグは手を引きそうになった。
だが、馬の蹄を落とすわけにはいかない。
「手が汚れている」
バルグが言うと、サルガは目を細めた。
「汚れている手ほど、何をしたか分かる」
「歌い手は、そういうことばかり言う」
「お前は、そういうことを嫌がる顔ばかりする」
バルグは黙った。
サルガは、なおも見ている。
蹄を見る者を、誰かが見ている。
それだけのことなのに、バルグの胸の奥が落ち着かなかった。
*
部族は西へ寄ることになっていた。
水は少ない。
草も濃くない。
だが、馬を休ませるには足りる。
部族長の判断は決まっている。
だから、若い戦士たちは不満だった。
南へ下れば、王国の境界杭がある。
抜いて燃やせばよい。
そう考える者が多い。
杭を抜くことは、分かりやすい。
笑える。
怒れる。
歌にもなる。
西へ寄って、馬を休ませることは、歌にしにくい。
まして、白くただれた蹄のために道を変えたなど、戦士たちは口にしたがらない。
バルグは、水革を持つ女のそばで馬を見ていた。
女が言った。
「その馬は、先に水か」
「先に泥を落とす」
「水が少ない」
「泥が残れば裂ける」
「裂けたら」
「置くことになる」
女は黙った。
馬を置く。
その言葉は軽くない。
オーガの部族で、馬を置くということは、荷を置くことに近い。
子を乗せられない。
怪我人を運べない。
羊皮を捨てる。
鍋を捨てる。
骨のある者を置いていくことすらある。
水革を持つ女は、少し考え、革袋を傾けた。
「少しだけだ」
「足りる」
バルグは馬の蹄へ水をかけた。
泥が黒く流れる。
白くただれた縁が見えた。
女が眉を寄せた。
「これは悪いのか」
「まだ悪くない」
「なら、なぜそんな顔をする」
「悪くなる前の顔だから」
女は、奇妙なものを見るようにバルグを見た。
それから小さく言った。
「お前は、悪くなる前ばかり見ているな」
バルグは答えなかった。
そうなのだと思った。
悪くなる前。
腹を壊す前。
馬が倒れる前。
骨の山に犬が集まる前。
杭を忘れて、また同じ場所で王国兵とぶつかる前。
彼は、そういうものが気になる。
まだ起きていないものを言うと、笑われる。
起きてから言うと、遅い。
その間に立つ言葉を、バルグはうまく持てなかった。
少し離れたところで、サルガがこちらを見ていた。
何も言わない。
ただ、見ている。
バルグは、その視線に気づかないふりをした。
だが、気づいていた。
*
出発前、子どもたちは天幕の外に集められた。
母たちは荷をまとめている。
戦士たちは武器を見る。
年寄りは火の灰を埋める。
バルグは、子どもたちが骨の山へ近づかないように、そちら側へ立っていた。
そのせいで、また笑われた。
「骨番」
今度は、年下の子が真似をした。
「骨番、骨番」
周りの子どもが笑う。
バルグは、その子を見た。
その子は昨日、腹を壊していた。
薄い汁を先に飲ませた子である。
今日は笑っている。
それなら、よい。
そう思った。
腹が戻ったなら、笑えばよい。
笑われることと、子が歩けることを比べれば、後者の方が重い。
そう考えてから、バルグは少し嫌になった。
自分はまた、歌にならない方を選んでいる。
戦士なら、からかわれれば言い返す。
腕をつかむ。
押し倒す。
笑いを止める。
だが、バルグは子どもの腹を見た。
目の下の色を見る。
足取りを見る。
昨日よりよい。
それで十分だと思ってしまう。
彼は、中心の火に向かない。
そう思った。
「骨番か」
背後でサルガが言った。
バルグは振り返った。
「お前まで言うな」
「呼びやすい」
「好きではない」
「なら、蹄番」
「もっと嫌だ」
サルガは笑った。
笑いながら、バルグの横へ立つ。
近い。
戦士たちが並ぶ距離より、少し近い。
肩が触れそうで、触れない。
バルグは一歩ずれようとした。
だが、サルガが先に言った。
「離れるな。そこに立っていろ」
「なぜ」
「骨の方へ子が行く」
確かに、子どもが一人、また骨の方を見ていた。
バルグは足を止めた。
サルガは、低く喉を鳴らした。
骨を遠く。
腹を軽く。
子を火の内に戻せ。
短い節だった。
子どもたちが、すぐに真似する。
骨を遠く。
腹を軽く。
意味は少しずれている。
だが、骨から離れた。
笑っていた子も、節を真似しながら天幕の方へ戻った。
バルグは、サルガを見た。
「今のは何だ」
「骨番の歌だ」
「やめろ」
「役に立った」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題だ」
サルガは言った。
その声は低かった。
バルグだけに届くほど低い。
「お前が黙って立っているだけでは、あいつらは笑う。俺が歌えば、あいつらは真似る」
「俺を笑って真似ているだけだ」
「それでも骨から離れた」
バルグは何も言えなかった。
それは、その通りだった。
*
南から二騎が戻った。
偵察に出ていた若者たちだった。
彼らは、王国の杭の近くで、荷馬車の跡を見たという。
新しい。
車輪が深い。
荷が重い。
馬ではなく牛かもしれない。
王国の開拓隊が、低地へ道具を運んでいる。
火のそばにいた者たちがざわめいた。
「なら、南だ」
「杭を抜く」
「荷を奪える」
「王国の道具を燃やせる」
声が大きくなる。
部族長は黙って聞いていた。
サルガは喉を鳴らしていた。
バルグは、馬の列を見た。
白い蹄の馬は、南へは向かない。
南の低地は湿っている。
杭が立つ場所なら、人の足が踏み固めている。
牛車の跡が深いなら、泥も深い。
そこへ行けば、蹄は悪くなる。
悪くなるのは、一頭だけではない。
馬が遅れれば、部族も遅れる。
荷を奪っても、運ぶ馬が悪ければ、奪ったものを捨てることになる。
バルグは、喉が乾くのを感じた。
言わなければならない。
だが、言えば笑われる。
また骨番が蹄を言う。
また戦の前に水を惜しむなと言う。
また南へ行くなと言う。
彼は、そういう者になる。
中心の火の前で、若い戦士たちが南を望んでいる。
部族長は、まだ決めていない。
今なら、言える。
言わなければ、南へ行くかもしれない。
バルグは一歩前へ出ようとした。
その時、サルガの手が彼の腕に触れた。
強くはない。
止めるほどではない。
ただ、触れただけだった。
それなのに、バルグは息を止めた。
サルガは、彼を見ていない。
火の方を見ている。
だが、指だけがバルグの腕にあった。
「言え」
低い声だった。
「笑われる」
「俺が聞いている」
「お前が聞いても」
「俺が歌う」
バルグは、サルガを見た。
サルガはまだ火の方を見ている。
横顔だけだった。
痩せた頬。
傷の少ない顎。
戦士のように太くはない首。
だが、その喉には部族の記憶がある。
バルグは腕に残る指の熱を感じた。
その熱が離れる前に、彼は一歩前へ出た。
「南は、蹄が悪くなる」
声は大きくなかった。
しかし、火のそばでは聞こえた。
若い戦士が振り向いた。
「また蹄か」
別の者が笑った。
「骨番は南が怖いらしい」
バルグは、拳を握った。
言い返したい。
怖くないと言いたい。
南へ行って杭を抜くくらいできると言いたい。
だが、それでは意味がない。
彼は、南の泥を見ている。
白い蹄を見ている。
牛車の跡を聞いている。
馬の荷を見ている。
「牛車の跡が深いなら、泥が残る。泥が残れば蹄が割れる。蹄が割れれば荷を捨てる。荷を捨てれば、奪っても持てない」
戦士たちの笑いが少し薄れた。
部族長がバルグを見た。
「何頭、悪い」
「三頭、熱がある。一頭は白くただれている。二頭は割れが浅い」
「西へ行けば」
「三日は歩ける。休ませれば戻る。南へ行けば、裂けるかもしれない」
「かもしれない、か」
部族長の声は低かった。
バルグは息を止めた。
かもしれない。
その言葉は弱い。
戦士の言葉ではない。
倒した。
奪った。
燃やした。
守った。
そういう言葉に比べると、かもしれない、は弱い。
だが、草原では、かもしれないものを見なければ死ぬ。
バルグは言った。
「裂けてからでは、遅い」
沈黙が落ちた。
水革の女が、横から言った。
「朝、私も見た。悪くなる前の蹄だ」
鍋番の女も言った。
「子どもの腹も、まだ戻りきっていない。南へ急げば遅れる」
年寄りが咳をした。
「牛車の跡が深いなら、低地は湿っている」
少しずつ、声が増えた。
戦士たちは不満そうだった。
だが、笑いは止まっていた。
部族長は、火の灰を見た。
それから言った。
「西へ寄る。南は、歌に残す」
サルガの喉が、低く鳴った。
王国の杭。
牛車の跡。
湿った低地。
裂ける前の蹄。
西へ寄った朝。
新しい節が、まだ声になる前に形を持ちはじめていた。
バルグは、サルガの方を見なかった。
見れば、何かが顔に出る気がした。
*
部族が動き出すと、草原はすぐに忙しくなる。
天幕は丸められる。
羊皮は束ねられる。
鍋は冷まされる。
骨の山は遠ざけられる。
子どもは馬へ乗せられる。
年寄りは低い荷台へ座る。
犬は走る。
馬は鼻を鳴らす。
バルグは、白い蹄の馬の荷を減らした。
水革を一つ、別の馬へ移す。
小さな鍋を、若い戦士に持たせる。
戦士は不満そうだった。
「なぜ俺が鍋を持つ」
「馬が持てない」
「俺は馬ではない」
「だから持てる」
近くで誰かが笑った。
今度の笑いは、先ほどより少し軽かった。
馬鹿にするだけではない笑いだった。
若い戦士は舌打ちしたが、鍋を持った。
白い蹄の馬は、少し歩きやすそうになった。
バルグは、その足取りを見た。
まだ痛い。
だが、歩ける。
急がなければ、裂けないかもしれない。
また、かもしれない、である。
彼の仕事は、いつもそこにある。
確定した手柄ではない。
防いだかもしれない失敗。
起きなかったかもしれない病。
裂けなかったかもしれない蹄。
歌になりにくい。
だが、部族は歩いている。
列の少し後ろから、サルガの声がした。
まだ小さい。
正式な長調ではない。
子どもが覚えるための短い節に近い。
川を越えず、杭を燃やさず。
牛の車輪、泥を深くし。
白い蹄、裂ける前に。
骨を遠く、馬を軽く。
西の谷へ、三日寄る。
近くの子どもが笑った。
「骨番の歌だ」
バルグは振り向いた。
サルガは、わざと知らない顔をしている。
子どもが節を真似した。
骨を遠く、馬を軽く。
別の子も真似した。
馬を軽く。
骨を遠く。
節はすぐ崩れた。
だが、言葉は残った。
骨を遠く。
馬を軽く。
バルグは、嫌な顔をした。
しかし、完全には嫌ではなかった。
子どもが覚えれば、次の野営で骨の山は少し遠くなるかもしれない。
馬の荷も少し軽くなるかもしれない。
彼が毎回言わなくても、誰かが思い出すかもしれない。
サルガは横目で彼を見た。
「歌になったぞ」
「変な歌だ」
「変なものほど残る」
「俺の名は入れるな」
「なら、骨番で入れる」
「やめろ」
「蹄番」
「もっとやめろ」
サルガは笑った。
バルグも、少しだけ息を漏らした。
「なら、何と入れる」
サルガが聞いた。
「入れなくていい」
「それは聞いた」
「なら聞くな」
「俺は、残す名を聞いている」
バルグは黙った。
残す名。
そんなものは、戦士が持つものだ。
敵を倒した者。
杭を抜いた者。
冬を越えた者。
彼にはない。
バルグはそう思った。
だが、サルガは待っていた。
急かさない。
笑わない。
ただ、待っている。
その沈黙が、妙に逃げ場をなくす。
「バルグでいい」
小さく言った。
サルガの目が、少しだけ細くなった。
「そうか」
「何だ」
「やっと言った」
「自分の名くらい言う」
「火の前では言わない」
バルグは顔を背けた。
サルガは、それ以上からかわなかった。
ただ、もう一度だけ低く節を鳴らした。
骨を遠く、馬を軽く。
バルグは裂ける前を見た。
バルグは、歩きながら拳を握った。
恥ずかしい。
腹が立つ。
なのに、その節が耳から離れなかった。
*
夕方、西の谷が見えた。
草は濃くない。
水も多くない。
だが、風は弱い。
馬を休ませるには悪くない場所だった。
部族長は、そこで止まることを決めた。
天幕の位置が決まる。
馬の輪が決まる。
火の場所が決まる。
骨の山の場所を決める前に、バルグは風を見た。
サルガが横に立った。
「どこだ」
「もっと外」
「遠いな」
「近いと犬が運ぶ」
「歌の通りだ」
「歌で言うな」
「言わないと忘れる」
バルグは、骨の山の場所を示した。
子どもが数人、そこを見ていた。
ひとりが言った。
「骨は遠く」
別の子が続けた。
「馬は軽く」
バルグは顔をしかめた。
だが、骨の山は遠くなった。
それでよかった。
名前が残るかどうかは、まだ分からない。
残らなくてもよい。
骨が遠くなればよい。
馬が歩ければよい。
子どもが腹を壊さなければよい。
部族が明日も動ければよい。
そう考える自分を、バルグは少し情けなく思い、少し誇らしくも思った。
サルガは、バルグが示した場所へ骨を運びはじめた。
歌い手が骨を持つことは珍しい。
近くの戦士が笑いかけて、途中でやめた。
昼に部族長が西を選んだことを、皆が覚えている。
バルグが言ったことを、皆が聞いている。
サルガが歌にしたことを、子どもたちがもう真似している。
笑えば、自分の方が遅れる。
そういう空気が、少しだけ生まれていた。
バルグは、サルガから骨を受け取った。
指先が触れた。
脂と泥で汚れた手同士だった。
サルガが、低く言った。
「汚いな」
「お前が持ったからだ」
「お前の仕事だろう」
「歌い手は歌っていろ」
「歌うために見ている」
バルグは返事をしなかった。
指先に触れた感覚が、なぜか骨の臭いより強く残っていた。
*
夜、火のそばで長い歌が始まった。
大きな歌である。
祖父の名。
戦士の名。
倒した敵。
越えた冬。
失った馬。
守った子。
王国の杭。
ケンタウロスの槍。
そうしたものが、低い声でつながっていく。
バルグは、火の輪の少し外に座った。
中心ではない。
だが、完全に外でもない。
馬の列が見える場所である。
白い蹄の馬は、横にならずに立っている。
痛みは残っている。
しかし、悪くはなっていない。
サルガが長い歌の合間に、短い節を差し込んだ。
骨を遠く、馬を軽く。
裂ける前に、蹄を見よ。
南の泥を避けた者。
バルグは西へ足を残した。
火のそばが、少し静かになった。
名が入った。
バルグの名が。
戦士の一人が鼻で笑おうとした。
しかし、年寄りの一人が先に頷いた。
「よい」
その一言で、笑いは消えた。
鍋番の女が、低く節を繰り返した。
水革の女も、後半だけをなぞった。
子どもはすぐ真似した。
バルグは、膝の上で手を握った。
自分の名である。
手柄ではない。
敵を倒していない。
杭を抜いていない。
ただ、蹄を見た。
それなのに、名が火のそばに置かれた。
怖かった。
嬉しいとは、すぐには思えなかった。
声になれば、笑われる。
声になれば、残る。
声になれば、次から自分はさらに見なければならなくなる。
見える者として扱われる。
それは、中心へ近づくことではない。
中心とは別の場所を与えられることだった。
サルガが、火の向こうからバルグを見ていた。
その目が、言っているように見えた。
逃げるな。
お前は、そこに座れ。
バルグは目をそらした。
だが、立たなかった。
*
夜が深くなり、歌が途切れたころ、バルグは馬の列を見に行った。
白い蹄の馬は、まだ立っている。
熱は少し下がっていた。
布を巻き直そうとすると、背後から足音がした。
サルガだった。
「まだ見るのか」
「見る」
「歌にしたのに」
「歌にしても、蹄は治らない」
サルガは笑った。
「そうだな」
それから、隣にしゃがんだ。
近い。
昼よりも近い。
火から離れているせいか、声が低く聞こえる。
「怒ったか」
「何に」
「名を入れた」
「怒っている」
「そうか」
「勝手に入れるな」
「入れなければ、また骨番だ」
「骨番でもよかった」
「よくない」
サルガの声が、少しだけ強くなった。
バルグは手を止めた。
サルガは、馬ではなくバルグを見ている。
「お前は、骨番ではない」
「蹄番でもない」
「そうだ」
「なら何だ」
「バルグだ」
ただ名前を言われただけだった。
それだけなのに、妙に重かった。
火のそばで聞いた時よりも、近かった。
サルガの喉から出たその名は、歌ではない。
だが、歌よりも逃げにくい。
バルグは、布を巻く手に力を入れた。
「変な声で呼ぶな」
「どんな声だ」
「知らん」
サルガは笑った。
そして、何も言わずに布の端を持った。
二人で馬の脚に布を巻く。
片方が押さえ、片方が結ぶ。
戦士同士なら、こんな作業はほとんど言葉にならない。
だが、バルグには分かった。
サルガは、手順を覚えようとしている。
歌にするためか。
それとも、次に自分で巻くためか。
分からない。
布を結び終えた時、サルガの手がまたバルグの指に触れた。
今度は、すぐには離れなかった。
一息分だけ、残った。
バルグは、顔を上げなかった。
サルガも何も言わなかった。
馬が鼻を鳴らす。
遠くで犬が吠える。
火のそばでは、誰かが寝返りを打った。
それだけだった。
だが、その一息分の沈黙を、バルグは長く覚えることになる。
*
第4文化圏では、強い者が火の前に座る。
長く歌える者が名を残す。
多く倒した者が子に覚えられる。
それは、草原を生きるために必要な秩序である。
だが、火の外側にも座る者がいる。
馬の蹄を見る者。
骨の山を遠ざける者。
腹を壊す前の子を見る者。
境界杭の位置を、抜く前に覚えようとする者。
南へ行けば裂けるかもしれないと、笑われながら言う者。
その者たちは、部族の中心ではない。
しかし、中心だけでは部族は動けない。
バルグは、まだ戦の歌には入らない。
祖父のように槍を受けたわけでもない。
父のように冬の敵を倒したわけでもない。
部族長のように道を決めたわけでもない。
ただ、蹄を見た。
骨を遠ざけた。
南へ行かない理由を言った。
そして、その声はサルガの喉を通って、小さな節になった。
草原には、そういう名の残り方もある。
血統の大きな歌ではなく。
子どもの口に残る、短い移動の歌として。
あるいは、誰か一人の声に呼ばれる名として。




