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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第4文化圏 オーガ 草原の朝と蹄の順

 草原の朝は、足元から始まる。


 王国の城門のように、鐘は鳴らない。


 ドワーフの炉のように、送風管も鳴らない。


 エルフの森のように、枝の間で歌が静かに返るわけでもない。


 最初に動くのは、馬である。


 鼻を鳴らす。


 蹄で地面を掻く。


 首を振り、夜の冷えを毛皮から落とす。


 それから、天幕の中で子どもが泣く。


 犬が吠える。


 誰かが火の灰を足で寄せる。


 革袋の水が、低く揺れる。


 そうして、オーガの野営地は朝になる。


 天幕は、円を描くように置かれている。


 中央には火。


 その外に大鍋。


 さらに外に馬。


 さらに外に見張り。


 骨の山は、風下に置かれている。


 少なくとも、置かれているはずだった。


 昨夜、肉を分けたあとの骨が、少し近すぎた。


 朝になれば、すぐ分かる。


 犬がそこへ行く。


 子どももそこへ行く。


 野生スライムもそこへ寄る。


 だから、朝一番に骨を見る者がいる。


 ただし、その者の名は、長い歌には残りにくい。


     *


 水場へ向かう順は、はっきり決まっているようで、紙にはない。


 まず馬。


 次に、昨日戦った者。


 次に、子どもと乳を与える者。


 それから、鍋の水。


 最後に、革袋を洗う水。


 王国の書記が聞けば、すぐに順番表を書こうとするだろう。


 だが、オーガは表を書かない。


 水場へ近づく者の顔を見る。


 馬の息を見る。


 腹を押さえる子を見る。


 昨日傷を負った者の歩き方を見る。


 そして順を変える。


 今日は、馬が先だった。


 夜のうちに西へ偵察に出た馬が三頭いる。


 その蹄が少し熱を持っていた。


 水場に連れていく若者が、馬の脚を見て首をひねった。


 馬は歩ける。


 だが、左前の蹄の縁が白く荒れている。


 昨夜、骨の山へ寄ったスライムが近づいたのかもしれない。


 若者は、その蹄を指でなぞった。


 馬が嫌がって首を振る。


 近くの戦士が笑った。


「そんなところばかり見るな。馬は歩ける」


 若者は答えなかった。


 もう一度、蹄の縁を見た。


 白い。


 湿っている。


 熱もある。


 歩ける。


 だが、長くは歩けないかもしれない。


 その違いは、戦士にはまだ見えない。


 若者には見えた。


 見えたから、彼は馬を列の前へ出した。


「先に洗う」


「水を無駄にするな」


「蹄がただれる」


「まだ歩いている」


「歩けなくなってからでは遅い」


 戦士は不満そうだった。


 だが、馬が足を引いたので、黙った。


 水場へ向かう順が、少し変わった。


 その日の朝、誰もそれを決定とは呼ばなかった。


 ただ、馬が先に水へ入っただけだった。


     *


 大鍋は、三つあった。


 ひとつは肉。


 ひとつは骨と根菜。


 ひとつは子どもと年寄りのための薄い汁である。


 王国の台所なら、これらを細かく分けるだろう。


 だが、草原では鍋が足りない。


 火を運ぶ薪も多くはない。


 水も余らない。


 だから、ひとつの鍋に多くを入れる。


 大きな肉。


 骨。


 内臓。


 草原で採れた苦い根。


 乾かした乳の塊。


 塩。


 ときには、昨日の残り。


 鍋番の女は、長い木杓子で中を回した。


 湯気が立つ。


 脂が浮く。


 肉の端は煮えている。


 だが、厚いところはまだ赤い。


 女は木杓子で肉を沈めた。


 近くで若い戦士が言った。


「もう食える」


「まだだ」


「腹が減った」


「腹が減っても、赤いところは赤い」


「戦の前なら食う」


「今日は移動だ」


 女は言った。


 戦の前なら、無理にでも食わせることがある。


 腹に何も入れずに走れば倒れるからだ。


 だが、移動の日に腹を壊せば、部族全体が遅れる。


 鍋番の女は、戦士の腹より部族の足を見ている。


 しかし、戦士はそれを手柄とは思わない。


 鍋を待つことは、戦うことより歌になりにくい。


 それでも、鍋を待たせる者がいなければ、草原の移動はすぐ病に変わる。


     *


 子どもたちは、朝のうちに天幕の紐をほどく手順を覚える。


 遊びではない。


 次の移動のためである。


 どの杭を先に抜くか。


 どの革紐を巻くか。


 濡れた羊皮をどこへ掛けるか。


 灰をどこへ埋めるか。


 まだ熱い炭をどの器へ入れるか。


 骨の残りをどこまで遠ざけるか。


 子どもの手には、まだ力がない。


 だが、軽いものなら持てる。


 紐なら巻ける。


 杭の位置なら覚えられる。


 風の向きなら見られる。


 年長の女が、子どもたちへ短く言う。


「口は風下」


 天幕の口である。


 風上へ向ければ、煙が入る。


 雨が入る。


 夜に冷えが入る。


「骨は火より外」


 骨の山を近くに置けば、犬と虫とスライムが来る。


「水革は馬の近くに置くな」


 馬が踏めば、すぐ破れる。


「赤い肉は子にやるな」


 腹を壊す。


 どれも短い。


 歌というほど長くはない。


 しかし、こうした短い言葉が日々をつなぐ。


 それでも、全てが残るわけではない。


 誰が骨を遠ざけたか。


 誰が水革を拾ったか。


 誰が子どもの手を止めたか。


 それは、長い血統歌には入りにくい。


     *


 昼前、見張りが戻った。


 北の草はまだ弱い。


 東の水場は濁っている。


 南の低地には、王国の境界杭が三本増えている。


 その報告で、火のそばが少し静かになった。


 境界杭。


 その言葉を聞くと、年寄りたちは顔をしかめる。


 若い者は棍棒を握る。


 子どもは意味が分からず、杭とは薪になるものだと思っている。


 見張りは、杭の位置を土の上へ棒で描いた。


 川。


 低い丘。


 古い馬道。


 去年、冬前に通った谷。


 その途中に、王国の杭が立っている。


「抜くか」


 若い戦士が言った。


 すぐに別の者が頷いた。


「抜いて燃やせばよい」


 年寄りの一人が首を振った。


「燃やせば、次にどこへ立てたか分からなくなる」


「分からなくていい。王国の線など」


「分からなければ、次に子が踏む」


 沈黙が落ちた。


 杭を認めるわけではない。


 しかし、杭が立った場所を忘れるわけにもいかない。


 それは、王国の所有を認めることとは別である。


 衝突する場所を覚えることだった。


 火のそばにいた痩せた歌い手が、低く鼻歌を鳴らした。


 川の名。


 低い丘。


 馬道。


 三本の杭。


 昨年の冬前。


 それらを短い節へ入れようとしていた。


 周囲の者が少し嫌な顔をする。


 王国の杭を歌に入れるな。


 そう言いたげな顔である。


 歌い手は、まだ声に出さなかった。


 ただ、喉の奥で節を転がしていた。


 見たものを忘れないために。


     *


 午後、馬の蹄を見る時間があった。


 戦の訓練より地味である。


 だが、移動の前には必要だった。


 馬を一頭ずつ立たせる。


 脚を持ち上げる。


 蹄の縁を見る。


 割れを見る。


 泥を見る。


 白くただれたところがないかを見る。


 石が挟まっていないかを見る。


 蹄の臭いを嗅ぐ者もいる。


 若い戦士たちは嫌がる。


 だが、年寄りは嫌がらない。


 馬が歩けなければ、戦士も歩く。


 荷も運べない。


 子どもも乗せられない。


 怪我人も置いていくことになる。


 朝の若者は、また蹄を見ていた。


 白く荒れた馬は、少し良くなっている。


 だが、まだ熱がある。


 若者は、骨の山の方を見た。


 近い。


 やはり近い。


 昨夜の場所が悪かった。


 彼は骨を集め始めた。


 大きな骨。


 脂の残った骨。


 内臓の欠片がついた骨。


 犬がくわえて運んだ骨。


 それらを、天幕からさらに遠ざける。


 近くの子どもが手伝おうとした。


 若者は止めた。


「触るな」


「なぜ」


「手が臭くなる。腹も壊す」


「犬は触る」


「犬は犬だ」


 子どもは不満そうだったが、引いた。


 若者は骨を運び続けた。


 誰も彼を褒めなかった。


 戦士の一人が、むしろ笑った。


「骨番か」


 若者は答えなかった。


 骨番。


 そう呼ばれるのは、気分のよいことではない。


 しかし、骨の位置で馬が悪くなるなら、見なければならない。


 見えてしまう者には、見ないふりが難しい。


     *


 夕方、移動先を決める火が囲まれた。


 北は草が弱い。


 東は水が濁っている。


 南は杭が増えた。


 西は遠いが、去年の冬に使わなかった谷がある。


 部族長は、すぐには決めない。


 見張りの報告を聞く。


 馬を見る者の言葉を聞く。


 鍋番の女の顔を見る。


 子どもを抱えた母たちの数を見る。


 年寄りの咳を聞く。


 それから、古い歌を少し歌う。


 西の谷は、かつて飢えた年に使った場所である。


 水は少ない。


 だが、風を避けられる。


 草は濃くない。


 だが、馬を三日休ませるには足りる。


 部族長は、低く言った。


「西へ寄る」


 若い戦士たちの一部は不満そうだった。


 南へ行き、杭を抜きたい者もいた。


 東の水場へ急げばよいと言う者もいた。


 だが、部族長は西を選んだ。


 馬の蹄が悪い。


 子どもが腹を壊している。


 大鍋の肉を急がせすぎた。


 骨の山が近かった。


 そうした細かなことが、戦より先に道を決めることもある。


 だが、夜の歌に残る時、それは別の形になる。


 西の谷へ寄った。


 冬前の風を避けた。


 部族長はよく見た。


 そう歌われるかもしれない。


 馬の蹄を見ていた若者の名は、入らないかもしれない。


     *


 夜の前、天幕が少しずつたたまれた。


 全てを片づけるわけではない。


 出発は夜明け前である。


 しかし、夜にできることは夜のうちにする。


 革袋をまとめる。


 羊皮を干す。


 鍋の残りを分ける。


 炭を灰の中に眠らせる。


 骨の山をさらに遠ざける。


 馬の脚に布を巻く。


 子どもを早く寝かせる。


 歌い手は、火のそばに座っていた。


 昼に聞いた境界杭の位置を、まだ喉の奥で転がしている。


 声には出さない。


 出せば、誰かが嫌がる。


 だが、入れなければ忘れる。


 忘れれば、次にまた同じ場所でぶつかる。


 その隣で、蹄を見ていた若者が骨の粉を手から払っていた。


 歌い手が言った。


「骨を遠ざけたのは、お前か」


「近かった」


「歌に入れるか」


「骨をか」


「蹄を」


 若者は少し嫌そうな顔をした。


「そんなもの、歌にならない」


「歌にならないものほど、忘れる」


「忘れたら、また蹄が腐る」


「なら、入れるか」


 若者は答えなかった。


 火が低く揺れた。


 遠くで馬が鼻を鳴らす。


 歌い手は、まだ声に出さず、短い節を作り直した。


 川。


 低い丘。


 三本の杭。


 白くただれた蹄。


 骨を遠ざけた夜。


 西へ寄った部族。


 それは、血統の大きな歌には似合わない。


 だが、移動のための小さな歌にはなるかもしれない。


     *


 第4文化圏の一日は、移動の準備で閉じる。


 戦がなくても、部族は働いている。


 天幕をほどく者がいる。


 馬を見る者がいる。


 鍋を待たせる者がいる。


 水場の順を変える者がいる。


 骨の山を遠ざける者がいる。


 境界杭の位置を覚える者がいる。


 子どもの腹を見て、薄い汁を先に渡す者がいる。


 それらは、棍棒の一撃ほど分かりやすくない。


 敵を倒す歌ほど勇ましくもない。


 だが、草原では、そうした小さな判断が部族を動かす。


 王国の帳には載らない。


 エルフの枝にも結ばれない。


 ドワーフの契約箱にも入らない。


 オーガの長い血統歌にさえ、すべては入らない。


 それでも、朝になれば馬は歩かなければならない。


 鍋は煮えていなければならない。


 骨は遠くになければならない。


 水場の順は決まっていなければならない。


 草原の暮らしは、強さだけでは続かない。


 見ている者がいる。


 言いにくいことを言う者がいる。


 歌になりにくいものを、歌にしようとする者がいる。


 その者たちの声は小さい。


 しかし、その声がなければ、部族の足は、いつか止まる。

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