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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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10/22

第4文化圏 オーガ 血統部族と草原のエサ場

 王立学術院は、オーガの草原部族群を第4文化圏と呼ぶ。


 王国の帳。

 エルフの森。

 ドワーフの契約炉。


 その次に観測されるのが、草原を移動し続けるオーガの部族群である。


 人間王国は、土地を囲う。


 エルフは、森の枝に名を結ぶ。


 ドワーフは、炉と契約箱を守る。


 オーガは、草を追う。


 彼らにとって、世界は壁で分けるものではない。


 線を引いて所有するものでもない。


 草が伸びる。

 獣が肥える。

 水が残る。

 風が変わる。

 群れが動く。


 その流れに、部族もまた動く。


 王国の地図には、草原に境界線が引かれる。


 だが、オーガはその線を見ない。


 見えないのではない。


 意味がないのである。


 春の草は、春のもの。


 夏の水は、夏のもの。


 冬を越せる谷は、越せる者のもの。


 守れないエサ場は、失う。


 守れるエサ場は、歌になる。


 それが、第4文化圏である。


     *


 第4文化圏の基礎は、血統部族である。


 ただし、人間王国の父系貴族家とは違う。


 王国の父系は、土地、爵位、税、兵役を継ぐ。


 オーガの血統は、草原を渡る力を継ぐ。


 どの父の咆哮を受けたか。


 どの母の乳で育ったか。


 どの馬を初めて押さえたか。


 どの冬を越えたか。


 どの部族と戦ったか。


 どのエサ場で傷を負ったか。


 どの長調を最後まで歌えるか。


 それらが血統の重さになる。


 オーガは文字を持たない。


 王国の書記は、それを未開と呼びたがる。


 だが、オーガにとって、記録は紙ではない。


 肺である。


 喉である。


 腹である。


 夜の火のまわりで歌われる長い声である。


 誰が誰を倒したか。


 誰が冬の谷を見つけたか。


 誰が馬を失ったか。


 誰が飢えた子を背負ったか。


 誰が逃げたか。


 誰が逃げずに立ったか。


 それらは、長い歌で残る。


 子は、字を習わない。


 かわりに、歌を覚える。


 歌を覚えるとは、部族の道を覚えることである。


 水場の順を覚えることである。


 古い敵の名を覚えることである。


 祖父の恥まで覚えることである。


 オーガにとって、忘れることは軽い罪ではない。


 忘れれば、草原で死ぬ。


     *


 オーガの部族は、定住しない。


 フェルトの天幕を立てる。


 粗い羊皮を敷く。


 前合わせの厚いウールを着る。


 腰には革帯を巻く。


 馬の毛で編んだ紐を使う。


 風の向きで、天幕の口を変える。


 水が濁れば、すぐに離れる。


 草が尽きれば、迷わず動く。


 この移動性こそが、第4文化圏の強みである。


 同時に、弱みでもある。


 動くために、重いものを持たない。


 持たないから、鍋も少ない。


 鍋が少ないから、大鍋でまとめて煮る。


 まとめて煮るから、十分に煮えない肉が混じる。


 肉は地べたに置かれる。


 骨も地べたに置かれる。


 内臓も地べたに置かれる。


 子どもが近づく。


 犬が近づく。


 野生の小さな魔獣が近づく。


 草原の虫が群がる。


 それでも、部族は動かなければならない。


 王国の者は、これを不潔と呼ぶ。


 不潔であることは間違いではない。


 だが、オーガから見れば、王国の者は動けない。


 井戸が腐っても住み続ける。


 税を払うために痩せた土地へ縛られる。


 壁の中で病が回っても、城門を閉じる。


 どちらも、相手の弱さを笑う。


 どちらも、自分の弱さは見えにくい。


     *


 第4文化圏において、エサ場は土地ではない。


 王国の書記がここでつまずく。


 この牧草地は誰の所有か。


 この水場はどの領主のものか。


 この丘からこの川までの境界はどこか。


 そう問う。


 オーガは答えに困る。


 言葉がないからである。


 彼らの言語には、王国が言う意味での土地所有を示す語が薄い。


 使う。


 守る。


 奪う。


 失う。


 戻る。


 冬を越す。


 草を休ませる。


 そうした言葉はある。


 だが、紙に書いて、封蝋を押し、遠くの王が認めたから所有するという言葉はない。


 王国の者は、これを契約不能と見る。


 オーガは、王国の契約を幻と見る。


 紙が草を生やすのか。


 封蝋が馬を太らせるのか。


 死んだ王の印が、冬の吹雪を止めるのか。


 そう考える。


 だから、王国の開拓線とオーガの移動線は、何度もぶつかる。


 王国は境界杭を立てる。


 オーガは、それを薪にする。


 王国は通行税を求める。


 オーガは、通る草原に税などないと怒る。


 王国は反乱と呼ぶ。


 オーガは、道を塞がれたと歌う。


 同じ出来事が、二つの文化圏でまったく違う名になる。


     *


 オーガの政治は、王政ではない。


 ただし、王に似た者が現れることはある。


 強い部族長。


 多くの馬を持つ者。


 多くの冬を越えた者。


 多くの敵を倒した者。


 長い歌を途切れず歌える者。


 血統を示す傷を持つ者。


 そうした者が、いくつもの部族を束ねる。


 だが、それは石の上に座る王ではない。


 草の上に立つ者である。


 力が弱れば、部族は離れる。


 馬が死ねば、声が小さくなる。


 冬を誤れば、歌は途切れる。


 部族長の権威は、城壁のようには残らない。


 毎季、試される。


 毎戦、試される。


 毎冬、試される。


 オーガの合議は、天幕の中ではなく、火のそばで行われる。


 短い言葉。


 長い沈黙。


 怒鳴り声。


 笑い声。


 古い歌の一節。


 馬の蹄の音。


 それらが混ざる。


 どこへ動くか。


 どのエサ場を避けるか。


 どの部族と組むか。


 どの敵を叩くか。


 どの馬を潰して食うか。


 どの子を別の天幕へ預けるか。


 それを決める。


 紙には残らない。


 しかし、歌には残る。


 そして、歌に残ったことは簡単には消えない。


     *


 オーガの身体は大きい。


 骨も太い。


 皮膚も厚い。


 肺も強い。


 声も遠くまで届く。


 王国の者は、それだけを見て、彼らを粗野な巨人と呼ぶ。


 だが、草原で生きるには、ただ大きいだけでは足りない。


 馬の息を読む。


 草の伸びを読む。


 空の色を読む。


 遠い煙を見る。


 敵の部族の歌を聞き分ける。


 夜の冷えを読み、天幕の口を変える。


 肉を食わせる順を決める。


 戦える者と、飢えさせてはならない子を分ける。


 大きな身体は、草原では強みである。


 だが、食わせなければならない身体でもある。


 動かさなければ、鈍る身体でもある。


 怪我をすれば、運ぶのに人手が要る身体でもある。


 王国の兵士は、オーガの巨体を恐れる。


 オーガの母は、その巨体を冬に食わせることを恐れる。


 同じ身体が、戦では誇りになり、冬では重荷になる。


 草原の文化は、その矛盾の上に立っている。


     *


 第4文化圏の衛生上の弱点は、草原の強さと同じ場所にある。


 動く。


 持たない。


 早く食う。


 早く捨てる。


 また動く。


 その速さが命を守る。


 しかし、その速さが病を連れていく。


 大鍋の肉は、十分に煮えないことがある。


 赤錆びた鉄鍋は、長く使われる。


 内臓は、地べたに置かれる。


 血のついた革袋は、乾けば使えるとされる。


 傷を洗う水と、肉を煮る水が近くなる。


 馬の糞と、子どもの寝る羊皮が近くなる。


 骨の山に、野生スライムが寄ってくる。


 オーガは、スライムを便利なドブ虫のように見ている。


 骨や内臓の残りを消すからである。


 だが、夜になると、スライムは馬の蹄へ忍び寄る。


 酸が蹄をただれさせる。


 馬が歩けなくなる。


 馬が歩けなければ、部族は動けない。


 部族が動けなければ、草原では死ぬ。


 怒ったオーガは、スライムを棍棒で叩き潰す。


 次の野営地では、また骨の山を作る。


 またスライムが来る。


 また馬の蹄がただれる。


 同じことが繰り返される。


 彼らは弱くない。


 ただ、清さを手順として残す文化を持たない。


 汚れを見れば怒る。


 だが、汚れを生まない配置を、歌にしにくい。


     *


 第4文化圏の周縁者は、弱い者だけではない。


 強すぎる者も、周縁者になる。


 戦えない若者。


 歌を覚えられない子。


 馬を怖がる子。


 鍋の肉で腹を壊しやすい者。


 蹄のただれを先に見つけるが、戦の歌を覚えられない者。


 敵の血統を歌えるが、自分の部族の歌を間違える者。


 王国語を覚えてしまった者。


 境界杭の意味を理解してしまった者。


 逆に、戦で強すぎて、味方を怖がらせる戦士。


 ケンタウロスとの戦場で、敵を敵としてだけ見られなくなった者。


 そうした者は、天幕の端へ置かれる。


 完全に捨てられるわけではない。


 だが、中心の火の前には座りにくい。


 彼らは、馬の蹄を見る。


 骨の山を遠ざける。


 水場の順を覚える。


 他部族の歌を聞く。


 王国商人の言葉を拾う。


 境界杭が立った場所を覚える。


 戦えない者が、部族を守ることもある。


 戦いすぎる者が、部族から離れることもある。


 草原では、中心から外れる理由もまた、動いている。


     *


 近年、東の草原で、奇妙な歌い手の噂があった。


 境界杭を抜かずに、その位置を歌へ入れた者である。


 王国の杭など薪にすればよい。


 そう言う者が多かった。


 だが、その歌い手は杭を見た。


 杭の位置を覚えた。


 杭が立つ前に、どの部族がそこを通ったかを歌へ入れた。


 王国の線と、オーガの移動を、同じ歌の中に置こうとした。


 部族長たちは嫌がった。


 王国の線を歌に入れるな。


 歌に入れれば、線を認めたことになる。


 そう言う者がいた。


 歌い手は反論しなかったという。


 ただ、その冬、別の部族の火のそばで歌っていた。


 王国側の記録には、名はない。


 オーガ側の長調にも、まだ正式には入っていない。


 ただ、王立学術院の観測控には短く残っている。


 ――王国境界杭の位置を部族移動歌へ編入する歌い手あり。

 ――所有概念の受容ではなく、衝突地点の記憶化と推定。

 ――部族長間で扱い未定。

 ――詳細、未確認。


 この歌い手が何者であるかは、第4文化圏の説明において本筋ではない。


 ただし、オーガの文化圏の性質をよく示している。


 彼らは紙を持たない。


 だが、記憶を持たないわけではない。


 線を嫌う。


 だが、ぶつかった場所を忘れるわけでもない。


 問題は、それをどの歌へ入れるかである。


     *


 第4文化圏を理解するには、巨体と棍棒だけを見てはならない。


 草原。


 馬。


 エサ場。


 血統。


 長調。


 天幕。


 大鍋。


 鉄鍋。


 蹄。


 骨の山。


 スライム。


 境界杭。


 王国の所有文法との衝突。


 ケンタウロスとの草原戦線。


 戦う者。


 戦えない者。


 その順で見なければならない。


 第4文化圏は、十五文化圏の中でも、最も移動する文化圏の一つである。


 同時に、移動するがゆえに、清さを手順として固定しにくい文化圏でもある。


 オーガは、強い。


 速い。


 重い。


 歌を長く覚える。


 だが、強いから病まないわけではない。


 速いから汚れが残らないわけでもない。


 地図に載らない道。


 歌にしか残らないエサ場。


 境界杭の影。


 骨の山のそば。


 ただれた蹄の前。


 そこにも、人はいる。


 そして時に、中心の火の前で咆哮する者ではなく、天幕の端で蹄を見ている者が、部族の明日を先に見る。

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