第7話 古株愛人の打算
【仲根涼子視点】
雲ひとつない秋晴れの空の下、目の前に雄大な富士山を望む『御殿場プレミアム・アウトレット』は、大勢の買い物客で賑わっていた。
広大な敷地に立ち並ぶ海外の高級ブランドショップの数々。ショーウィンドウに飾られた美しい新作たちを眺めているだけで、私の胸は心地よい優越感で満たされていく。
「涼子ちゃん、歩き疲れてないか? ちょっとカフェで休もうか」
私の半歩後ろを歩く社長の波瀬海潤が、両手にいくつものショッピングバッグをぶら下げながら機嫌をとるように覗き込んできた。
「ううん、全然平気。ねえ社長、あそこのブティック、ずっと入りたかったの。一緒に行きましょう?」
私は潤の腕に自分の胸を押し付けるように腕を絡ませ、甘い声で上目遣いをした。潤は鼻の下を伸ばし、「お、おう。いいよ」と二つ返事で頷いた。
私が『|SunSunDiner』のパート従業員として働き始め、潤と不倫関係になってからもう数年が経つ。愛人たちの中では私が一番の古株だ。
関係を持った最初の頃は、店長であり奥さんである紗枝さんにバレるかもしれないというスリリングな背徳感や、年上の社長との秘密の恋愛というシチュエーションに胸を躍らせ、確かな刺激を満たしていた。
しかし、そんな安っぽい恋愛ごっこはとうの昔に飽きている。
私は気付いてしまったのだ。店の運営を紗枝さんに丸投げし、見栄を張って「俺の経営センスだ」とふんぞり返っているだけのこの男が、いかに底が浅く、操りやすい人間であるかに。
今や私の興味は、潤への愛情などではなく、彼からいかに高価なブランド品を引き出し、自分の価値を高めるかという一点のみに注がれている。
目的のハイブランドのブティックに入ると、私は真っ先にガラスケースに飾られた新作のレザーバッグを指差した。
「わぁ、これすっごく可愛い! ずっと欲しかったの。……でも、高いなぁ」
値札には、軽々と三十万円を超える金額が印字されている。
チラリと潤の横顔を窺うと、彼はさすがに想定外の金額だったのか、僅かに眉を引きつらせていた。
「えっと、涼子ちゃん。この前もバッグ買ったばっかりだし、今日はもう少し手頃なアクセサリーとかにしないか?」
潤が体裁を取り繕いながら渋るのを見て、私は心の中で冷たく鼻で笑った。ここで引き下がるようなら、わざわざこんな退屈な男と休日を過ごす意味がない。
「そっかぁ、そうだよね。社長のお小遣いじゃ厳しいよね。……ごめんなさい、私、わがまま言って」
私はシュンと肩を落とし、わざとらしく悲しそうな表情を作った。そして、潤の耳元に顔を寄せ、周囲に聞こえないトーンで囁いた。
「でも私、店長に隠れて社長とこうしてるの、すごく罪悪感があって……。夜も眠れないくらい悩んでるの。いつか耐えきれなくなって、店長に全部話しちゃいそうで、自分が怖い……。このバッグを見たら、少しは気分が晴れるかなって思ったんだけど……」
ピクリ、と潤の肩が大きく震えた。
潤は、紗枝さんと自分の夫婦関係が冷え切っていることを私に知られている。そして何より、この男は「妻に不倫がバレて自分の快適な生活が脅かされること」を心の底から怯えているのだ。
私が「自分からバラすかもしれない」というニュアンスを匂わせれば、彼は保身のために必ず財布の紐を緩める。彼のプライドと恐怖心を手玉に取るのは、本当に簡単な作業だった。
「……ば、馬鹿だな。俺がお前に買えないものなんてないさ。すいません、これ、カードで」
少し声が上ずりながらも、潤は見栄を張ってプラチナカードを店員に差し出した。
「ほんと!? やったぁ! 社長、世界一かっこいい! 大好き!」
私は大げさに喜んでみせ、潤の頬に軽くキスをした。潤は安心したようにドヤ顔を浮かべている。
店を出て、高級なショッパーを提げた潤の腕に再び抱きつきながら、私の頭の中は極めて冷静に数字を弾き出していた。
(このブランドの新作で、黒のレザーなら需要が高い。箱とギャランティーカードを綺麗に保管しておけば、半年後に飽きてフリマアプリや質屋に流しても、最低でも二十五万……うまくいけば二十八万で売れるわね。リセールバリューとしては完璧だわ)
私にとって、この男はただの便利なATMであり、投資の元手でしかない。お金とタダ旅行が手に入るから、適当に機嫌を取って飼い慣らしてやっているだけなのだ。
+++
その日の夜。
私たちは、御殿場から少し足を伸ばした先の、高級温泉旅館の離れに宿泊していた。
露天風呂付きの広々とした和洋室。会社の経費で落ちると思えば、彼も惜しみなく最上級の部屋を予約する。
三十万円のバッグを買わせた対価として、夜は私もしっかりと「労働」を提供しなければならない。
「涼子ちゃん……ああ、すごいよ……」
シルクのシーツが乱れるベッドの上で、潤がだらしなく鼻の下を伸ばして声を漏らしている。
私は、大学生時代に遊んでいた頃に身につけたテクニックを駆使し、潤を巧みに極楽の絶頂へ誘導していた。
毎日毎日、厨房で油と汗にまみれ、料理と接客のことしか頭にない堅物の紗枝さんには、到底真似できないであろう妙技の数々。
潤が求めているのは、家庭の温もりや夫婦の絆などではない。自分の自尊心をくすぐり、都合よく快楽を与えてくれる分かりやすい刺激だ。私はその需要に対して、完璧なサービスを提供しているだけ。
やがて完全に満たされた潤は、子どものように安らかな寝息を立てて深い眠りに落ちた。
私はベッドから起き上がり、バスローブを羽織ってテラスに出た。
秋の夜風が、火照った体に心地よく吹き抜けていく。テラスのテーブルには、今日手に入れたばかりの三十万円のバッグが、スポットライトを浴びたように誇らしげに置かれていた。
私はグラスに冷たいミネラルウォーターを注ぎ、一口飲んでから、室内のベッドで無防備に眠る潤を冷ややかな視線で見下ろした。
口先だけで中身のない傲慢な夫。
そして、それに気づかず、必死に店を守って裏切られ続けている哀れな妻。
ほんと、滑稽な夫婦……。
紗枝さんがせっせと稼いだお金が、巡り巡って私の手元でブランド品に姿を変えている。このいびつな食物連鎖の頂点に立っているのは、間違いなく私。
「せいぜい夫婦揃って、私が美しくなるための養分になりなさい」
私はグラスの氷をカラリと鳴らし、薄く形の良い唇の端を吊り上げた。
あの汗臭いハンバーガーショップの馬鹿な夫婦は、これからもずっと、私のこの手の上でコロコロと転がしてあげる。
私は今後のさらなる搾取の計画に思いを馳せていた。




