第6話 理不尽な説教
【紗枝視点】
数日後。
お昼時のピークを過ぎた『|SunSunDiner』の店内には、緩やかな洋楽のBGMが流れていた。
私は鉄板の前に立ち、次のオーダーに備えてパティの仕込みを進めていた。ふと視線を上げると、レジカウンターの死角で、パート従業員の渋谷莉乃がスマートフォンを食い入るように見つめ、器用な手つきで画面をタップしているのが見えた。
お客様が来店しても、「いらっしゃいませ」の声すらない。
「莉乃さん、仕事中はスマホを……」
言いかけて、私は自分の言葉を飲み込んだ。鉄板を握る手に、じわりと嫌な汗が滲む。
これまで私は、彼女たちがいかに不真面目であろうと、いつか必ず分かってくれるはずだと信じてきた。料理を提供する喜びや、お客様の笑顔の大切さを伝えようと、根気強く、時に厳しく注意を続けてきた。
しかし、私が莉乃を注意するたびに、なぜかその日の夜には夫の潤から私がひどく叱責された。
『お前、また莉乃ちゃんをいじめたらしいな。あの子が泣いてたぞ。お前の教え方が悪いから上手くいかないんじゃないか? もっと店長としての器を大きく持てよ』
私はずっと、自分の指導力不足なのだと自分を責めてきた。
だが、裏帳簿とシフト表の不気味な一致を知ってしまった今、すべての点と点がグロテスクな線で繋がった。
莉乃が仕事中にスマホでメッセージを送っていた相手は、社長である私の夫だ。
私が注意すれば、莉乃はすぐさま夫に『店長に意地悪された』と泣きつき、旅行時には夫に甘えながら、私の悪口を吹き込んでいたのだろう。
そう考えると、今まで真面目に注意してきた自分が滑稽で、途端に馬鹿らしくなった。怒りよりも先に、深い虚無感が私の全身を冷たく包み込んだ。
もう、どうでもいいわ。
私が何を言ったところで、あの二人の間では「嫉妬に狂ったヒステリックな妻」として消費されるだけなのだから。
私は静かに視線を鉄板に戻した。莉乃のサボりを完全に見て見ぬふりをして、一人で無心にパティを捏ね続けた。
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深夜。
莉乃たちがさっさと帰った後、私は一人で重い足を引きずりながら閉店作業を行っていた。
バックヤードに回り、厨房のゴミ箱の袋をまとめようと口を結ぼうとした時、その中身がふと目に留まった。
一番上には、黒焦げになったパティが三枚と、乱暴に扱われて真ん中から無残に破れたバンズ、そして形が崩れただけのトマトが何切れも放り込まれていた。
すべて、莉乃や仲根涼子たち、パート従業員が今日一日で作った「ミス」の残骸だった。
うちの店で使っている食材は、どれも私が足を棒にして生産者にお願いし、こだわって仕入れている最高級の品だ。大地誠也君が汗水流して育ててくれたあの極上のトマトでさえ、彼女たちの手にかかれば、ただの「ゴミ」として平然と捨てられてしまう。
私が睡眠時間を削って働き、血の滲むような思いで捻出した利益。
それが、夫と愛人たちの不倫旅行の資金として横領されるだけでなく、現場でもこうして遊び半分に捨てられ、燃やされていく。
「……あ、は……」
ゴミ袋を握る私の手から、プスプスと嫌な音が聞こえるような気がした。怒りで震えているのではない。あまりの理不尽さに、脳の処理能力が限界を超え、精神のヒューズがショートし始めているのがわかる。
自分が人生を懸けて守ってきた店は、夫と愛人たちが私の努力をせせら笑いながら踏みにじる『お遊技場』だったのだろうか。
どろどろとした絶望が胃の底から這い上がり、私の耳の奥で、キィィィンという耳鳴りが鳴りやまなくなった。
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店舗の二階にある居住スペース。
シャワーを浴びる気力もなく、私は死んだようにベッドに横たわっていた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、まぶたを開けていることすら辛い。
ガチャリとドアが開き、酒の匂いをまとった潤が部屋に入ってきた。
彼はベッドに近づくと、疲労困憊で動けない私を気遣うどころか、強引に私の肩を抱き寄せてきた。
「おい、紗枝。起きろよ」
ねっとりとした声色と、首筋に這う不快な手の感触。夜の営みを求めているのは明白だった。
この手で、莉乃や他の女たちを抱いているのだと思うと、吐き気が込み上げてきた。
「ごめんなさい……今日はお店が忙しくて、本当に疲れてるの。少し休ませて……」
私が身をよじって拒絶すると、潤は露骨に舌打ちをし、不機嫌そうに私を突き放した。
「チッ、なんだよ。可愛げのない女だな」
潤はベッドの端に腰掛け、見下すような冷たい視線を私に突き刺した。
「お前、最近パート連中に冷たいらしいな。挨拶もろくにしないって聞いたぞ」
「…………」
「あいつらだって一生懸命やってるんだ。社長の俺が選んだ大事な従業員なんだから、お前がもっと優しく接して、働きやすい環境を作ってやらないとダメだろ。俺の顔に泥を塗る気か?」
傲慢な夫の言葉が、右耳から左耳へと空虚に抜けていく。
愛人を庇い、一人で店を回して過労死寸前の妻を責め立てる。その異常性に、彼は微塵も気づいていない。
言い返す気力はとうに枯れ果てていた。私が黙って目を閉じると、潤は「つまんねえの」と吐き捨て、リビングへと出て行った。
暗闇の中、私はただジッと天井を見つめていた。心が、音を立てて削り取られていくのを感じながら。
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翌日。
朝から潤は、見慣れた高級ブランドの出張カバンを手に、上機嫌で玄関に立っていた。
「じゃあ、ちょっと静岡の方まで視察に行ってくる。御殿場のアウトレットに、海外の有名バーガーチェーンが新しく入ったらしいからな。二泊三日で戻るよ」
悪びれる様子もなく言い放つ夫を、私は顔の筋肉を無理やり引き上げて作った笑顔で見送った。
今日のシフトは、古株のパートである仲根涼子が休みを取っている。
夫と涼子が二人で、御殿場へブランド品を買い漁る不倫旅行にでも向かうのだろう。
その事実を、私はあえて意識しないように心の奥底にある黒い箱に厳重に閉じ込めた。今の私には、その事実を直視して正気を保てるほどの体力も精神力も残されていない。
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「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりですか!」
私は逃げるように、怒涛のように押し寄せるランチタイムの客波へと飛び込んだ。
考えてはダメ。ただ手を動かすのよ。
鉄板に肉を押し付け、ジューッと焼ける音と脂の匂いに脳を支配させる。チーズを乗せ、バンズで挟む。その一連の動作を、まるで感情を持たない機械のように繰り返した。
私は自分の心を守るため、心を閉ざしてワンオペレーションに没頭し続けることとした。




