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第40話 冷酷な宣告

【紗枝視点】


 キッチンカーでの営業を軌道に乗せ、忙しくも充実した新しい日々に没頭していたあの日から、あっという間に二ヶ月が経過していた。

 梅雨入り前の少し湿気を帯びた六月の風が、翠星市《すいせいし》の裏通りを吹き抜けていく。

 私は今日、かつて自分のすべてを捧げていた城であり、そして地獄のような絶望を味わった場所――『|SunSunDiner《サンサン・ダイナー》』の店舗前に立っていた。


 傍らには、妹の七海が静かに寄り添ってくれている。


 シャッターが下りたままの店舗は、たった二ヶ月間人が入らなかっただけで、どこか生気を失い、薄汚れたように見えた。


 今日は、この店舗の鍵の引き渡し日だ。


 あのXデーに元夫の潤と交わした合意書の通り、彼からの慰謝料および損害賠償の支払いは完全に滞った。

 彼に莫大な金額を一括で払えるはずがないと最初からわかっていた。案の定、期日を過ぎても一切の入金はなく、契約の不履行を理由に、担保として設定されていたこの店舗の土地、建物、そして経営権の一切は、合法的に私のものへと移されたのだ。


「柚木紗枝さん、こちらが新しい鍵と、権利書の控えになります。名義変更の手続きはすべて完了いたしました」


 立会いをお願いしていた不動産屋の担当者が、事務的な手つきで鍵の束を私に差し出した。


「ありがとうございます。お手数をおかけしました」


 私が鍵を受け取ると、担当者は一礼して車で去っていった。

 手のひらに残る、金属の冷たい重み。

 私が毎日、血反吐を吐くような思いでワンオペをこなし、生産者と信頼関係を築き、美味しいハンバーガーを焼いていた場所。


 私はキッチンカーで確かな成功を収めつつ、愛着のあるこのサンダイの店舗を、今度こそ誰にも奪われない「自分の城」として完全に取り戻すことができたのだ。


「お姉ちゃん、やったね。これで本当に全部、私たちのものよ」

 七海が嬉しそうに微笑んだその時だった。


「紗枝……ッ!」


 背後から、ひどく掠れて干からびたような声が響いた。

 振り返ると、そこには目を疑うほどボロボロになった潤が立っていた。


 かつて彼が「社長」として見栄を張って着ていた高級なスーツはシワだらけで泥に汚れ、髪には白いものが混じり、頬はこけて不健康な土気色をしている。


「潤……」


「紗枝、頼む! 俺が悪かった! もう一度、俺とやり直してくれ!」


 潤は私の足元にすがりつくようにして、惨めに泣き喚いた。

 彼がこんな無様な姿になった理由は明白だった。


 私が店を去った後、彼は「俺一人の経営センスで回してやる」と豪語していたが、当然ながらまともな料理を出せるわけもなく、初日に生焼けの肉を出して大炎上を起こした。

 頼みにしていた三人の愛人たちには、泥舟と見なされてあっさりと逃げられ、裏切られたのだ。

 残されたのは巨額の借金と、炎上によって地に落ちた信用だけ。仕入れ業者にも完全に見放され、飲食業の本当の難しさと、見栄だけでは生きていけない世間の冷たさを、彼はこの二ヶ月間で骨の髄まで思い知らされたのだろう。


「俺には……お前しかいないんだ! お前が焼くハンバーガーがあれば、また絶対にやり直せる! だから、もう一度この店で、夫婦として……!」


 涙と鼻水にまみれた顔で哀願してくるかつての夫を、私は一切の感情が湧かない「死んだ魚の目」で冷たく見下ろした。

 哀れみも、怒りすらも、もはや湧いてこない。そこにいるのは、ただの空っぽな男だ。


「やり直す?」


 私はふっと冷たい笑みをこぼし、首を傾げた。


「そうねぇ。あなたが3度生まれ変わったら、考えてあげてもいいわ」


 その言葉に、潤はビクッと肩を震わせ、絶望に顔を歪ませた。


『3』という数字。かつて私が狂気に囚われ、彼に服従するためのおぞましい呪いだったその数字を、今度は私の方から、彼を永遠に突き放すための冷酷な宣告として叩きつけたのだ。


「あ……、あぁ……」


「あなたに、トリプルサンドバーガーは大きすぎたのよ」


 私は彼から一歩距離を取り、氷のように冷たく、けれど凛とした声で言い放った。


「町中でハンバーガーを見るたびに、私の恐ろしさと己の愚かさに嘆くがいいわ」


 それが、私から彼への、本当の最後の言葉だった。


 潤はそれ以上何も言えず、その場にへたり込んだまま、うわ言のように謝罪の言葉を呟き続けることしかできなかった。

 やがて、彼は立ち上がり、ふらつく足取りで路地の奥へと消えていった。二度と私の前に姿を現すことはないだろう。


「全てが……終わったね、お姉ちゃん」


 七海が静かに隣に並んだ。私は小さく頷き、大きく深呼吸をして肺の中に新しい空気をいっぱいに吸い込んだ。


 しばらくして、手配していた施工業者のトラックが到着した。

 作業員たちが手際よく足場を組み、長年この建物に掲げられていた『SunSunDiner』の古い看板を取り外していく。


 私の血と汗と涙が染み込み、そして夫の傲慢さの象徴だったその名前が、音を立てて地面に下ろされた。

 取り外された古い看板を見下ろし、私は過去の弱い自分に完全に別れを告げた。


 代わりに真新しい看板が、クレーンでゆっくりと吊り上げられていく。

 黒を基調とした洗練されたデザイン。そこに刻まれているのは、『|CraftBurgerTRINITY《クラフトバーガー・トリニティ》』という、私たちの新しい店名だ。


 肉、チーズ、バンズ。


 三つの素材が完璧なバランスで調和し、お互いを引き立て合う。

 私が、私の誇りを取り戻し、料理人として生きていくための決意の証。


 新しい看板がしっかりと固定され、初夏の陽光を浴びて誇らしげに輝いた。

 私は隣に立つ妹と顔を見合わせ、心の底からの、一点の曇りもない笑顔を浮かべた。


「ここからが、本当の私たちのスタートね」

「ええ。最高のハンバーガーで、翠星市中を笑顔にしてやりましょう」


 取り戻した私のお城で、新しい風が吹き始めた。

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