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第41話 未来へ

【紗枝視点】


 鍵の引き渡しから数日後。

 店舗の改装は急ピッチで進められ、いよいよ『|CraftBurgerTRINITY《クラフトバーガー・トリニティ》』が実店舗としてグランドオープンする前日のことだった。


 仕込みの準備をあらかた終えた真新しい厨房で、私はフライヤーの油を落とし、ほっと一息ついていた。

 カラン、と入り口のドアが開く音がして、顔を上げる。


「こんにちは、紗枝さん。明日のオープン用の極上トマト、多めに持ってきましたよ」


 野太くも誠実な声とともに現れたのは、農家の大地誠也君だった。いつもの清潔な作業着姿で、重そうなコンテナを両手で抱えている。


「誠也君、ありがとう! いつも本当に助かるわ」


 私が駆け寄ってコンテナを受け取ると、中にはまるで宝石のように赤々と輝く、張り詰めた皮のトマトがぎっしりと並んでいた。このトマトの強烈な旨味と酸味がなければ、私の新しいハンバーガーは完成しない。


「ねえ、誠也君。少しだけ時間ある?」


 私は、新しい保温庫から出来立てのハンバーガーを取り出した。


「明日から正式に発売する新メニューなんだけど、一番お世話になっている誠也君に、最初に食べてほしくて」

「えっ、自分なんかがいいんですか?」

「もちろんよ」


 私が手渡したのは、キッチンカー時代から試行錯誤を重ね、この新店舗の看板メニューとして完成させた『ミラクルトリプルサンドバーガー(新三種の濃厚チーズ味)』だ。

 誠也君は照れくさそうに微笑みながらも、両手で大切にバーガーを持ち上げ、大きく口を開けてかぶりついてくれた。

 サクッとしたバンズの音。そして、彼の咀嚼するリズム。私は少し緊張しながら、彼の横顔を見つめた。


「……うん、美味い」


 誠也君は目を丸くして、感嘆の声を漏らした。


「これ、本当にすごいです。肉、チーズ、バンズ……この三つの素材のバランスが完璧ですね。お互いの味を全く殺さずに、完全に引き立て合っている」


 料理人の目線から、その味の真髄を的確に言語化してくれた誠也君の言葉に、私はハッと息を呑んだ。


『三つの素材のバランスが完璧』


 あの日、夫が私を裏切り、三人のパート従業員全員と不倫していると知った絶望。

 私の心を壊し、異常なまでの奇行へと走らせた『3』という数字。

 それは長らく、私にとって「裏切りと奇行の象徴」であり、触れるだけで血が噴き出すような呪いだった。


 けれど今、誠也君の力強く温かい言葉によって、その呪縛がほどけていくのを感じた。

 私が料理人として血の滲むような努力で生み出した『3』は、彼に「完璧な調和と信頼」として真っ直ぐに受け止められたのだ。

 私の胸の奥深くに突き刺さっていた鋭い氷の破片が、まるで春の陽光に当てられたように、ゆっくりと、優しく溶けていくのがわかった。


「……ありがとう、誠也君」


 私の声は、少しだけ震えていたかもしれない。


「誠也君のトマトのおかげよ。この酸味が、すべての素材を一つにまとめてくれているんだから」


 私が涙をこらえて微笑むと、誠也君は少しだけ頬を掻き、真剣な眼差しで私を見据えた。


「紗枝さん。もしよかったら……今度の休みに、自分の畑を見に来ませんか?」

「えっ?」

「紗枝さんの新しいお店のために、また新しい品種のトマトを育てているんです。あなたのような素晴らしい職人に、自分がどんな土で、どんな思いで野菜を育てているか、見てもらいたくて」


 それは、単なる取引先としての誘いではなく、一人の人間として、深く信頼し合うパートナーとしての真っ直ぐな言葉だった。

 彼の不器用で誠実な誘いに、私の胸の奥で、ぽっと小さな明かりが灯るような温かさを感じた。


「……ええ。喜んで行くわ」


 私は嬉しさを隠しきれず、顔をほころばせた。


「じゃあ、私、お弁当を持ってお邪魔するわね。楽しみにしてて」

「本当ですか? それは……すごく楽しみです」


 私たちは顔を見合わせ、静かに微笑み合った。


 そこにあるのは、互いの仕事に誇りを持ち、ビジネスパートナーとして深く信頼し合っている中で、ふと未来の穏やかなロマンスを予感させるような、とても心地よい温度感だった。


 +++


 そして、数日後の朝。

 七海と一緒に暮らしているアパートのキッチンには、朝の清々しい光が差し込んでいた。


 トントン、トントン……。

 軽快な包丁の音が、静かな部屋に響く。

 私は鼻歌交じりに、色鮮やかな食材を次々と切り分けていた。


 フライパンで卵をふっくらと巻き上げ、黄金色の卵焼きを作る。アスパラガスは鮮やかな緑色に茹で上げ、そして誠也君の畑で採れた真っ赤なミニトマトを添える。

 おかずの数は『3つ』じゃない。四つでも、五つでもいい。もう、強迫観念に駆られて無理やり数字を揃えるような、そんな歪なルールは私の頭の中には存在しなかった。


 彩りと栄養のバランスだけを考えた、自由で、愛情のこもったお弁当。


 かつて、自分を裏切る夫を繋ぎ止めるための『呪い』として振る舞っていた料理は、もうどこにもない。

 純粋に、私が作ったものを食べてくれる相手を喜ばせたい。美味しいと言って笑ってほしい。

 料理人としての原点の喜びが、私の指先から生み出されるすべての料理に、キラキラとした命を吹き込んでいた。


「わぁ、お姉ちゃん。朝からすっごいご馳走!」


 寝癖をつけた七海があくびをしながら起きてきて、テーブルの上に広げられたお弁当箱を見て目を丸くした。


「七海の朝ごはんの分も、ちゃんとプレートに作ってあるからね」


「やった! ……それにしても、お姉ちゃん、すごくいい顔してる。すっかり昔の、私が大好きだったお姉ちゃんに戻ったね」


 七海が嬉しそうに目を細めた。

 私はエプロンを外し、綺麗に詰め終わったお弁当箱を、お気に入りのハンカチで丁寧に包み込んだ。


 窓の外を見ると、雲ひとつない、どこまでも青く澄み渡った空が広がっていた。

 絶望の底を這いずり回り、自らの手で狂気と決別し、私はすべてを奪い返した。

 もう、後ろを振り返る必要はない。私には、私のハンバーガーを愛してくれるお客様と、支えてくれる妹、そして、共に歩んでくれる信頼できる人たちがいるのだから。


「じゃあ、行ってくるわね!」

「私、お姉ちゃんと誠也君なら応援するよ」

「もう! そんなんじゃないの! 今はまだ……」


 私は頬の熱を隠しながら身支度を整え、お弁当の入ったトートバッグを手に取った。


 七海に見送られながら、ドアノブに手をかける。


 そして、新しい未来へと続く扉を、弾むような明るい足取りで大きく押し開けた。



 第1章 完





ここまでお読みいただきありがとうございました。

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