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第35話 Xデー 後編

【紗枝視点】


「払えないなら、期日を設ける代わりに、『|SunSunDinerサンサン・ダイナー』の経営権と店舗の全資産(建物・機材・営業権)を担保にしていただきます。期日までに支払えない場合、店舗は姉である紗枝に完全に譲渡されるという条件です」


 七海のその提案を聞いた瞬間、潤はピクリと眉を動かした。


 現在、この店の株式(経営権)は、共同創業者である私と潤が半分ずつ持っている。

 潤の分の株式と、店舗の物理的な資産すべてを、慰謝料と損害賠償の『担保』として差し出せという要求。一見すると、彼からすべてを奪う無慈悲な宣告に見える。

 しかし、私は知っていた。この男の、底なしの「傲慢さ」と「自己評価の高さ」を。


 潤は、提示された誓約書を食い入るように見つめ、やがて、フンッと鼻で笑った。


「……なんだ、そういうことか。いいだろう、その条件、呑んでやるよ」


 彼は、強気な笑みを浮かべて背もたれにふんぞり返った。

「俺が経営すればすぐ儲かる。こんな額、店を回せば数ヶ月ですぐに払えるさ」


 その言葉に、愛人たちでさえ「この人、頭がおかしいの?」というようなドン引きした視線を向けた。

 しかし、潤は大真面目だった。彼は本気で、この『|SunSunDinerサンサン・ダイナー』が大繁盛しているのは、自分の卓越した経営センスとビジネスの才能のおかげだと信じ込んでいるのだ。私が毎日、血反吐を吐くような思いでワンオペをこなし、生産者と信頼関係を築き、美味しいハンバーガーを焼いていたからこそ客が来ていたという現実が、彼には全く見えていない。


「お前みたいな口うるさい女がいなくなれば、俺はもっと自由に、もっと効率的にこの店を回せる。俺のカリスマ性で新しいコックを雇えば、お前以上の味なんてすぐに出せるんだよ!」


 潤は、ペンをひったくるように手に取った。

 そして、自らの首に決定的な死神の縄をかけることになるとも知らず、余裕の態度で誓約書(経営権を私に譲渡する合意書)に、力強くサインを書き殴った。

 さらに、慰謝料と損害賠償の支払いを認める合意書にも、次々と実印を押していく。


 愛人たちも、弁護士の容赦のない法的圧力と「今サインしなければ、実家や家族に内容証明を送る」という言葉に震え上がり、泣く泣く個別慰謝料の支払い合意書にサインと捺印を済ませた。


「はい、これで終わりだ! あとは離婚届だな!」


 潤は、忌々しそうに離婚届を引き寄せ、乱暴な手つきで署名し、バンッ!と親の仇のように判を押した。


「お前みたいな、色気もなくて『3』の数字に狂った気味の悪い女、こっちから願い下げだ! 俺は社長として、この店を俺一人の力でもっとデカくしてやるからな! せいぜい俺の成功を遠くから眺めて後悔するんだな!」


 離婚届を私に突きつけながら、潤は勝利者であるかのような得意げな顔で吠えた。

 私は、その紙切れを静かに受け取った。


「……確認いたしました。これで、すべての法的手続きと合意が成立しました」

 高木弁護士が、テーブルの上の書類をすべて回収し、綺麗に束ねて鞄にしまった。


 その瞬間だった。


 私は、横に座っていた七海と、静かに視線を合わせた。

 七海も私を見つめ返し、ブルーライトカット眼鏡の奥で、ほんの僅かに、けれど確かな達成感を含んだ笑みを浮かべた。

 私もまた、冷徹な『復讐スマイルの目』を改めてから自然の笑顔で、わずかに口角を上げた。


 バチン、と。

 見えない巨大なトラバサミが、波瀬海潤という愚かな男の足に、完全に食い込んだ音がした。


「お別れね、偉大なる自称・カリスマ社長さん。せいぜいその空っぽなプライドを抱いて、無能なパートを従えた泥舟で、滑稽な王様ごっこを楽しんでちょうだい。あなたの最高に無様な店じまい、特等席で見物させてもらうわ」


 私は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 最後に、かつて私が人生を懸けて守り抜いた、しかし今となってはただの箱でしかないこの店舗をぐるりと見渡す。

 潤は「勝った」とでも言いたげな顔で私を睨みつけているが、彼はまだ知らない。


 この店の心臓である「私」という料理人が抜け、大地さんをはじめとする優良な仕入れ業者たちが一斉に手を引いたこの店が、明日からどうなるのかを。

 彼に残されたのは、機能しない空っぽの厨房と、到底払いきれない巨額の負債だけだということを。


「行くわよ、七海」

「ええ、お姉ちゃん」


 私たちは、呆然と立ち尽くす愛人たちと、見栄を張って仁王立ちする元夫を残し、一度も振り返ることなく、店の勝手口から外へと歩き出した。


 外に出ると、春の訪れを感じさせる暖かな風が、私の頬を優しく撫でた。

 胸の中にあった重い鎖はすべて断ち切られ、私の心はどこまでも軽く、晴れ渡っていた。

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