第36話 再出発
【紗枝視点】
Xデーの翌日。
翠星市の幹線道路から一本裏に入った、かつての私の城『|SunSunDiner』のすぐ近くにある広場。
春のうららかな陽光の下、咲き乱れる桜の木の下で、黒とウッド調を基調とした真新しい大型キッチンカーの前に、私は立っていた。
車体には、妹の七海がデザインしてくれた『|CraftBurgerTRINITY』のロゴが誇らしげに輝いている。
「お姉ちゃん、開店準備バッチリよ。ネットでの告知も完璧」
エプロン姿の七海が、タブレット端末を片手にウインクをして見せた。彼女の隣には、大きなコンテナを両手で抱えた大地誠也君が、汗を拭いながら立っていた。
「紗枝さん、開店おめでとうございます。今日も最高に張りのある極上トマト、持ってきましたよ」
「誠也君……本当に、ありがとう。あなたのおかげで、この日を迎えられたわ」
「自分は、紗枝さんの本当の料理がまた食べられるのが嬉しいだけです。あの『口先だけの経営者』から離れて、これでやっと、素材の命を活かしてくれますね」
大地君の温かく、しかし生産者としての誇りに満ちた言葉に、私は深く頷いた。
彼をはじめとする優良な仕入れ業者たちは、昨日をもってサンダイとの取引を一斉に停止し、今日から私のこの新しい店へと最高の食材を卸してくれている。
午前十一時。キッチンカーの窓を開け放つ。
鉄板に火を入れ、極上のパティを乗せた瞬間、ジュワァッという心地よい音と共に、肉の香ばしい匂いが風に乗って広がった。
七海の完璧なマーケティングと、かつての常連客たちの口コミにより、開店と同時にキッチンカーの前にはあっという間に長蛇の列ができた。
「紗枝ちゃん!」
列の先頭から聞こえた懐かしい声に、私は弾かれたように顔を上げた。
そこにいたのは、創業当初からずっと通ってくれていた常連客の田中さんと、お孫さんのケンちゃんだった。
「田中さん、ケンちゃん……! 来てくれたんですね!」
「当たり前さ。あっちの店に行ったら、休業の貼り紙と一緒に『店長はキッチンカーで独立・再出発しました』って、七海ちゃんが作ったチラシが近くに貼ってあったからね」
田中さんはそう言って笑いかけた後、少しだけバツの悪そうな顔をして、隣でモジモジと私のエプロンを見つめているケンちゃんの小さな肩を抱き寄せた。
「正直に言うとね、この間の一件があったから、ケンは少し怖がっていたんだ。私も、あの時の異様な紗枝ちゃんを見て、あの美味しかったハンバーガーはもう二度と食べられないのかと落胆していたんだよ。紗枝ちゃんの味が永遠に失われてしまうのかと思って、ヒヤヒヤしたよ」
「田中さん……ケンちゃんも、その節は本当にごめんなさい。私、どうかしていて……」
「いや、いいんだ。チラシに『生まれ変わった最高の味を届けます』って力強く書いてあったからね。紗枝ちゃんが独立して、こうして新しい店を立ち上げたって聞いたなら、絶対にまたあの味を作ってくれるはずだ。そう信じて飛んできたのさ」
田中さんの温かく、そして力強い言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを堪えながら、新看板メニューである『トリプルサンドバーガー(3種の濃厚チーズ味)』を丁寧に包み、二人に手渡した。
「さあ、ケンちゃん。食べてごらん」
田中さんに促され、ケンちゃんは手渡されたハンバーガーをじっと見つめた。
あの日、焦げてボロボロのハンバーガーを無理やり三口で食べるよう強要された恐ろしい記憶が蘇っているのだろう。小さな手が少しだけ震えている。田中さんもまた、どこか緊張した面持ちでハンバーガーを両手で持ち上げた。
恐る恐る、ケンちゃんが小さな口を大きく開けて、ハンバーガーにかぶりつく。
サクッとした特注バンズの食感の後に、粗挽きパティの力強い肉汁が口いっぱいに溢れ出す。そこに、チェダー、モッツァレラ、ゴルゴンゾーラという三種のチーズの濃厚なコクが絡み合い、大地君が育てた極上トマトの爽やかな酸味がすべてを完璧なバランスへとまとめ上げている。
一口、また一口。
咀嚼するたびに、ケンちゃんの強張っていた顔から緊張がスッと解け、パッと花が咲いたような満面の笑みが広がった。
「……おいしいっ!!」
ケンちゃんの弾むような明るい声が、初夏の青空に響き渡った。
「お肉もパンもすっごく美味しい!前の、一番美味しかった時の味だ!ううん、それより、もっとずっと美味しいよ!」
「本当だ……。肉の旨味もチーズのコクも、以前より格段に深みが増している。紗枝ちゃん、本当に……最高の再出発だね」
田中さんも目尻を下げ、何度も深く頷きながらハンバーガーを頬張ってくれている。あの日、私から逃げるように店を去っていった二人が、今は心からの笑顔を見せてくれている。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます……!」
私は目頭を押さえ、涙声で深く頭を下げた。
裏切りの象徴だった『3』という呪いが、お客様の笑顔と、信頼できる仲間たちの手によって、美しく完璧な『調和』へと昇華された瞬間だった。
その光景を、キッチンカーの奥から七海が静かに見守っていた。
私が料理人としての真の誇りと、愛する常連客の笑顔を取り戻したその姿に、七海はブルーライトカット眼鏡の奥で優しく目を細め、誇らしげに、そして心から安堵したように小さく頷いてくれた。




