第34話 Xデー 中編
【紗枝視点】
潤は、自分が「特別な男」として愛されていたのではなく、ただの財布として、独占欲のはけ口として見下され、利用されていた事実を突きつけられ、絶望と怒りで顔を歪ませた。
「お前ら……っ、ふざけるな! 誰の金でいい思いがでたと思ってるんだ!!」
潤は吠えたが、もはや誰も彼に従う者はいない。
全てを失い、完全に追い詰められた潤は、最後の虚勢を振り絞り、今度は私に向かって怒りを爆発させた。
「紗枝! お前、俺がいなくて一人で生きていけると思ってるのか!?」
彼はテーブルをバンッと叩き、立ち上がって私を見下ろそうとした。
「俺の経営センスとビジネスの才能がなきゃ、お前はただの操り人形だ! この店だって、俺が社長として回してやってたから……!」
私はゆっくりと立ち上がり、彼のその哀れなマウントを、氷のように冷たい声で一蹴した。
「ええ。あなたがいなくても、私は最高のハンバーガーが焼けますから」
私の揺るぎない宣告に、潤が息を呑む。
私は、彼の目を真っ直ぐに射抜き、この十年間の思いを込めて言い切った。
「あなたと違って私には職人として心を通わせた家族や農家さんやお客様がいるわ!」
私の言葉が、混乱する店内の空気を完全に制圧した。
「大地さんが育てた極上のトマトも、業者さんたちが卸してくれる最高の食材も、私が料理人として誠実に向き合ってきたからこそ集まってくる。……あなたには、お金で釣ったこの空っぽな女たちしか残っていないじゃない」
私の冷徹な事実の突きつけに、潤は何かを言い返そうと口をパクパクと動かしたが、言葉は出なかった。
自らの傲慢さによって全てを失い、誰からも必要とされていないという現実。それが彼の空っぽな自尊心を粉々に打ち砕いたのだ。
潤は膝から崩れ落ちるように、再び椅子にドスッと倒れ込んだ。
私は、絶望に沈む夫と、泣き喚く三人の愛人たちを見下ろし、冷たく濁った瞳で次のステップへと進む準備を整えた。
+++
ギャーギャーと、鼓膜を劈くような醜い金切り声が、シャッターの閉ざされた店内に響き渡り続けていた。
互いに責任をなすりつけ合い、髪を振り乱して罵倒し合う三人の愛人たち。そして、完全に虚勢を打ち砕かれ、椅子の上で頭を抱えてうわ言のように「俺の金が……」と呟き続ける夫の潤。
かつて私を嘲笑い、私からすべてを搾取していた人間たちの、あまりにも無様で滑稽な末路。
私は、テーブルの上で喚き散らす彼女たちの声をBGMにしながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。そして、顔の筋肉を動かし、かつてこの店でお客様に向けていた『完璧な営業スマイル』を顔に貼り付けた。
ただし、その瞳の奥には一切の光も感情もない。完全なる「復讐スマイルの目」のままだ。
私は、手元に用意してあった分厚い合意書(伝票)の束を持ち上げ、テーブルの天板でトントン、と小気味良い音を立てて揃えた。
その無機質な音に、騒ぎ立てていた四人がビクッと肩を震わせ、一斉に私の方へと視線を向けた。
水を打ったように静まり返った店内。私は、極上の笑みを浮かべたまま、冷徹な声で響かせた。
「はい、お静かに。皆様、夢のようなひとときはたっぷりお召し上がりいただけましたでしょうか? それでは、お会計のお時間です。……メインディッシュは『トリプル不倫慰謝料3名様分』、セットでそちらの殿方に全額請求となります」
ひるんだ4人へ追撃を放つ。
「冷めきったナゲットのような涼子様、甘ったるいシェイクのような桃華様、ポテトのように軽薄な莉乃様、トッピング愛人の皆様への個別賠償も『3等分』で綺麗にサンドしておきました。見栄と欲望だけで膨らんだおつむには、ぴったりのヘビーなメニューでしょう? ……お支払いは一括でよろしいですか? スマイルは0円ですが、こちらの代金には皆様の今後の人生と社会的信用をすべてキッチリと頂戴いたしますね」
私のその言葉を合図に、隣に座っていた高木弁護士が、淡々とした事務的な口調で地獄の明細を読み上げ始めた。
「波瀬海潤氏には、奥様への不倫による精神的苦痛に対する巨額の慰謝料。さらに、会社の資金を『視察』と偽って個人的な不倫旅行や愛人への貢ぎ物に流用した、不正経理および横領による損失分の全額返還を請求いたします。また、仲根涼子氏、杉浦桃華氏、渋谷莉乃氏の三名につきましても、共同不法行為者として、それぞれに莫大な個別慰謝料を請求いたします」
弁護士が提示した書面に印字された金額を見た瞬間、三人の愛人たちの顔から完全に表情が抜け落ちた。
「な、なにこれ……こんな金額、払えるわけないじゃないっ!?」
莉乃が悲鳴を上げ、過呼吸のように肩を上下させた。
「私、こんなの絶対認めない! SNSで全部暴露してやるんだから!」
その言葉に、七海が冷ややかに言い放った。
「どうぞご自由に。ただし、事実無根の誹謗中傷や名誉毀損を行えば、さらに損害賠償を上乗せするだけよ。あなたのデジタルタトゥー、私が全部綺麗に保存してあるから、逃げられると思わないことね」
莉乃はヒッ、と喉を鳴らし、そのまま床にへたり込んだ。
「嘘よ……私の、私の投資が……」
涼子は、潤に買わせたハイブランドのバッグを抱きしめながら、ガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。彼女が計算高く集めてきたブランド品も、すべて差し押さえの対象になるか、慰謝料の支払いのために二束三文で売り払うことになるだろう。
「潤君っ! 助けて! モモの分も、潤君が払ってくれるよね!? だって、社長なんだから!」
桃華がすがりつくように潤の腕を掴んだが、潤は「触るなッ!」と狂ったように彼女の手を振り払った。
「誰がお前らの分なんか払うか! 全部お前らが俺を唆したせいだろうが!」
潤は目を血走らせ、テーブルの上の請求書を睨みつけた。
「そもそも、俺だってこんな巨額の慰謝料と損害賠償、一括でなんて払えるはずがないだろうが!!」
当然だ。見栄っ張りで、入ってきた会社の利益をすべて愛人との豪遊に使っていたこの男に、それほどの貯金があるはずがない。それは、私と七海が最初から計算し尽くしていた事実だった。
「払えない、と。そうおっしゃるのですね」
高木弁護士が、眼鏡の奥で鋭い光を放ち、七海と視線を交わした。
七海が冷たい笑みを浮かべ、あらかじめ用意しておいた『もう一つの書類』をテーブルの中央に滑らせた。




