第32話 立つ鳥
【紗枝視点】
さらに数日が経ち、Xデー前日の夜。
パートの三人を帰し、誰もいなくなり静まり返った『|SunSunDiner』の店内で、私は一人、バケツと雑巾を手に立っていた。
照明を落とした薄暗いフロアには、私が狂気に囚われていた間に貼り巡らせた、蛍光色の画用紙や極太マジックで書かれた『3』の文字が、そこかしこにこびりついている。
「立つ鳥、跡を濁さず……さあ、お掃除の時間ね」
私は静かに呟き、壁に貼られた『お水のおかわりは3回まで!』という醜悪なポップに手を伸ばした。
ベリッ、と乾いた音を立てて剥がし、ゴミ袋へ放り込む。
それを皮切りに、私は店中の至る所に張り付いた『3』の呪いを、一つ一つ丁寧に、だが冷徹な手つきで剥がしていった。
アクリル板にマジックで殴り書きされた文字は、洗剤を含ませた雑巾で強くこすり落とす。
キュッ、キュッ、という拭き掃除の音が店内に響く中、私の脳裏に、この店を立ち上げた頃の記憶が鮮明に蘇ってきた。
『紗枝、君のこの腕前、絶対にビジネスになる! 一緒に店をやろう!』
夫の潤からそう言われた時、私は純粋に嬉しかった。私の作るハンバーガーで、たくさんの人を笑顔にできる。その希望だけで、睡眠時間を削ってメニューを開発し、仕入れ業者を開拓し、油まみれになりながら鉄板の前に立ち続けた。
壁のペンキ塗りを夫婦でおこない、初めて店の看板に灯りが点いた夜。二人で肩を並べて見上げたあの光景は、私にとってかけがえのない宝物だったはずなのに。
「……馬鹿みたい」
私は、レジカウンターの隅に残っていた最後の『3』のシールを、爪でカリカリと削り落とした。
血の滲むような努力も、夫を信じて尽くしてきた年月も、すべてあの男にとっては自分を飾るためのただのアクセサリーであり、愛人たちと遊ぶ金を作るための搾取の道具でしかなかった。
剥がし終えた大量のポップが詰め込まれたゴミ袋の口を、固く結ぶ。
これで、狂気の痕跡はすべて消え去った。同時に、私の心の中に僅かに残っていた「過去への未練」も、完全にゴミ袋の中に封印された。
綺麗に磨き上げられ、本来のアメリカンレトロな美しさを取り戻した店内を見渡す。
この店は、もうすぐ私の手から離れ、そして再び私の元へと戻ってくる予定だ。
私は冷たく澄んだ瞳で、暗闇に沈む厨房の鉄板を見つめ、料理人としての誇りと、明日のXデーへの冷徹な決意を胸に深く刻み込んだ。
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【潤視点】
ありふれたいつもの朝。
温泉地の高級旅館の最上階。露天風呂付きの広々とした和室に、朝の清々しい陽光が差し込んでいる。
俺は浴衣姿のまま、窓際のソファに深く腰を下ろし、優雅にモーニングコーヒーを味わっていた。
「社長ぉ〜、もうチェックアウトの時間ですかぁ?」
ベッドの中から、派手なメイクを落として少し幼くなった顔の渋谷莉乃が、甘えた声を出しながら身をよじった。
今回の「地方視察」という名の出張も、完璧なスケジュールで進行している。最後の二泊をこの莉乃と過ごし、俺の男としての活力を大いに満たしてくれた。
「ああ、名残惜しいが、そろそろ帰らないとな。社長として、店に顔を出してやらなきゃいけないからな」
「えー、帰りたくなぁい。あんな狂ったババアがいる店に帰るなんて、社長も大変ですよねぇ」
莉乃が布団を抱きしめながら、クスクスと下品に笑う。
「ははっ、まあな。でも、あいつは俺がいないと何もできないからな。俺が帰れば、またあのバキバキの笑顔で甲斐甲斐しく俺の世話を焼いて、せっせとハンバーガーを焼いて利益を出してくれる。俺の完璧なマネジメントのおかげなわけどな」
俺はコーヒーカップを置き、自信に満ちたドヤ顔で言い放った。
妻が狂って俺に服従し、愛人たちが俺の金と魅力に群がってくる。俺はすべてを完璧にコントロールし、人生の頂点に立っている選ばれた男なのだ。
「次はどこに連れて行ってくれるんですかぁ?」
「そうだな、莉乃ちゃんが仕事でしっかり成果を出したら、今度は海外視察でも企画してやるよ。それまで、しっかり『3の調和』とやらを手伝ってやってくれ」
「わぁい! 社長最高っ♡」
俺は立ち上がり、出張カバンを手に取った。
この完璧にデザインされた俺の人生が、さらに優雅に彩られる未来を夢見て、俺は意気揚々と旅館の部屋を後にした。
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【紗枝視点】
午前十一時。
本来なら、『|SunSunDiner』のランチタイムの営業が始まり、カウベルの音とともに次々とお客様が来店し始める時間帯だ。
しかし、私は店のシャッターを開けず、固く鍵を閉ざしたまま、薄暗いフロアの真ん中にパイプ椅子を置いて静かに座っていた。
入り口のガラス扉には、『本日より、無期限の臨時休業とさせていただきます』という簡素な貼り紙だけを掲示してある。
静寂に包まれた店内に、時折、外を走る車の走行音が微かに響く。
すでに、大地さんを通じた手回しにより、仕入れ業者からの納品は昨日をもって一斉にストップしている。精肉業者も、パン屋も、八百屋も、誰一人としてこの店に食材を届けることはない。サンダイの心臓部である厨房は、完全に機能停止させた。
テーブルの上には、七海と弁護士が用意した分厚い書類の束が、整然と並べられている。
不倫の証拠写真、横領の証拠である裏帳簿のコピー、莫大な慰謝料と損害賠償の請求書、そして、この店舗の経営権と全資産を譲渡させるための合意書。
逃げ道は、一切ない。
今日、夫はあの忌まわしい不倫旅行から、何も知らずにこの店へと帰ってくる。
狂った妻が自分を迎え入れ、馬鹿な愛人たちが自分をチヤホヤしてくれると信じて疑わない、あの傲慢な男が。
「……さあ、いつでも帰ってらっしゃい」
私は、暗闇の中で誰にともなく囁いた。
一切の感情を排した「死んだ魚の目」の奥に、絶対零度の冷酷な炎を宿して。
狂気のショーは終わりだ。ここからは、私がすべてを奪い返すための、残酷で完璧な現実のお会計が始まる。
夫と愛人たちを逃がさないための、物理的かつ法的な完璧な包囲網が、今ここに完成した。




