第31話 給料3倍
【紗枝視点】
三月上旬。翠星市にまだ冷たい冬の風が吹きつける中、水面下で進めていた私の「引越し」は最終段階に入っていた。
日中は、顔の筋肉がひきつるほどのバキバキの笑顔で「3」の奇行を繰り返す狂った妻を完璧に演じ切る。そしてその裏で、私は少しずつ、確実にこの店舗から自分の痕跡を消し去っていった。
長年愛用してきた厨房の私物。そして何より、私が身を削って開発し、これまでの試行錯誤がびっしりと書き込まれたオリジナルのレシピノート。それらを誰にも気づかれないように、七海が用意してくれた新店舗のキッチンカーへと移動させていった。
同時に、二階の居住スペースにある私の生活用品や衣類も、毎日少しずつゴミ出しや買い出しのふりをして持ち出し、七海のアパートへと運び込んでいる。
クローゼットの中はすでにスッカスカで、洗面台に置いてあった私の化粧水もとっくに空箱だ。普通に生活していれば、一目で異変に気づくはずの状況である。しかし、夫の潤は全く気付かない。
「紗枝、俺の出張用のカバン出しといてくれ」
「そこに3つ並べてありますよ、あなた」
彼は私の不気味な「3」の演出に嫌悪感を示し、私という人間そのものに一切の興味を向けていない。彼が見ているのは「都合よく働き、利益を生み出す機械」だけであり、私の生活の痕跡が消えつつあることなど、彼の傲慢な視界には入りもしないのだ。
滑稽な男。私は心の中で冷たく鼻で笑いながら、着々とXデーへの準備を整えていった。
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「ねえ、三人とも。ちょっと集まってくれるかしら?」
ランチタイムの波が去った午後。私はバックヤードの休憩室でスマホをいじっていたパート従業員の三人――仲根涼子、杉浦桃華、渋谷莉乃――に声をかけた。
三人は面倒くさそうに顔を上げ、私の異様なテンションに引きつった笑いを浮かべた。
私は、顔の筋肉が痛くなるほど口角を引き上げ、一切の瞬きをせずに三人を交互に見つめた。
「いつもお店のために頑張ってくれて、本当にありがとうね。私、決めたの。あなたたちの働きぶりには、特別な『3』の恩返しが必要だって」
私は両手で胸の前で三角形を作り、耳まで裂けそうな満面の笑みで告げた。
「来月からは、あなたたちのお給料を『3倍』にしてあげるね!」
「……えっ?」
三人の動きが完全に停止した。
「3倍よ! 時給も、ボーナスも、ぜーんぶ3倍! だから、これからも絶対にお店を辞めないで、みんなの笑顔を残したまま、三人揃って働き続けてね? 約束よ……!」
顔を至近距離まで近づけ、狂気のプレッシャーを与える。
これはただの狂気ではない。Xデーまでの間、彼女たちが私の異変に気づいて逃げ出したり、証拠を隠滅したりするのを防ぐための、強欲な彼女たちを繋ぎ止めるための極太の鎖だ。
「さあ、フロアに戻って『3』の調和をお願いね!」
私はスキップしながら厨房へと戻った。背後から、三人のざわめきが聞こえてくる。罠は完全に食い込んだ。
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【杉浦桃華視点】
「……ちょっと、聞いた? 給料3倍って」
店長が厨房に戻った後、バックヤードの休憩室に涼子さんの呆れたような、でも確実に計算高い声が響いた。
「マジで頭おかしいよね! でも時給3倍なら、普通にそこらへんのサラリーマンより稼げるじゃん! 超ラッキー!」
莉乃ちゃんがスマホを叩きながら下品に笑う。
私は「なんかぁ、店長怖すぎますぅ……モモ、あんな笑顔で見つめられて鳥肌立っちゃいましたぁ」と、両腕をさすりながらいつものぶりっ子全開で震えてみせた。
「まあ、あのババアが狂ってるおかげで私たちが潤のお金で潤うんだから、都合がいいじゃない。辞める理由もないわね。しっかり貰うものは貰っておきましょう」
涼子さんがリップを塗り直しながら冷たく言い放つ。
私は「そうですねぇ……」と同意しながら、頭の中では猛烈なスピードで電卓を叩いていた。
時給が3倍……。月に直したら、とんでもない額になる。
実のところ、この二人の女を出し抜くための「最強の切り札」を隠し持っている。この『秘密の同盟♡』のグループLINEで、莉乃ちゃんや涼子さんが潤君や店長を露骨に馬鹿にしているトーク履歴のスクリーンショットだ。
これを潤君に見せれば、プライドの高い彼は激怒して、この二人を絶対に切り捨てる。そうすれば、潤君の隣にいられるのは私だけになり、社長夫人の座も夢じゃない。
ずっとそのタイミングを狙っていた。
けれど……。
潤君のことは絶対に独り占めしたい。でも……お金もすっごく大切だよね。
店長のあんな狂った約束、いつまで続くかはわからないし、後で社長にバレたら取り消されるかもしれない。でも、もし本当に来月の給料が3倍になるなら、その大金をきっちり回収してから二人を破滅させても遅くはないはずだ。
今ここで暴露してグループを爆発させれば、店がパニックになって、せっかくの「3倍」の話も立ち消えになってしまうかもしれない。
うん、決めた。スクショの暴露は、もう少し先に延ばしてあげる。
私は、潤君への依存心よりも、目の前の確実な利益を優先することにした。
「私たち、これからも三人で仲良く頑張りましょうねっ♡」
私は満面の笑みで、涼子さんと莉乃ちゃんに抱きついた。二人とも「はいはい」と適当にあしらってきたけれど、私の腹の底で渦巻く真っ黒な毒に気づくはずもない。
今は泳がせておく。たっぷりお金を稼がせてもらってから、最後に潤君も、この二人も、私が全部コントロールしてやるんだから。




