第30話 カウントダウン
【柚木七海視点】
姉の「狂気」という最強の隠れ蓑を利用し、私は店外での水面下の準備を猛スピードで進めていた。
まずは新店舗となるベースの確保だ。私は自分の名義で新会社を立ち上げ、機動性の高いキッチンカーの契約を済ませた。
並行して弁護士事務所へ通い詰め、あのクソ野郎と三人の寄生虫たちに対する慰謝料、そして会社の資金横領に対する損害賠償の法的手続きを、一切の逃げ道がない完璧な書類へと仕上げていく。
次に私が向かったのは、翠星市の郊外にある農園だった。
「大地さん、お話ししたいことがあります」
農作業中の大地誠也さんに声をかけると、彼は訝しげに眉をひそめた。私が新店舗の立ち上げと、それに伴う食材の全面的な卸しをお願いすると、実直な彼は静かに首を横に振った。
「……お断りします。先日、店で紗枝さんの様子を見ました。彼女は今、料理を『3』という数字の強迫観念で汚している。最初は警戒していましたが、復讐のために料理を道具にするようなら、自分のトマトは絶対に渡せません」
彼が姉の料理人としての誇りを誰よりもリスペクトしているからこその、真っ当な拒絶だった。私は小さく微笑み、保温バッグから銀紙に包まれたハンバーガーを取り出した。
「御託はいいですから、まずはこれを食べてみてください」
それは、姉が深夜に自宅のキッチンで寝る間も惜しんで研究した試作品だった。
大地さんは怪訝な顔をしながらも、そのバーガーを受け取り、大きく口を開けてかぶりついた。
その瞬間、彼の動きがピタリと止まった。
チェダー、モッツァレラ、ゴルゴンゾーラ。三種の濃厚なチーズがパティの暴力的な旨味と絡み合い、そこに大地さんのトマトの瑞々しい酸味が加わることで、かつてない完璧な調和を生み出している。復讐の毒や狂気など一切混じっていない、純粋で圧倒的な「美味しさ」だけがそこにあった。
「……すごい。それぞれの素材が、完全に引き立て合っている……」
大地さんの目から、張り詰めていた警戒心が溶け落ち、深い安堵の光がこぼれた。
「紗枝さんの職人としての腕は……完全に復活したんですね。わかりました。自分にできることなら、なんだって協力します」
姉の確かな腕が、強力な味方を完全に味方につけた瞬間だった。
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【紗枝視点】
『Xデー』の二週間前。
私は今日も、一階の店舗でバキバキの笑顔を貼り付けながら、狂った妻を完璧に演じ切っていた。
「いらっしゃいませ! お水のおかわりは3回までですよ!」と無機質に叫びながら、頭の中は極めて冷静に、裏で進む計画のカウントダウンを刻んでいた。
夜。バックヤードの事務所で、七海からの報告を受けた。
「お姉ちゃん、新店舗になるキッチンカー『|CraftBurgerTRINITY』の内装工事、無事に完了したわ」
スマートフォンのスピーカー越しに聞こえる七海の声は、確かな自信に満ちていた。
「それに、大地さんが間に入ってくれたおかげで、今の仕入れ業者たちへの『乗り換え』の根回しも密かに完了したわよ」
私が長年付き合ってきた精肉業者やパン屋の職人たちは、大地さんの声かけと私の独立の話を聞いて、二つ返事で協力を承諾してくれたという。
『紗枝さんが新しい店をやるなら、喜んでそっちに卸すよ。ぶっちゃけ、あの社長の横柄な態度と理不尽な値切りには、もう限界だったからな』
業者さんたちは口々にそう吐き捨てたそうだ。
夫が日頃から見せていた傲慢な態度が、業者さんたちにどれほど嫌われていたか。夫は「俺の経営センスで安く仕入れている」と豪語していたが、彼らがギリギリの価格で卸してくれていたのは、ひとえに現場で汗を流す私への同情と信頼があったからに他ならない。
あの男は、自身の思い上がりによって、自ら破滅への包囲網の完成を早めていたのだ。
「あとは、業者さんたちへの契約解除通知ね」
私は手元の書類をトントンと揃え、冷たい目で見下ろした。
事前に業者たちと連携し、サンダイとの取引を打ち切る契約解除通知を、法的に問題のないタイミングで一斉に送らせる手はずは整っている。
その契約解除日は、すべて反撃の決行日である『Xデー』に設定してある。
「……ふふっ」
無人のバックヤードで、私は狂気の演技ではない、心の底からの冷たい笑みをこぼした。
夫は今頃、私が完全に狂って自分に服従していると信じ込み、愛人たちと会社の経費で遊び歩く次の計画でも立てているのだろう。
しかし、水面下ではすでに、彼を支えていたすべての足場が取り外されている。
良質な食材を卸してくれていた仕入れ業者、店舗の経営権、そして文句一つ言わずに利益を捻出していた優秀な働き蜂だった私。
彼が胡座をかいていた見せかけの玉座は、とっくに空洞なのだ。
「せいぜい今のうちに、社長気分でいい夢を見ておきなさい」
私はカレンダーの『Xデー』の日付に、極太の赤いマジックで冷酷なバツ印を書き込んだ。
逃げ場のない、完璧な包囲網が完成した。
あとは、あの男が最も高い場所から地獄の底へと転え落ちるその日を、静かに待つだけだ。




