第29話 深夜の厨房
【紗枝視点】
妹の柚木七海の部屋で、私たちは反撃のためのロードマップを広げていた。
ただ離婚して慰謝料を請求するだけでは、私の腹の虫は到底収まらない。あの傲慢な夫と、私の労働を嘲笑っていた三人の寄生虫たちには、社会的な抹殺と、私が味わった以上の絶望を与えなければ気が済まなかった。
「お姉ちゃん。慰謝料と損害賠償の請求、そして『|SunSunDiner』の経営権と店舗資産を担保にする合意書の作成は、弁護士と進めているわ。あとは、あの男から店を取り上げるのと同時に、私たちが新しい店をオープンさせる準備をしましょう」
七海がノートパソコンの画面を私に向けた。そこには、彼女がデザインした新しいハンバーガーショップのロゴが映し出されていた。
「新店舗の名前……『|CraftBurgerTRINITY』?」
七海は少し心配そうに私を見つめた。
「お姉ちゃん、本当にこの店名でいいの?『TRINITY(三位一体)』なんて、また忌まわしい『3』を連想させるじゃない。看板メニューの名前だって『トリプルサンドバーガー』にするなんて……」
私は静かに首を横に振った。
「ううん、これでいいの。むしろ、これでなくちゃダメなのよ」
私は画面のロゴを真っ直ぐに見据えた。
あの日、夫が三人の女と不倫していると知った時の絶望。狂気に逃げ込み、自分のアイデンティティすら見失いかけたあのおぞましい日々。
「『3』という数字から逃げちゃダメなのよ。お肉、チーズ、バンズ。この三つの素材が完璧なバランスで調和してこそ、私の最高のハンバーガーは完成する。私は、自分を壊しかけたあの忌まわしい数字を自らの手で支配し、料理人としての私の力に変えるの。これは、私自身の決意表明よ」
私の迷いのない言葉を聞いて、七海は安堵したように微笑み、力強く頷いた。
「わかった。なら、私は全力でサポートする。最高の『3』を、あいつらに突きつけてやろう」
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それからの私は、夫の「やっぱりこいつは俺に惚れてるから逆らえないんだな」という傲慢な油断を最大限に利用することにした。
反撃の決行日――『Xデー』の三ヶ月前。
私は日中、これまで通り店に立ち、感情を完全にシャットアウトした「バキバキの満面の笑顔」でワンオペをこなした。
「あなた、お疲れ様。今日のお店の『3』の調和も完璧よ」
たまに夫の潤が店に顔を出すと、私はわざと過剰に「3」に執着する奇行を見せつけた。ハンバーガーの包み紙を三度折りたたみ、お釣りの硬貨を三枚ずつ並べて渡す。
私の異様な姿を見るたびに、夫の顔には明らかな嫌悪感と気味の悪さが浮かんだ。
「あ、ああ……そうか。じゃあ、俺は社長の仕事があるから、奥の事務所にいるぞ」
夫は逃げるように私の前から立ち去り、やがて店に顔を出す頻度自体が激減していった。私と顔を合わせるのが不気味で、自発的に店から遠ざかったのだ。
計算通りだ。夫が店に来なければ、私はバックヤードで七海と連絡を取り合い、自由に動ける時間が圧倒的に増える。
そして深夜。
静まり返った自宅のキッチンで、私はひたすら新メニュー「3種の濃厚チーズ」の完璧な配合を研究した。
チェダー、モッツァレラ、そしてゴルゴンゾーラ。それぞれのチーズの個性が反発し合うことなく、パティの旨味を極限まで引き立てる黄金比。狂気の中で作った、あのドロドロの腐敗物のような味とは違う。私は研ぎ澄ました料理人の感覚だけを頼りに、何度も何度も試作を繰り返した。
鍋の中で黄金色に溶け合うチーズの香りを嗅ぎながら、私の心はどこまでも冷たく、そして澄み切っていた。
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【仲根涼子視点】
スマートフォンの画面が明るく光り、ブーブーと短い振動音が連続して鳴り響いた。
夜の自室で、買ってもらったばかりのブランドバッグの手入れをしていた私は、面倒くさいと感じたが、画面に目を向けた。
『秘密の同盟♡』のグループLINE。通知の連投元は、案の定、渋谷莉乃と杉浦桃華の二人だ。
『ねえ見て!今日の店長マジでヤバい!ケチャップのボトル3本並べてずっと話しかけてたwホラーすぎ!』
『モモも見ましたぁ〜。なんか最近、ずっとニコニコしてるけど目が死んでて超怖いですぅ(泣)』
『でもぶっちゃけ、店長があんなだから私たちサボり放題でめっちゃ楽じゃない?スマホいじってても全然怒ってこないしーw』
私は呆れたようにため息をつき、フリック入力で適当な返信を打ち込んだ。
『そうね。あんな狂ったババアの相手なんてしてられないわ。適当にやり過ごして、時給だけもらっておけばいいのよ』
紗枝とかいうあの哀れな店長は、完全に頭のネジが飛んでしまったらしい。夫が自分たちの店のパート従業員三人全員と不倫しているという事実に耐えきれず、現実逃避しているのだ。
なんとも滑稽で、都合のいい女。
『ほんとそれ!てか社長、来週またモモのことお買い物連れてってくれるって言ってましたぁ♡』
『は?ずるーい!僕も来月エステ代おねだりしよーっと!』
はしゃぐ二人を冷ややかに見つめながら、私は薄く形の良い唇を歪めて嘲笑った。
あの馬鹿な社長も、自分の妻が壊れているのをいいことに、私たちを順番に呼び出しては経費で遊び狂っている。妻の労働力と会社のお金を湯水のように使って、自分は特別な男だとでも勘違いしているのだろう。
でも、一番賢いのは私だ。
あの社長からどれだけ高価なブランド品を引き出し、自分の資産に変えるか。紗枝が狂ったまま一生懸命ハンバーガーを焼き続けてくれる限り、この快適なATM生活は永遠に続く。
『社長も、店長が気味悪くて最近家に帰りたくないみたいね。好都合だわ。私たちでしっかり慰めて、お財布の紐を限界まで緩めさせましょう』
私がそう送信すると、すぐに『賛成ー!』『涼子さんさすがですぅ♡』という軽薄なスタンプが連打された。
私たちが優雅にブランド品を買い漁り、美味しいものを食べている裏で、あの狂ったババアは今頃、深夜の油臭い厨房で必死にハンバーガーの仕込みでもしているのだろうか。
「せいぜい頑張って働きなさい。私たちの贅沢な生活のためにね」
私は手元にある買ってもらった三十万円のバッグを撫でながら、、これからも続く明るい未来を確信して一人ほくそ笑んだ。




