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第28話 温かい愛情

【紗枝視点】


 妹の頼もしい宣言に、私は深く頷き、持参した自分のトートバッグに手を伸ばした。


「ええ。私も、ただ泣き寝入りするつもりはないわ。……はい、これ」

 私はバッグの中から二つのクリアファイルを取り出し、七海の前に置いた。


「これは……?」

「こっちがお店の正規の帳簿。そしてこっちが、あの人がバックヤードに隠していた裏帳簿のコピーよ」


 七海は瞬時に目つきを鋭くし、裏帳簿のコピーをめくり始めた。彼女の冷徹な視線が、数字の羅列の上を素早く滑っていく。


「交通費や接待交際費の不自然な水増し……。なるほど、会社の経費として横領して、この浮気女たちとの旅行資金に充てていたわけね」

「そうよ。地方視察という名目でね」


 七海は呆れたように鼻で笑い、ファイルをパタンと閉じた。


「馬鹿ね。自分の首を絞める決定的な証拠を、わざわざ紙で残しておくなんて。本当に口先だけで、経営者としての危機管理能力がゼロの男」


 七海は、自身が集めた不倫の証拠写真の束と、私が持参した裏帳簿のコピーをテーブルの上に並べた。


「これで、完璧な包囲網が完成したわ。不倫による精神的苦痛に対する慰謝料。相手が三人いるんだから、当然、愛人たち各自にも個別に請求する。それに加えて、会社の資金を横領したことに対する損害賠償」


 七海の指が、テーブルの上をトントンとリズミカルに叩く。


「全部合わせれば、莫大な金額になる。見栄っ張りで貯金なんてろくにしていないあの男が、一括で払えるはずがないわ」

「……ええ」

「払えないなら、どうするか。……簡単よ。あの男が一番執着している『|SunSunDinerサンサン・ダイナー』の経営権と、店舗の全資産を担保にさせるの」


 その言葉に、私は息を呑んだ。


 ただ離婚して慰謝料をもらうだけではない。私が血の滲むような思いで育て上げ、あの男に奪われた私のお城を、合法的に完全に奪い返すのだ。あの男はいつも「俺の経営センスのおかげだ」と豪語していたが、その空っぽなプライドを根底からへし折り、彼が一番執着しているものを合法的に取り上げる。


「弁護士には、すでに逃げ道のない合意書の作成を依頼してあるわ。あとは、あの男が最も油断し、最も高いところから突き落とされる絶好のタイミング――『Xデー』を決めるだけよ」


 七海の言葉に、私の胸の奥で、復讐への冷たい炎が静かに、しかし確実に燃え広がっていくのを感じた。

 私は、あの傲慢な夫と、私の労働を嘲笑っていた三人の女たちに、逃げ場のない「地獄のお会計」を突きつける日を想像し、冷たく濁った瞳で写真を見下ろした。


 +++


 息の詰まるような作戦会議が一段落し、窓の外はすっかり日が暮れていた。

 七海は大きく伸びをすると、冷めた紅茶のカップを片付け、新しいハーブティーを淹れてくれた。カモミールの優しい香りが、張り詰めていたリビングの空気をふわりと和らげる。


「……ふぅ。これでひとまず、反撃のロードマップは完成ね」

 七海はソファに深く腰掛け、部屋の天井をぐるりと見渡した。


「ねえ、お姉ちゃん。ここに来た時、一人で住むには少し広いって言ってたでしょ?」

「え? ええ……そうね。都心に近いのに、随分ゆったりとした間取りだなと思って」


 七海はティーカップを両手で包み込みながら、少し照れくさそうに微笑んだ。


「実はね、この部屋を借りる時、最初から『二人』で住むことを想定して選んだの」

「……え?」

「Xデーを迎えて、あの男に引導を渡したら、お姉ちゃんはあの家を出ることになる。その時、お姉ちゃんがゆっくり羽を伸ばして、心置きなく休める場所が必要でしょ?」


 七海は、まっすぐな瞳で私を見つめた。

「すべてが終わったら、一緒にここに住んでよ。お姉ちゃんの傷がちゃんと癒えるまで、ここで二人で新しくやり直そう」


 その言葉の意味を理解した瞬間、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。


 七海は、私が「3」の数字に狂い、完全に正気を失っていた時から、いつか私が必ず目を覚ますと信じてくれていたのだ。そして、私がすべてを失って放り出された時のために、この安全な場所を、私のための「帰る場所」を、たった一人で密かに用意して待ってくれていた。


「七海……」


 私は、妹の名前を呼んだきり、言葉が続かなかった。

 復讐の計画を立てている間、私は一切の感情を排した冷徹なマシーンになっていた。悲しみも、痛みも、すべてを怒りの炎で焼き尽くしたつもりだった。

 しかし、七海のあまりにも深く、無償の愛情に触れた途端、厚い氷の鎧が音を立てて崩れ去っていくのを感じた。

 視界が、急速に歪んでいく。


「お姉ちゃん、ずっと一人で戦ってきたんでしょ。苦しかったよね。でも、もう一人じゃないから」


 七海が身を乗り出し、私の両手をそっと握りしめてくれた。その手の温かさが、痛いほどに伝わってくる。


「ありがとう……っ、七海……本当に、本当に、ありがとう……っ」


 せき止めていた感情が、決壊したダムのように溢れ出した。


 昨夜、誰もいない冷たい厨房の床で流した涙は、絶望と後悔に満ちた冷たい涙だった。けれど今、妹の手を握りしめながらこぼれ落ちるこの涙は、どこまでも温かく、私の心を救済してくれる優しい涙だった。


 私は妹の優しい手を握り返し、ボロボロと大粒の涙をこぼした。

 裏切られ、利用され、一度は完全に心が壊れてしまった私。けれど、私にはこんなにも賢く、強く、そして心優しい妹がついている。


 私は声を上げて泣きながら、心の底からそう確信していた。

 この涙が乾いた時、私は過去の弱い自分と完全に決別し、彼女と共に戦う「新しい私」として立ち上がるのだと。

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