第27話 反撃の始まり
【紗枝視点】
妹の柚木七海が一人で住むには少し広いと感じるそのアパートを、私は初めて訪れていた。
無機質なエントランスを抜け、指定された部屋のインターホンを押す。すぐにロックが解除され、ドアの向こうから妹が顔を出した。
フリーランスのWebデザイナーとして働く彼女は、普段から洗練されたスマートカジュアルを着こなしている。今日もシンプルだが質の良さそうな部屋着姿で、私を迎え入れてくれた。
「いらっしゃい、お姉ちゃん」
七海は私の顔をじっと見つめた。私の目から、あの虚ろでバキバキにキマった光が完全に消え去っているのを確認したのだろう。彼女の表情が、安堵と、そして微かな闘志を帯びたものに変わった。
「ようやく目が覚めたね、お姉ちゃん」
静かに、けれど確かな力強さを持ったその言葉に、私は小さく頷いた。
「ええ……。心配かけてごめんなさい、七海」
「いいのよ。さあ、中に入って」
通されたリビングは、彼女の仕事場も兼ねているらしく、大きなデスクと複数台のモニターが並んでいたが、生活空間はとてもすっきりと片付いていた。
私がソファに腰を下ろすと、七海はキッチンでお湯を沸かし始めた。
「少し休もう。紅茶でいい?」
「ありがとう」
やがて、カチャリという陶器の音とともに、ローテーブルの上に温かい紅茶が入ったティーカップと、ショートケーキが乗ったお皿が置かれた。
私の前と、七海の前。それぞれに一つずつ。
テーブルの上には、ティーカップが「2つ」。ケーキの皿が「2つ」。シルバーのフォークが「2本」。
それを見た瞬間、私の胸の奥底で、何かがフッと溶けていくような感覚があった。
つい先日までの私なら、この光景を見ただけでパニックを起こしていただろう。
「どうして3つじゃないの?」「3つに揃えないと調和が崩れてしまう」と叫びながら、無理やりもう一つカップを並べ、ケーキを三等分に切り刻んでいたはずだ。
夫の不倫相手が「三人」であるというおぞましい事実に心を壊され、自分を守るために強迫的に「3」という数字に執着していた狂気の日々。
しかし今、目の前に並んだ「2つ」のセットを見ても、私の心は驚くほど穏やかだった。欠けているものなど何もない。私と妹が向かい合って座る、この「2つ」の調和が、今の私にはとても自然で、美しく感じられたのだ。
「……美味しそうね、このケーキ」
「近所で人気のパティスリーで買ってきたの。お姉ちゃん、ずっとちゃんと食べてなかったでしょ。甘いもの入れて、頭回さないとね」
七海の優しさに触れ、紅茶の温かさが胃から全身へと染み渡っていく。狂気に支配されていた冷たい体が、ようやく本来の私の体温を取り戻していくのがわかった。
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ケーキを食べ終え、一息ついたところで、七海の空気が変わった。
彼女はデスクの方へ歩み寄り、分厚い紙の束が入ったファイルを手に取ると、再び私の向かいに座り、それをドンとテーブルの上に置いた。
「さあ、お茶会はここまで。……答え合わせの時間よ」
「これは……?」
「私が独自に集めていた、あの男と愛人たちの不倫の証拠写真」
私は息を呑み、震える手でそのファイルを開いた。
そこには、私が狂気のワンオペで店を回している裏で、夫の波瀬海潤がパート従業員の女たちと逢瀬を重ねていた記録が、生々しく綴られていた。
ホテルに出入りする決定的な瞬間の写真。高級レストランでの親密な様子。相手は、冷淡な仲根涼子、依存体質の杉浦桃華、そして軽薄な渋谷莉乃の三人全員だ。言い逃れの余地など一ミリもない、鮮明で完璧な証拠の山だった。
「これ……どうやってこんなに……?」
「言ったでしょ。お姉ちゃんが病んでいた間、来る日のために私は、再起不能になるまで合法的にやり返す準備をしていたの」
七海は、仕事用のブルーライトカット眼鏡をクイッと押し上げた。その瞳には、姉である私を苦しめた義兄への、静かな激怒が冷たく燃え上がっていた。
七海が語り始めたのは、私が「3」の呪縛に囚われ、精神を病んでいた時期の彼女の行動だった。
私を心配した七海は、雰囲気の良い純喫茶にノートパソコンを持ち込み、完全に冷徹な戦闘モードに入っていたという。
「一番隙だらけだったのは、あの派手なメイクの女……渋谷莉乃ね。彼女、完全なSNS依存症だったから」
七海は、渋谷莉乃の裏アカウントを特定し、そこに投稿される「今日は社長と地方出張♡」といった下品な匂わせ投稿を徹底的に監視していた。
「写真の背景に少しだけ写り込んだカーブミラーの景色。カフェのテーブルの木目の特徴。ホテルの窓ガラスに反射した看板のネオンの文字……」
七海は、それらのわずかな情報から、彼女たちが滞在している地方のホテルや店を、秒単位で特定していったのだという。
「昔から、あの男がお姉ちゃんの才能を利用してふんぞり返っているのが許せなかった。ずっと軽蔑していたのよ」
七海は吐き捨てるように言った。
「だから、徹底的にやったわ。SNSで行動を完璧に特定して、そこへ私が自腹で雇った腕のいい探偵をピンポイントで送り込んだの」
結果として、探偵はターゲットが確実に現れる場所と時間を把握した上で待ち構え、ホテルに出入りする決定的で鮮明な証拠写真を撮ることに成功したのだ。
ファイルの中には写真だけでなく、弁護士へ提出するために時系列や場所が完璧にまとめられた、一切の隙のない報告書が淡々と作成されていた。
「……七海、あなたって子は」
妹の、恐ろしいほどの執念と有能さ。そして何より、狂ってしまった私を見捨てず、私のためにこれほどまでに完璧な武器を用意してくれていたことに、私は胸がいっぱいになった。
「お姉ちゃんが作ってくれた完璧なハンバーガーに比べたら、こんなのどうってことないわ」
七海は眼鏡の奥で、少しだけ得意げに、そして優しく微笑んだ。
「証拠は全部揃ったわ。さあ、あの傲慢なクソ野郎と寄生虫どもに、絶望という名の特製セットをお見舞いしてやりましょう」
妹の力強い言葉に、私の心に宿った絶対零度の冷徹な怒りの炎が、さらに大きく燃え上がるのを感じた。




