第26話 油断する夫
【潤視点】
翌朝。俺は二階の寝室で、気持ちの良い朝日を浴びて目を覚ました。
大きく伸びをし、首を鳴らす。数日前に紗枝に無理やり巨大なハンバーガーを食わされた時は、さすがの俺もあいつの異常性に肝を冷やし、本能的な恐怖を覚えた。
だが、一晩ぐっすりと眠り、冷静な頭で状況を整理してみると、どうということはなかった。
あいつは俺に復讐しようとしているわけではない。不倫のショックに耐えきれず、精神のバランスを崩して「3」という数字に憑りつかれているだけなのだ。
その証拠に、あいつは俺を責めることもなく、ただひたすらにハンバーガーを焼き、俺の機嫌を取ろうと必死になっているじゃないか。
「なんだ、ビビって損したぜ」
俺は鼻歌交じりでベッドから抜け出し、身支度を整えて一階へと降りていった。
今日は午後から、また別の「地方視察」という名の出張が控えている。
しかし、階段を降りて一階の店舗スペースを横切ろうとした俺は、思わず「うおっ」と声を漏らし、足を止めた。
昨日までとは比べ物にならないほど、店内が異様なことになっていたのだ。
壁という壁、テーブルの側面、果ては天井付近にまで、赤や黒の極太マジックで『3』という数字が幾重にも殴り書きされた画用紙が、隙間なくベタベタと貼り付けられている。
もはやアメリカンレトロな雰囲気など欠片もなく、正気の人間なら一目見ただけで逃げ出したくなるような、グロテスクで不気味な異空間に成り果てていた。
「……おいおい、昨日よりひどくなってねぇか?」
俺が呆気にとられていると、奥の厨房からエプロン姿の紗枝が姿を現した。
「あなた、おはよう。ふふっ、どう?お店の『3』の調和、もっと完璧にしておいたのよ」
紗枝は俺の顔を見るなり、口角を耳まで裂けそうなほど引き上げ、バキバキにキマった満面の笑顔を向けた。
だが、その瞳の奥には一切の光がなく、まるで死んだ魚のような、底知れぬ虚無が広がっている。しかし、俺はもうその異様さに怯えることはなかった。
「あ、ああ……すごいな。完璧だ。お前は本当に店を守るために頑張ってくれてるよ」
俺が適当に調子を合わせてやると、紗枝は嬉しそうにカクンと首を傾げた。
「あなた、今日からまたお仕事での視察よね? 荷物、ちゃんと用意しておいたわ」
そう言って紗枝が俺に差し出したのは、いつもの高級な出張カバンだった。
俺はカバンを受け取り、中身を確認して思わず口元を歪めた。
中には、パリッとアイロンがかけられたワイシャツが3着、ネクタイが3本、下着が3セット。相変わらず「3」にこだわってはいるものの、俺が出張先(不倫旅行先)で快適に過ごせるよう、洗面用具から常備薬に至るまで、寸分の隙もなく完璧に準備されていた。
俺の胸の内に、圧倒的な安心感と優越感が込み上げてきた。
やっぱりそうだ。こいつは完全に頭がおかしくなっているのに、俺の出張準備だけは完璧にこなす。俺に惚れ弱っていて、絶対に逆らえないんだな。
妻の狂気に最初は怯えていたが、次第にその異常さに慣れ、適当にあしらっておけばいいことがわかった。
「ありがとう、紗枝。いつも助かるよ」
「いいのよ。私はあなたに尽くすのが喜びなんだから。ねえ、今回の視察も……『3』を楽しむの?」
紗枝がニコリと笑って不気味な言葉を投げかけてくるが、俺はもう動じなかった。
むしろ、浮気を知られながらも容認され、甲斐甲斐しく世話を焼かれているこの状況が、自分の「社長としてのカリスマ性」を証明しているようで心地よかった。
「ああ、もちろんさ。社長として、みっちり視察してくるよ。留守中の店は任せたぞ」
「ええ、任せて。私がお店でしっかり……『準備』をしておくから」
「頼もしいな。じゃあ、行ってくる」
俺は、妻に背を向け、意気揚々と店を出た。
外の空気を吸い込みながら、俺は心の中で盛大に妻を嘲笑った。
あんな狂気じみた気味の悪い店、とてもじゃないが長居はできない。出張から帰ってきても、適当に理由をつけて外で時間を潰し、極力店には顔を出さないようにしよう。
どうせ俺がいなくても、あの都合の良い働き蜂は文句一つ言わずにワンオペをこなし、勝手に店の売上を稼いでくれるのだ。
俺は最近の店の売り上げ記録を見忘れたことに気付いたが、頭のネジが飛んだ妻と少しでも一緒に居たくないと思い、そのまま駅へと歩き出した。
俺はスマートフォンを取り出し、莉乃に「今からそっちに向かう」と甘いメッセージを打ち込んだ。
自分は全てを支配している特別な男だと自分に酔いしれながら、今日のデートプランを思い描いていた。




