第25話 装う狂気
【紗枝視点】
翌日。
昨夜、床に這いつくばって流した大量の涙は、私の中から「夫への未練」という名の不純物を完全に洗い流してくれた。
厨房に立ち、ふとフロアを見渡した私の視界は、信じられないほどクリアだった。
同時に、自分の異常性を客観的に突きつけられることになった。
アメリカンレトロで統一されていたはずの美しい店内は、至る所に蛍光色の画用紙で『3』と書かれたポップがベタベタと貼られ、異様な空間に成り果てている。
私が無意識のうちに作り上げていた狂気の世界。正気を取り戻した今となっては、それはただの「汚いゴミの山」にしか見えなかった。
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お昼のピークを過ぎた頃。
補充用の備品を取りにバックヤードの休憩室に入った私は、長机の上にポツンと置かれているスマートフォンに気がついた。
ファンシーなカバー。パートの仲根涼子が忘れていったものだ。
ふと、ブーッと短い振動音が鳴り、画面が明るく点灯した。
ロック画面にポップアップ表示されたのは、『秘密の同盟♡』というグループLINEの通知だった。
『あいつマジでホラー(笑)完全に頭おかしいから』
『ウケるw私たちが潤のお金で遊んでる間、このまま狂ってタダ働きしててほしいよねー』
差出人は、渋谷莉乃と杉浦桃華。
私が狂気に囚われ、血反吐を吐いて身を粉にしている姿を、彼女たちは嘲笑い、夫との不倫旅行を満喫するためのエンターテインメントとして消費していたのだ。
その文字を見た瞬間。
私の耳元で、「キィィィン……」という不快な金属音が甲高く響き、そして、スッと消え去った。
悲しみは、もう一滴も残っていなかった。
代わりに、脳内の炭酸がプシュッと抜けていくような、奇妙な静寂が訪れる。ドロドロに煮詰まっていた感情が急速に冷却され、絶対零度の底知れぬ怒りへと変わっていく。
私の奥底で眠っていた、一切の情を持たない「冷徹な本性」が完全に目を覚ました瞬間だった。
私を都合のいい道具として扱い、すべてを搾取し尽くした傲慢な夫の潤。
そして、私の血と汗の結晶を嘲笑いながら、寄生虫のように甘い汁を吸い続けていた涼子、桃華、莉乃。
この四人だけは、絶対に許さない。
私から尊厳を奪い、人生を狂わせた代償を、骨の髄まで思い知らせてやる。二度と立ち直れないほどの絶望的な地獄に突き落とし、社会的に完全に抹殺してやると、私は静かに、けれど決して揺るがない決意を心に刻み込んだ。
「……あっ、やだ、スマホ忘れてた!」
背後のドアが勢いよく開き、涼子が休憩室に駆け込んできた。
私は、すーっと息を吸い込んだ。そして、振り返るコンマ数秒の間に、感情の一切を消し去った「死んだ魚の目」から、見開かれた「バキバキにキマった満面の笑顔」へと表情のスイッチを完全に切り替えた。
「あら、涼子ちゃん。お忘れ物?」
私は両手で大切そうにスマホを持ち上げ、首をカクンと右に傾げた。
「これ、涼子ちゃんのよね? でもね、私気付いちゃったの。このスマホの角って『4つ』あるじゃない?」
「え……?」
「4はダメよ。調和が乱れちゃう。ねえ、私が包丁で角を一つ削り落として、『3つ』にしてあげようか? そうすれば、もっと完璧になるわよ……?」
1ミリも瞬きをせずに顔を近づけると、涼子の顔からサァッと血の気が引くのがわかった。
「ひっ……! い、いいです! そのままでいいですっ!」
涼子はひったくるようにスマホを奪い取ると、逃げるように休憩室から飛び出していった。
パタン、とドアが閉まった瞬間、私の顔からバキバキの笑顔がズルリと剥がれ落ちる。
再び冷徹な「死んだ魚の目」に戻った私は、冷たく鼻で笑った。
……なんて簡単な女たち。私が狂っているフリをすれば、あいつらは何の疑いも持たない。
この「狂気」は、私を守るための完璧な盾であり、あいつらを油断させるための最強の武器になる。私はそう確信した。
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深夜。
営業を終え、静まり返った店内。
本来なら、正気を取り戻した私は、この忌まわしい「3」のポップやシールを今すぐ全て剥がして、ゴミ袋にぶち込む必要がある。
しかし、私はシールに手を伸ばしかけて、ピタリと止めた。
ダメよ。今ここで私が正常に戻ってしまったら、夫もあの女たちも警戒してしまう。
あいつらを完全に社会的に抹殺し、二度と立ち直れないほどの地獄を見せるためには、水面下で完璧な準備を進める時間が必要だ。
そのためには、夫に「やっぱりこいつは俺に惚れてるから逆らえない」「完全に頭が狂っているから放置しておけばいい」と舐めてかからせ、徹底的に油断させなければならない。
私が狂気を深めれば深めるほど、気味悪がった夫は自発的に店(私)から遠ざかる。それこそが、私が裏で自由に動ける時間を生み出すのだ。
「……ええ、狂ってあげる。あなたが望む通り、どうしようもなく壊れた妻を演じ切ってあげるわ」
私は引き出しから、大量の蛍光画用紙と極太のマジックペンを取り出した。
そして、一切の感情を排したまま、機械的に淡々と、これまで以上に過激でグロテスクな『3』のポップを量産し始めた。
壁の隙間を完全に埋め尽くすように、異常なサイズの『3』を次々と貼り付けていく。メニュー表の文字が読めなくなるほどに、赤や黒のペンで狂気に満ちたデザインを上書きしていく。
剥がすのではなく、より過激に、より醜悪に。この店を、誰もが目を背けたくなるような「狂気のショーケース」へと仕立て上げるのだ。
数時間後。
ゴミ屋敷のように『3』が溢れかえり、息が詰まるほど異様な空間へと変貌した店内を見渡し、私はポツリと呟いた。
「……始めるわよ」
それは、すっかり熱を失った鉄板の上の残りカスと、夫への完全に冷めきった愛情に向けた、静かな決別の言葉だった。
私はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出し、連絡先を開いた。
宛先は、妹の七海だ。
文面は、短く、簡潔に。
『目が覚めたわ。お会計の準備をお願い』
送信ボタンをタップした指先には、もはや微塵の迷いもない。
私から全てを奪い、嘲笑った傲慢な夫と三人の愛人たちへ。
逃げ場のない、完璧な復讐の幕が切って落とされた。




