第24話 正気の取り戻し
【紗枝視点】
七海がカウンターに叩きつけた数々の写真。
そこに写る夫と三人のパート従業員たちの、生々しく下劣な笑顔が、私の頭の中でぐるぐると回り続けていた。
「お姉ちゃん……ゆっくり、現実を見て。私はいつでもお姉ちゃんの味方だよ」
七海は、呆然と立ち尽くしたまま一歩も動けない私をそれ以上責めることはなく、ただ静かにそう言い残し、帰っていった。
誰もいなくなった、閉店後の静まり返ったフロア。私は、まるで糸の切れた操り人形のように、ふらつく足取りで厨房へと向かった。
いつもなら、一日の終わりには完璧に磨き上げられていなければ気が済まない、私のお城であるはずのステンレスの調理台。しかし今のそこには、私が今日一日、狂ったように「3」の法則に従って無残に切り刻み、無駄にした食材の残骸が散乱していた。
三等分に引きちぎられたレタス。無理やり三枚に下ろされたバンズの残骸。
その汚れた調理台の片隅。焦点の合わない私の視界の端に、ポツンと、小さな赤い光が留まった。
それは、農家の大地誠也君が納品に来た時、わざとコンテナから出して置いていったものだ。私が強迫観念に駆られて「3個」ずつに仕分けたトマトの山の隣に、彼がそっと置いて帰った『4つ目』の極上トマト。
なぜか、その深く鮮烈な赤色から、目が離せなくなった。
私は吸い寄せられるように近づき、震える両手でそのトマトをそっと包み込んだ。
ずっしりとした重み。薄く張った皮の向こう側に、命の熱量のようなものがパンパンに詰まっているのがわかる。
気がつけば、私は無意識のうちにそのトマトを口元へ運び、そのまま丸ごと、かぶりついていた。
――ジュワッ。
皮が弾ける心地よい音とともに、口の中いっぱいに強烈な果汁が溢れ出した。
「あっ……」
脳天を突き抜けるような、鮮烈な酸味。そして、それに負けないほどの深く濃厚な甘味。
その瞬間、私の味覚に張り付いていた、あのドロドロとしたおぞましい感覚が、一気に洗い流されていくのを感じた。
昨夜、私は夫に特大のハンバーガーの完食を強要した。お好みソース、タルタルソース、激辛チリソースという3種の味をグチャグチャに混ぜ合わせた、まるで腐敗物のような不快な味の集合体。夫にそれを食べさせながら、私自身の味覚もまた、狂気という名のヘドロに完全に汚染され、麻痺しきっていたのだ。
しかし今、誠也君が丹精込めて育てたこのトマトの純粋な美味しさが、死んでいた私の舌の細胞を強烈に叩き起こしていく。
清らかな濁流となって、私の全身の血管を駆け巡り、脳の隅々にまで酸素を行き渡らせるような感覚。視界を覆っていた狂気のモヤが、サァッと晴れていく。
『あんたの技術だから、このトマト預けたんだ』
トマトの果汁を飲み込んだ喉の奥から、以前に聞いた誠也君の静かで力強い声が、鮮明に蘇ってきた。
今まで私……なんてことを……。
私は、この完璧なトマトを、「3」という数字を揃えるためのただの道具として扱っていた。形が少し違うだけで、平然とゴミ箱に捨てていた。生産者がどれほどの汗と誇りを込めてこれを育てたか、料理人である私が一番知っていたはずなのに。
違う。ハンバーガーは……3の数字を強要するような、そんな狂ったものじゃない。
肉の力強い旨味。それを優しく包み込む濃厚なチーズ。全てをしっかりと受け止める香ばしいバンズ。それらは決して独立して存在するのではなく、このトマトの爽やかな酸味が加わることで、初めて完璧なバランスで調和するのだ。
それこそが、私が血の滲むような努力と情熱を注ぎ込んで生み出した、『SunSunDiner』の看板メニュー。私という「料理人」の魂の結晶だった。
私は、料理人だった。誰かを笑顔にするために、美味しいものを作る職人だったのよ……!!
ずっと眠らされていた私の真のアイデンティティが、激しい鼓動とともに完全に呼び覚まされた。
と同時に、私が狂気に逃げ込んで見ないふりをしていた「絶望の現実」が、今度こそ容赦のない重さを持って私の上にのしかかってきた。
夫の潤は、私を愛していなかった。
私の料理人としての誇りも、睡眠時間を削って稼いだ店の利益も、すべてをあざ笑うように踏みにじり、あの三人の女たちと会社の経費で遊び狂っていたのだ。
私は、そんな男の心を取り戻すために、自分の一番大切な「料理」を冒涜し、常連客を裏切り、自分自身の精神を壊してまで、見返りのない異常な服従を続けていた。
なんて……なんて馬鹿だったの、私は……!
異常な「3」への執着。夫に尽くせばどうにかなるという、トランス状態の呪縛から、私は完全に解き放たれた。
ポロリ、と。
視界が滲み、目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは夫に裏切られたことだけによる悲しみの涙ではない。私自身の心が、はっきりと痛みを感じて流す、熱くて痛い涙だった。
「ああ……っ、あ、あああああっ……!」
私は手から半分かじったトマトを取り落とし、冷たい厨房の床に膝から崩れ落ちた。
両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
ケンちゃんたちお客様を悲しませてしまった深い罪悪感。自分の誇りを自らの手で汚してしまった後悔。そして、人生のすべてを捧げてきた夫から受けた、耐え難い裏切りの痛み。
それらすべてが濁流となって胸から溢れ出し、私は床に顔を擦り付けるようにして慟哭した。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
誰に向けたものかもわからない謝罪の言葉を何度も何度も繰り返し、私はただ泣き続けた。
狂ったように笑い続けることしかできなかったころの顔の筋肉が、熱い涙でくしゃくしゃに歪んでいく。それは、私が「都合の良い狂ったマシーン」から、「血の通った一人の人間」へと戻った確かな証拠だった。
静まり返った深夜の厨房に、私の泣き叫ぶ声だけが、鳴り響いているのが自分でもわかったが、止めることはできなかった。




