第23話 不倫の証拠
十二月上旬。翠星市に吹き付ける冬の風は冷たく、街はすっかりクリスマスムードに包まれていた。
しかし、『|SunSunDiner』の店内は、季節感など微塵もない、狂気的な「3」の法則に完全に支配されていた。
「お待たせいたしました! サンサン・フレッシュバーガーの『3』セットです!」
店長の紗枝はバキバキにキマった満面の笑みを貼り付けたまま、テーブルへと歩み寄った。
テーブルにドンと置かれたのは、パティ三枚、チーズ三枚、そして無理やり三等分に切り刻まれたバンズという、異様な形をしたハンバーガーだった。
席に座っていたのは、創業当初から店に通ってくれている常連客の田中さんと、その孫のケンちゃんだ。
ケンちゃんは、目の前に置かれたグロテスクなバーガーを見て、怯えたように田中さんの袖を引いた。
「……おじいちゃん、これ、いつものバーガーじゃないよ……」
「紗枝ちゃん……これは、ちょっと……」
田中さんも困惑した表情で紗枝を見上げる。だが、彼女の顔に張り付いた笑顔は1ミリも崩れることはなかった。
「完璧な3の調和ですよ! さあ、絶対に『3口』で食べてくださいね!」
しかし、ケンちゃんは紗枝の異様な圧に押されて一口だけ無理やりかじると、ポロポロと涙をこぼし始めた。
「美味しくない……。これ、お肉は焦げてて、パンもボロボロで……。昔の、美味しかったバーガーに戻してよぉ……」
子供の純粋で残酷な声が、店内に痛々しく響いた。ケンちゃんはそれ以上ハンバーガーに手をつけることはなく、田中さんも申し訳なさそうにお札をテーブルに置いて、逃げるように店を出て行った。
「……あら? 3口、食べてくれなかったわね」
紗枝はカクンと首を傾げた。
だが、その瞬間。バキバキに見開かれた無表情の奥で、何かがチクりと彼女の胸を刺した。
彼女が健気に、それこそ命を削るようにして守り抜いてきた『SunSunDiner』の看板メニュー。そして、お客様と長い年月をかけて築き上げてきた確かな信頼。それを、他でもない彼女自身が壊している。
完璧だった「3」の世界に、ピシリと最初のヒビが入った瞬間だった。
+++
ランチタイムのピークが過ぎ、紗枝は田中さんたちが残していったテーブルを片付けていた。
手元にあるのは、一口だけかじられた無残な姿のハンバーガー。
いつもなら、「3の法則から外れた失敗作のゴミ」として、何も感じずに機械的にゴミ箱へ放り投げているはずだ。紗枝はゴミ箱のペダルを踏み、蓋を開けてそれを捨てようとした。
「……っ」
しかし、彼女の手が止まった。
ハンバーガーを持った指先が、小刻みに震えている。
(捨てなきゃ。これは、私が作った……私の失敗作……)
紗枝の脳の奥底で、完全に壊れていたはずの『料理人としての本能』が、悲鳴を上げていた。
食べ物を粗末にしたくない。お客様の笑顔を見るために、自分が身を削って作り上げた料理を、自らの手でゴミとして扱いたくない。
「ちがう……3じゃないものは、いらないの……」
紗枝は必死に自分に言い聞かせた。だが、ゴミ箱の上に突き出した腕は、まるで目に見えない太い鎖で繋がれているかのように硬直し、どうしてもそのハンバーガーを手放すことができなかった。
+++
夜。
閉店後の薄暗い店内で、紗枝は一人、カウンターの拭き掃除をしていた。
昼間のケンちゃんの悲しそうな顔と、ゴミ箱の前で動かなくなった自分の手の感覚が、どうしても頭から離れない。狂気で固められていた心が、微かに揺らいでいるのを彼女自身も感じていた。
カラン、と入り口のドアが開く音がした。
「あら、いらっしゃ……」
振り向くと、そこに立っていたのは妹の柚木七海だった。
彼女は冷徹な印象を与えるブルーライトカット眼鏡をかけ、普段の姉想いで柔らかい雰囲気とは全く違う、鋭く張り詰めた空気を纏ってズカズカと店内に入ってきた。
「お姉ちゃん!」
七海の低く静かな声に、紗枝はいつものバキバキの笑顔を作って誤魔化そうとした。
「あら、七海ちゃん。今日もお店は3の調和で完璧だったわよ。あなたの名前も三海に変えてみ……」
バサッ!!
紗枝が言い終わる前に、七海は持っていた大きな茶封筒から、大量の写真をカウンターに叩きつけた。
「……え?」
カウンターの上に散らばった写真に、紗枝の視線が強制的に釘付けになる。
そこに写っていたのは、夫の潤だった。
「これ……なに?」
「見て、お姉ちゃん。これが、あのクソ野郎の『六日間の視察』の真実よ」
七海が指差した写真には、高級旅館の玄関でパートの仲根涼子と腕を組んで歩く潤の姿があった。
次の写真には、テーマパークのオフィシャルホテルで、杉浦桃華と見つめ合いながらルームキーを持つ潤。
さらに別の写真には、温泉地の歓楽街で渋谷莉乃の腰に手を回し、ホテルへと入っていく潤の姿が、言い逃れのできないほど鮮明に捉えられていた。
「あの男は、六日間で三人の女を入れ替わり立ち替わり現地に呼び寄せて、お姉ちゃんが血反吐を吐いて稼いだお店のお金で、豪勢な不倫旅行をしてたのよ!!」
七海の怒りに満ちた声が、静まり返った店内に響き渡る。
写真の中の夫は、紗枝には見せたことのないような、だらしなくも楽しそうな笑顔を浮かべていた。女たちもまた、夫に寄り添い、優越感に浸った顔をしている。
「……さん……さんにん……」
紗枝はカクンと首を傾げ、無理やり笑顔の形を作ろうとした。
「ほら、やっぱり3人じゃない……。私がハンバーガーを焼いていれば、あの人は……あの人は社長として、私のために……」
「いい加減にしてよ!!」
七海がカウンター越しに、紗枝の肩を両手で強く掴んで揺さぶった。
ブルーライトカット眼鏡を外した瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちている。
「もう目を覚まして! お姉ちゃんがあの男に尽くせばどうにかなるなんて、ただの妄想なんだよ! あの男はお姉ちゃんのことなんて、都合のいい金づるとしか思ってない!」
「ちが……わたしは……」
「お店の張り紙も、その気持ち悪いハンバーガーも、全部やめて!!」
七海は泣きじゃくりながら、姉に向かって真っ直ぐに叫んだ。
「お姉ちゃんが作るハンバーガーは、こんな気持ち悪いものじゃない! 前は人を笑顔にする、最高の料理人だったじゃない!!」
(……最高の、料理人)
妹の言葉が、紗枝の耳の奥で鋭く反響した。
昼間にケンちゃんが残した『昔の美味しかったバーガーに戻して』という悲痛な声。
ゴミ箱に捨てられなかったハンバーガーの重み。
そして目の前に突きつけられた、夫と三人の愛人たちの、おぞましい愛人リレー旅行の決定的な証拠写真。
逃れようのない現実が、紗枝を覆い隠していた分厚い狂気の殻を粉々に砕いていく。
『夫に尽くせば、この店を守り続ければ、いつか私を見てくれる』
そんな切実な願いは、最初から存在すらしていなかったのだ。あの男の心の中には、妻への愛情も、店への責任感も、何一つない。ただ彼女を利用し、見下し、あの三人の女たちと遊び狂っていただけ。
パリンッ、と。
紗枝の脳内を覆っていた狂信的な妄想が、音を立てて強制的に打ち砕かれた。
「あ……ああ……」
紗枝の顔から、ずっと張り付いていた満面の笑みが、ズルリと剥がれ落ちた。
目の前に散らばる写真を見つめたまま、彼女は呼吸の仕方すら忘れたように立ち尽くした。
突きつけられた現実のショックが大きすぎて、感情の処理が全く追いつかない。悲しみも、怒りも湧いてこない。ただ、巨大な虚無感が足元から這い上がり、彼女の全身を冷たく凍りつかせていく。
紗枝はカウンターに手をつき、ただ呆然と、焦点の合わない目で宙を見つめることしかできなかった。




