第22話 恐怖の実食
【潤視点】
「残さず、全部食べてね?」
紗枝のバキバキにキマった満面の笑みと、その言葉の裏にある凄まじい圧力を前に、俺の喉はカラカラに乾ききっていた。
六日間のホテル食と酒で胃は完全に荒れ果てている。目の前にあるのは、パティ三枚、チーズ三枚、さらに「とんかつ・エビフライ・イカ天」という巨大な揚げ物が強引に挟み込まれた、暴力的なカロリーの塊だ。
「い、いや……紗枝、俺、今日はもうお腹が——」
俺が引きつった笑いを浮かべ、何とかこの場から逃げ出そうとしたその時だった。
紗枝の右手が、ゆっくりと動いた。
彼女は、先ほどまで食材を切り分けていた巨大な牛刀を、何でもないことのようにスッと持ち上げたのだ。
包丁の刃が、キッチンの照明を反射して鈍く光る。
紗枝はそれを握りしめたまま、1ミリも瞬きをせずに、俺の顔を至近距離からジッと見つめていた。怒りで振り上げているわけではない。ただ、包丁を持ったまま、狂気に満ちた満面の笑みを浮かべて「食べてね?」と待っているのだ。
それが余計に、底知れぬ狂気を感じさせた。ここで少しでも反抗すれば、この包丁が俺の首筋に突き立てられるかもしれない。
理屈が通じる相手ではない。俺は本能的な命の危機を感じ、ガタガタと震える両手で、その超巨大なバーガーを持ち上げた。
「い、いただきます……」
俺は恐怖で顔を引きつらせながら、顎が外れそうなほど口を大きく開け、その異形のバーガーに一口かじりついた。
——ザクリッ。
「痛っ……!」
口の中に入ってきた瞬間、それぞれの揚げ物の鋭い衣が、容赦なく上顎や歯茎に突き刺さった。
そして、咀嚼を始めた途端、俺の味覚は絶望的なパニックに陥った。
甘ったるいお好みソース、酸味の強いタルタルソース、そして舌を焼くような超激辛のチリソース。本来なら絶対に交わることのない『3種』のソースが口の中で最悪の化学反応を起こし、ドロドロの腐敗物のような味へと変わっていく。
「うっ……おえっ……」
強烈な吐き気がこみ上げるが、吐き出すことは許されない。
噛みちぎった断面からは、どす黒く混ざり合った3種のソースがドロドロと垂れ流され、真っ白なお皿を悲惨な色に染めていく。
視線を上げると、紗枝がハンバーガーの包み紙を両手でギュッと握りしめ、テーブルに身を乗り出していた。
火傷だらけの顔を俺の鼻先まで近づけ、一切の瞬きをせずに俺の咀嚼を見つめ続けている。
「美味しい? 美味しいよね? ……おいしいって言いなさい」
機械のように繰り返される、低くねっとりとした声。
俺は涙目になりながら、口の中の痛みを堪え、吐き気を無理やり胃の奥に押し込んで飲み込んだ。
「お、おいしい……最高に、おいしいよ……!」
「ああ、よかった!! 潤さんの心を取り戻さんと、あなたが好きな三種を参考に、散々酸味を計算した甲斐があったわ!」
紗枝は狂喜乱舞し、バキバキの笑顔のまま手を叩いて喜んだ。
俺はその狂態を前に、ただ黙って、拷問のようなハンバーガーを胃に詰め込み続けることしかできなかった。
+++
地獄の実食を終え、俺は逃げるように二階の寝室へと駆け込んだ。
胃薬を大量の水で流し込み、ベッドに倒れ込む。胃袋が悲鳴を上げ、全身から冷や汗が止まらない。
傲慢だった俺の自尊心は、先ほどの包丁を持った紗枝の笑顔によって粉々に打ち砕かれていた。
「なんなんだよ、あいつ……完全に頭がおかしくなってるじゃねぇか……」
これまでなら、「俺が社長だぞ!」と怒鳴りつければ、紗枝はすぐにシュンとなって従っていた。だが、今のあいつには俺の権威など一切通用しない。彼女の脳内は「3」という数字と「夫に尽くす」という歪んだ狂信で満たされ、それ以外のロジックが完全に崩壊しているのだ。
怒らせるよりも、狂っている方が遥かに恐ろしい。
俺は毛布を頭から被り、目を閉じて現実逃避しようとした。
——ガチャリ。
静かな寝室に、ドアの開く音が響いた。
ビクッとして毛布から顔を出すと、シャワーを浴び終えた紗枝が、薄暗い部屋の中に入ってきたところだった。
寝巻き姿の彼女の顔には、相変わらずあの『バキバキにキマった満面の笑み』が張り付いている。
「さ、紗枝……もう夜遅いし、俺は疲れてるから寝るぞ……」
俺が怯えながら後ずさると、紗枝はゆっくりとベッドの上に這い上がってきた。
彼女は四つん這いのまま、俺の体の上に覆いかぶさり、火傷の痕が残る冷たい手で俺の頬を撫でた。
「あなた、今日は六日間もお仕事頑張ってくれたんだもの。私、妻としてあなたをしっかり癒してあげなきゃ」
「いや、本当に大丈夫だから! 頼む、寝かせてくれ……!」
必死の拒絶も虚しく、紗枝の顔がゆっくりと俺の顔に近づいてくる。
虚ろで焦点の合わない瞳が、暗闇の中でギラギラと異様な光を放っていた。
「遠慮しないで。トリプルサンドバーガーを出した時にも言ったでしょ?」
紗枝は俺の耳元に唇を寄せ、氷のように冷たい声で囁いた。
「夜の営みも……私の愛情、ぜーんぶ『3倍』にしてあげるからね」
ヒィッ、と俺の喉の奥から情けない悲鳴が漏れた。
逃げようとする俺の両腕を、紗枝の信じられないほどの強い力が押さえつける。
紗枝が俺の心を取り戻そうと暴走する、あまりにも異様で狂気的な執着。愛人たちと過ごした甘い夜の記憶など一瞬で吹き飛び、俺の頭の中は純粋な絶望と恐怖だけで塗りつぶされていく。
こいつ……もう人間じゃない。化け物だ……!
かつて俺が「都合のいい女」と見下していた妻は、完全に俺の理解を超えた狂気のバケモノへと変貌を遂げてしまった。
怒らせるよりも不気味だという本能的な恐怖が、俺の骨の髄まで完全に支配した夜だった。




