第21話 巨大バーガー
【潤視点】
六日間にわたる「視察」という名の長期不倫旅行を終え、俺は重い出張カバンを引きずりながら、深夜の翠星市に帰り着いた。
タクシーを降り、夜風に吹かれながら見上げる自宅兼店舗の建物は、静まり返っているように見えた。
この六日間、俺は完璧なスケジュールを完遂した。最初の二泊は計算高い涼子と高級旅館で過ごし、次の二泊は甘えん坊の桃華を呼び寄せてテーマパークのホテルで甘い夜を楽しみ、最後の二泊は派手な莉乃と温泉地で豪遊した。
三人の女を現地で入れ替わり立ち替わり呼び寄せるという、まさに俺のマネジメント能力の集大成とも言える「愛人リレー旅行」だ。
「ふぅ……さすがに疲れたな」
六日連続で脂っこいホテル食や酒を詰め込み、夜は若い女たちの相手をしたのだ。アラフォーに差し掛かった俺の体力と胃袋は、とっくに限界を超え、悲鳴を上げている。胃薬を飲んでも、まだ胃の奥がムカムカと重苦しい。
しかし、肉体的な疲労を遥かに凌駕する『特大の優越感』が、俺の全身を心地よく満たしていた。
これだけ外で遊び尽くして帰っても、家には俺の帰りを健気に待つ妻がいるのだ。それも、俺の浮気を知っていながら、俺を失うのが怖くて何も言えず、ひたすらハンバーガーを焼いて俺の快適な生活を支え続けている、哀れで都合のいい妻が。
少しばかり壊れてはしまったが。
「俺は本当に、選ばれた特別な男だ。俺の人生は完璧にコントロールされている」
俺はほくそ笑みながら、玄関の鍵を開けた。
ガチャリとドアを開けて中に入ると、一階の店舗スペースはすでに営業を終えて真っ暗だった。だが、奥にある厨房の扉の隙間から、煌々と明かりが漏れ出ている。
そして、静まり返った家の中に、奇妙な音が響いていた。
ジュワァァァァッ……パチパチパチッ!
何かを大量に油で揚げている、凄まじい音だ。
「こんな時間に、なんだ……?」
時計を見なくても、すでに深夜零時を回っていることはわかっている。
怪訝に思いながら、俺は靴を脱いで一階の奥へと進んだ。厨房に近づくにつれ、油の重たい匂いと、もう一つの奇妙な音が耳に入ってきた。
ズン、チャッ、チャー。
ズン、チャッ、チャー。
一定のリズムを刻む、三拍子のワルツのメロディ。
それはリビングに置かれたCDプレイヤーからリピート再生されているBGMだった。
嫌な予感がして、ふと厨房の手前にあるリビングの壁掛け時計を見上げる。
「……ッ」
秒針が動いていない。時計の針は、またしても『3時33分』でピタリと止められていた。
六日前の、あの不気味な光景がフラッシュバックする。
俺がいない間も、この家はずっと紗枝の狂気に支配された「異界」のままだったのだ。
背筋に冷たいものが走るのを振り払い、俺は厨房の扉を少しだけ開けて中を覗き込んだ。
そこにいたのは、妻の紗枝だった。
彼女は、大型のフライヤーの前に立ち、沸騰した油の中に大量の食材を次々と放り込んでいた。
スピーカーから流れる三拍子のワルツに合わせて、彼女自身も「ふふふん、ふんふん……♪」と、ひどく単調な声で鼻歌を歌っている。
ジュワァァァッ! パンッ!
食材の水分が爆ぜ、高温の油が勢いよく飛び散った。
飛び散った熱い油の飛沫が、紗枝の無防備な腕や首筋、さらには頬にまでバチバチと直撃している。
「え……っ!」
俺は思わず声を上げそうになった。
しかし、次の瞬間、俺は自分の目を疑い、恐怖で完全に声帯が凍りついた。
紗枝は、熱した油を浴びても、ピクリとも動かなかったのだ。
普通なら「熱い!」と悲鳴を上げて飛びのくはずの状況で、彼女は一切の反応を示さない。瞬き一つせず、顔の筋肉を硬直させたまま、耳まで裂けそうなバキバキの満面の笑みを浮かべ続けている。
よく見れば、彼女の腕や顔には、先ほどから何度も油を浴びているせいで、生々しい火傷の水ぶくれがいくつもできている。それなのに、彼女自身は全く痛みを感じていないように、ただ無表情の奥に狂信的な光を宿してフライヤーを見つめているのだ。
「夫の胃袋を……もっと、しっかり掴み直さなきゃ。私が美味しいものを作れば、あの人は帰ってくるんだから……ふふっ、さん、さん……ズン、チャッ、チャー♪」
ブツブツと呪文のように唱えながら、火傷だらけの手でトングを握りしめ、無心に揚げ物を作り続ける妻。
痛覚すら麻痺し、人間としての感覚が完全に壊れてしまっている。
俺の心の中にあった「妻を見下す優越感」は、一瞬にして消え失せ、「ここで声をかけたら何をされるか分からない」という本能的な恐怖へと塗り替えられた。
後ずさりして逃げようとした、その時だった。
「あら、潤っさん。お帰りなさんい」
ピタリと鼻歌が止まり、紗枝がゆっくりとこちらを振り返った。
1ミリも瞬きをしないバキバキにキマった満面の笑みが、暗闇に隠れていた俺を正確に捉えていた。
「ひっ……!」
「ちょうどよかったわ。あなたのために、特製のご飯を作っていたのよ」
紗枝は火傷だらけの両手で、巨大な銀色のお盆を持ち上げた。
そこに乗せられていたのは、目を疑うほど巨大で、グロテスクなカロリーの塊だった。
「さあ、ダイニングに座って。今、持っていくわね」
有無を言わさぬ圧に押され、俺は操り人形のように後ずさりして、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
ドスッ、と重い音を立てて、俺の目の前のテーブルに巨大なハンバーガーが置かれた。
それは、通常のバンズの間に、分厚い肉厚のパティが『3枚』、ドロドロに溶けたチェダーチーズが『3枚』。
そして何より異様なのは、その間に、今しがた揚げられたばかりの『とんかつ』『エビフライ』『イカ天』という、全く統一感のない三種類の巨大な揚げ物が、無理やり強引に挟み込まれていたことだ。
連日のホテル食と酒で胃が荒れ果てている俺は、その暴力的な見た目と、むせ返るような油の匂いを嗅いだ瞬間、強烈な吐き気がこみ上げてきた。
「なんだよ、これ……」
引きつった声で呟く俺に対し、紗枝はテーブルを挟んで俺の真正面に立ち、顔を至近距離まで近づけてきた。
火傷の水ぶくれができた頬が、俺の鼻先数センチのところにある。
「ふふっ、すごいでしょ? あなたが大好きな揚げ物を『3つ』も挟んであげたの」
バキバキにキマった瞳のまま、紗枝はねっとりとした声で説明を始めた。
「この分厚くてジャンクなとんかつ。それから、甘ーいタルタルソースをたっぷりかけた『エビフライ』。そして、昼に揚げて冷めちゃった『イカ天』よ」
ドクンッ、と俺の心臓が嫌な音を立てた。
紗枝の言葉を聞いた瞬間、俺の脳内に三人の女の顔がフラッシュバックしたのだ。
ポテトのように軽薄な莉乃。
甘ったるいシェイクのように媚びてくる桃華。
冷めきったナゲットのように冷徹な涼子。
まるで、俺が遊んできた三人の愛人たちを、物理的な具材としてバーガーに挟み込んだような、気味の悪いメタファーを感じた。
紗枝は無意識にやっているのか、それともすべてを知った上で俺を怖がらせているのか。
「いつもお店を頑張ってくれるパートさんたちみたいでしょ? あなた、最近お疲れだから。栄養も、私の愛情も、ぜーんぶ『3倍』にしておいたからね」
紗枝は満面の笑みのまま、首をカクンと右に傾げた。
「残さず、全部食べてね?」
逃げ場のない宣告だった。
妻の完全に壊れた精神と、この場から逃げることを許さない圧倒的な『圧』。
俺の全身から冷や汗が吹き出し、「怒らせるより不気味だ」という本能的な恐怖が、俺の心を完全に支配し始めていた。




