第20話 4つ目のトマト
【大地誠也視点】
翠星市の裏通りにあるハンバーガーショップ『|SunSunDiner』。
俺は軽トラックを店の裏手に停め、助手席から朝採れの極上トマトが詰まったコンテナを下ろした。
時刻はちょうどお昼時。普段なら、店の前の駐車場は満車になり、外にまで入店待ちの客が溢れている時間帯だ。しかし今日、駐車場は半分以上空いており、待っている客の姿もなかった。
この数日、自分が納品に来るたびに客足がみるみる減っているのが、外から見ているだけでも明らかにわかった。
勝手口の重い鉄扉を開けると、油の匂いとともに、ひどく張り詰めた異様な空気が肌にまとわりついてきた。
厨房に店長である紗枝さんの姿はない。フロアの方から、異様に甲高く、そして一切の感情が籠っていない彼女の声が聞こえてきた。
「お客様! 当店のハンバーガーは、絶対に『3口』で食べてくださいね!」
俺はコンテナを持ったまま、レジカウンターの奥からそっとフロアの様子を窺った。
客席には、数組の客が戸惑った顔で座っている。紗枝さんは、若い男性客のテーブルに両手をつき、顔を極端に近づけていた。
「いや、無理ですよ。こんな分厚いハンバーガー、三口で食べ切れるわけないじゃないですか」
「それに、なんでストローが3本も刺さってるんですか? 飲みにくくて仕方ないんですけど」
男性客がクレームを入れるのも当然だった。彼の前にあるドリンクのグラスには、不自然に3本のストローが突き刺さっている。さらに、テーブルの端には『紙ナプキンのご使用は3枚まで!』という手書きの不気味なポップが貼られていた。
客の正当なクレームに対し、紗枝さんは怒るどころか、カクンと首を右に傾げた。
目の下には痛々しいほどの隈があるのに、口元は耳まで裂けそうなほどの満面の笑みを作っている。そして、1ミリも瞬きをしない虚ろでバキバキにキマった瞳で、客の目を至近距離から真っ直ぐに見据えた。
「……3口で食べないと、美味しくならないんですよぉ?」
その声はひどく低く、背筋が凍るような異様な『圧』を放っていた。
笑顔のまま、一切の瞬きをせず、じわじわと顔を近づけていく紗枝さん。その狂気に当てられた男性客は、「ひっ……」と小さく息を呑み、完全に怯えて背もたれに体を押し付けた。
「わ、わかりました……3口で、食べますってば……」
「ふふっ、ありがとうございます! 完璧な『3』の調和を楽しんでくださいね!」
無理やり客を従わせた紗枝さんは、スキップをするような足取りで厨房へと戻ってきた。
俺は慌てて視線を逸らし、コンテナを調理台の端に置いた。
「あら、誠也君! いらっしゃい!今日も『3』が美しいわね!」
「……お疲れ様です、紗枝さん」
俺は短く挨拶を返し、彼女の手元を見た。
紗枝さんは、通常メニューとは全く違う、ひしゃげた形の異様なバーガーの試作品を作っていた。バンズの焼き加減もバラバラで、肉汁の旨味を閉じ込めるという、かつて彼女が最も得意としていた繊細な技術は見る影もない。
頭の中が「3」という数字に支配され、料理人としての誇りも、お客様の笑顔を大切にする心も、すべてが見失われている。
何かをきっかけに精神が耐えきれず、限界に達しているのだろう。
相手の本質を見抜く自分の目には、狂った笑顔の奥で、職人としての彼女の魂が音を立てて崩れ落ちていくのが痛いほどにわかった。
だが、今の彼女に「大丈夫ですか」「休んだ方がいい」といった気休めの言葉や同情をかけたところで、決して届かないだろう。
自分は実直に土と向き合い、野菜を育ててきた人間だ。だからこそ、小手先の優しさではなく、彼女の根底に眠る「料理人の本能」に語りかけるしかないと思った。
「紗枝さん」
自分は静かに、だがはっきりとした声で呼びかけた。
バキバキの笑顔で振り返った彼女の目を見据え、短く告げる。
「あんたの技術だから、このトマト預けたんだ」
紗枝さんの動きが、ピクリと止まった。
虚ろな瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、かつての職人としての光が揺らいだように見えた。
俺はそれ以上何も言わず、持ってきたコンテナの中から、ひときわ赤く、張り詰めた皮を持つ一番出来の良い極上トマトを取り出した。
そして、コンテナの中に置いておけば、彼女がまた強迫観念に駆られて「3個ずつ」に仕分けてしまうだろうと考え、あえてその極上トマトを『4つ』、彼女の目の前のステンレスカウンターにそっと並べて置いた。
3の呪縛から、彼女を解き放つために。
それが、不器用だが俺なりのエールだった。
「……じゃあ、自分はこれで失礼します」
並べられた4つのトマトをじっと見つめて固まっている紗枝さんを残し、自分は背中を向けて勝手口から外へ出た。
+++
秋の冷たい風に吹かれながら、俺は重い足取りで軽トラックへと向かった。
あんな状態の紗枝さんを一人にしておくのは忍びないが、自分はあくまで一介の農家であり、彼女の家庭の問題に直接介入することはできない。
「……ん?」
軽トラックに乗り込もうとした時、路地の少し離れた場所に停まっている見慣れない乗用車が目に留まった。
運転席の窓が少しだけ開いており、中に乗っている人物の横顔が見えた。
紗枝さんの妹である、柚木七海さんだった。
七海さんは、冷徹な印象を与えるブルーライトカット眼鏡をかけ、耳にワイヤレスイヤホンを装着して誰かと鋭い口調で電話をしている。膝の上にはノートパソコンが開かれており、何やら膨大なデータを処理しているようだった。
具体的な内容は聞こえないが、何かしらの専門家と、水面下で緻密なやり取りを進めているのはその真剣な表情から明らかだった。
……動いてるんだな。
自分は小さく息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
七海さんが今、具体的にどんな計画を進めているのかはわからない。だが、彼女は頭の回転が速く、何よりもお姉さん想いの人だ。紗枝さんをあんな状態に追いやった原因を、決して許しはしないだろう。
紗枝さんは一人じゃない。
水面下で、彼女を救い出す準備が確実に進んでいるようだ。
その事実が、重く沈んでいた俺の心に、確かな安堵と希望の光を灯してくれた。
自分は七海さんの邪魔にならないよう、静かに軽トラックのエンジンをかけ、翠星市の路地を後にした。




