第19話 リレー旅行
【潤視点】
二階の自室にある高級なレザーチェアに深く腰掛け、俺は手元のスマートフォンに表示されたスケジュール帳を眺めながら、満足げに鼻で笑った。
数日前、妻の紗枝が家中の設定を「3」だらけにするという不気味な行動に出た時は、さすがの俺も少しばかり肝を冷やした。
隠していた裏帳簿を見られ、俺が三人のパート従業員全員と不倫関係にあることが完全にバレたのだ。修羅場になるかと思ったが、結果として紗枝は俺を問い詰めることすらしなかった。
彼女はただ、異常なまでに「3」という数字に執着し、感情をなくしたような満面の笑みを浮かべて、ひたすら一階の店舗でハンバーガーを焼き続けている。
「……ほんと、馬鹿な女だ」
俺は画面をスクロールさせながら、心底呆れたように呟いた。
最初は気味が悪かったが、冷静に考えれば答えは簡単だ。紗枝は、俺が浮気している事実を受け止めきれず、精神的なパニックを起こしているだけなのだ。
俺に愛想を尽かして離婚を突きつける度胸もない。自分が人生を懸けて守ってきた店は、社長である俺の経営手腕があってこそ成り立っていると思い込んでいる。だから、俺を失う恐怖から現実逃避し、「私はハンバーガーを焼いていれば幸せなの」などと暗示をかけて、俺にすがりついているというわけだ。
「やっぱりこいつは、俺に惚れてるから逆らえないんだな」
俺の心の中で、妻へのわずかな恐れは完全に消え去り、絶対的な優越感を感じていた。
妻が完全に俺の支配下にあると確信した俺は、己の「男としての魅力」と「経営能力」をいかんなく発揮し、これまで以上に大胆な計画を立てていた。
名目は「有名温泉地周辺の飲食チェーンの市場調査」。期間はなんと、五泊六日という長期の出張だ。
もちろん、ただの視察ではない。今回は俺の愛人管理能力の集大成とも言える、「愛人リレー旅行」を計画した。
最初の二泊は、大人の魅力と計算高さを持つ涼子を呼び寄せる。彼女が帰るのと入れ替わりで、次の二泊は甘えん坊で俺を立ててくれる桃華を合流させる。そして最後の二泊は、若くて派手な莉乃を呼び出し、最後まで遊び尽くす。
交通費も宿泊費も、すべて会社の経費として処理する手はずは整っている。
女たちにはお互いのスケジュールがバレないように、巧みにシフトを操作し、それぞれに「お前だけを特別に連れて行くんだ」と甘い言葉を囁いてある。俺の手のひらで、三人の女が都合よく転がされているのだ。
「俺ってやつは、本当にマネジメントのバケモノだな」
誰にも邪魔されない完璧なバカンスを想像し、俺は口角を吊り上げてほくそ笑んだ。
+++
出張当日の朝。
俺は寝室で、いつもより入念に身だしなみを整えていた。ベッドの上には、俺が愛用している高級ブランドの大きな出張カバンが開かれた状態で置かれている。
「さて、紗枝の奴、ちゃんと準備はしてるだろうな」
俺が出張に行く際、荷造りをするのは昔から妻の役目だ。
カバンの中を覗き込むと、下着や洗面用具などが綺麗にパッキングされていた。だが、一番上に置かれていたものを見て、俺は小さく鼻を鳴らした。
そこには、俺が今日着ていく予定だったお気に入りの白いワイシャツが、なぜか「3着」、寸分の狂いもなくきれいに折り畳まれて並んでいたのだ。
襟の角度、ボタンの位置、袖の折り目に至るまで、まるでコピー機で複製したかのように完璧に揃えられている。
「……相変わらず、気味が悪いことするぜ」
ため息をつきながら、俺はそのうちの一着を手に取って袖を通した。
以前なら、この異常な「3」の主張に背筋を凍らせていただろう。だが、今の俺にはこれが「妻からの屈折した愛情表現」にしか見えなかった。
俺が三人の女と旅行に行くことを知っていながら、あえて同じシャツを三着用意する。それは「あなたが誰といても、私は妻として完璧にあなたを支えます」という、敗北宣言であり、健気な服従の証なのだ。
「かわいそうな奴。まあ、帰ってきたら少しは優しくしてやるか」
俺は余裕の笑みを浮かべながらネクタイを締め、出張カバンを手に持って一階の玄関へと向かった。
玄関の土間では、店のロゴが入ったエプロン姿の紗枝が、両手を前で綺麗に重ねて立っていた。
「あなた、おはよう」
紗枝の声は、まるで自動音声のように抑揚がなかった。
彼女の顔を見て、俺は内心で顔をしかめた。目の下にはドス黒い隈がべったりと張り付き、肌は病人のように青白い。それなのに、口元だけが耳まで裂けそうなほどの満面の笑みを作っている。
バキバキに見開かれた瞳は、一切瞬きをすることなく俺の顔をジッと見つめていた。
「ああ、おはよう。じゃあ、今から六日間の視察に行ってくるからな。留守中の店は、しっかり頼んだぞ」
「ええ、もちろんよ。お店のことは私に任せて。私はね、ここでハンバーガーを焼いている時が一番幸せなんだから」
紗枝はカクンと首を右に傾げ、さらに笑顔を深めた。
その顔に張り付いた狂気は、見れば見るほど常軌を逸している。だが、俺はもう恐れなかった。俺の圧倒的な優位性を前にして、心が壊れてしまった哀れな女の姿でしかないからだ。
「そうか。お前がそう言ってくれると助かるよ。社長として、しっかり勉強してくるからな」
「いってらっしゃい、あなた」
紗枝は深くお辞儀をした。そして、顔を上げた瞬間、1ミリも動かない瞳で俺を真っ直ぐに射抜き、こう囁いた。
「道中、気をつけてね。……視察先は3か所かしら」
俺は一瞬だけ、カバンを持つ手に力が入った。
明確に『3』と口にした。彼女が推察した通り確かに3か所行く予定だ。
しかし、俺は動揺を隠して、わざとらしく明るい声で笑い飛ばした。
「ははっ、ああ、その通りだ! 勘がいいな紗枝は」
パートの出勤表でも見て俺が3人と会うと知っているのだろう。
しかしそんなことはどうでもいい。もうすでに妻は俺の浮気を容認しているのだから。俺は靴を履き、バキバキの笑顔で見送る紗枝に背を向けて、意気揚々と玄関のドアを押し開けた。
外の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、俺は駅へと向かって歩き出す。
背後で重いドアが閉まる音がしたが、振り返ることはなかった。俺の頭の中はすでに、これから始まる六日間の甘い愛人リレー旅行のことでいっぱいで、妻の精神状態などどうでもよかった。




