第3話 夫との出会い
三人のパート従業員。その全員が、夫の不倫相手だと知った。
引き出しの奥に隠されていた裏帳簿と、不自然なシフト表の完全な一致。さらに、視察とは名ばかりの不倫旅行の領収書の数々がそれを示していた。
暗いバックヤードの事務所で、私は床に崩れ落ちた。冷たいコンクリートの感触が、急速に失われていく私の体温をさらに奪っていく。
耳の奥で、心臓の嫌な鼓動がドクン、ドクンと鳴り響いている。
すべてを捧げてきた十年間が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。視界がぐにゃりと歪む中、私の脳裏に、かつて夫にかけられた甘い言葉と、これまでの軌跡が走馬灯のように駆け巡った。
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十年前。
当時二十二歳だった私は、地元の小さな小料理店で厨房の手伝いをしていた。根っからの職人気質で、料理と向き合っている時だけが心安らぐ時間だった。
恋愛にはひどく奥手で、同世代の女性たちがオシャレや合コンに精を出す中、私は一人でレシピノートにペンを走らせるような地味な日々を送っていたのだ。
そんな私を見かねた友人が、半ば強引に誘い出したのが「クッキングお見合い」というイベントだった。男女のグループで協力して料理を作り、その過程で親睦を深めるという趣向のものだ。
『紗枝、あんた料理得意なんだから絶対うまくいくって! 男の胃袋掴んじゃいなよ!』
友人の言葉に背中を押され、慣れないワンピース姿で参加した私だったが、華やかな男女の会話の輪には到底入れなかった。
結局、私が居場所を見つけたのは、やはり火口の前だった。
その日の課題料理は「本格アメリカンハンバーガー」。支給された食材を前に、他の参加者たちが戸惑う中、私は職人魂に火をつけてしまった。
小料理店で鍛え上げた見事な包丁さばきで玉ねぎをみじん切りにし、ひき肉を手早く捏ねていく。フライパンにパティを落とし、絶妙な火加減で肉汁を閉じ込めながらふっくらと焼き上げる手際は、素人のそれとは完全に一線を画していたと思う。
「へえ、すごい手際だね。もしかしてプロ?」
香ばしい匂いにつられて近づいてきたのが、当時二十五歳の潤だった。
彼は人当たりの良い笑顔を浮かべ、スマートな身のこなしで私を褒め称えた。潤は口が達者で、その場を盛り上げる才能に長けていた。私が完成させたハンバーガーを一口食べるなり、目を丸くして大げさなほどに感動してみせた。
「これ、本当にお店で出せるレベルだよ! 君みたいな才能のある女性と結婚できたら、男は一生美味しいご飯が食べられて幸せだろうな」
その甘い言葉の裏に打算的な計算が隠されていることなど、恋愛経験の乏しい私に見抜けるはずもなかった。
優しい振る舞いと、熱烈なアプローチ。奥手な私が戸惑ってためらう隙も与えないほど、潤の推しは強かった。
まるでドラマの主人公にでもなったかのような錯覚に陥った私は、彼に手を引かれるまま交際をスタートさせ、やがて結婚という道を選んでしまったのだ。
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結婚から二年後。
潤は私のハンバーガー作りの腕前を「これはビジネスになる」と確信し、私たちは夫婦でハンバーガーショップ『|SunSunDiner』を立ち上げた。
店舗の立ち上げ資金は潤と私で折半したが、実務のすべてを担ったのは私だった。メニュー開発から仕入れルートの開拓、厨房のレイアウト決め、そして日々の過酷な仕込みと調理。私は店長として、睡眠時間を削って働き続けた。
そんな創業当初、一つの大きな転機が訪れた。
翠星市の直売所で、若き農家・大地誠也君の育てるトマトに出会ったのだ。
その年は天候不順が続き、誠也君の畑では味は極上だが形がいびつな規格外トマトが大量に発生していた。市場では買い叩かれてしまうそのトマトを、私は適正な価格で大量に買い取った。
『このトマト、味が驚くほど濃い……。これなら、強いパティにも負けないはず』
私は閉店後の厨房に一人こもり、幾夜も徹夜して試作を繰り返した。トマトの強烈な旨味と酸味を最大限に活かすため、オリジナルのソースを一から作り直したのだ。
ひき肉の配合、チーズの選定、そしてソース。すべてが完璧な調和を奏でるまで、私は決して妥協しなかった。
そうして誕生したのが、後に店を大繁盛へと導く看板メニュー「サンサン・フレッシュバーガー」だった。
完成したバーガーを初めて試食した日。潤は一口かじるなり、目を見開いた。
「すごいな、紗枝! これは絶対に売れるぞ!」
私は疲れ切った顔に満面の笑みを浮かべ、安堵の息をついた。夫に喜んでもらえたことが、何よりも嬉しかった。
しかし、潤の次の言葉に、私は微かな違和感を覚えた。
「やっぱり、俺の目に狂いはなかった。あの農家からトマトを買い取るように仕向けた俺のビジネスセンスと直感のおかげだな。いやぁ、社長として完璧なディレクションだったよ」
実際にトマトを見つけ、規格外品を買い取る交渉をし、身を削ってレシピを完成させたのは私である。潤は食べて感想を言うだけで、何一つ手伝っていなかった。
それでも、私は何も言い返さなかった。
『お店が繁盛して、この人が喜んでくれるなら、それでいい』
そう自分に言い聞かせ、夫を立てることに徹したのだ。
私の献身的な努力と、看板メニューの爆発的なヒットにより、店は瞬く間に人気店となった。
しかし、その成功が、潤の傲慢さに拍車をかけることになってしまった。
「俺の経営戦略が当たったんだ。俺は社長なんだから、細かい現場の作業はお前がやっておけ」
そう豪語するようになった潤は、次第に店に顔を出さなくなり、自由気ままに振る舞うようになった。
そして、店が忙しさを極め始めた創業三年目。人手不足を解消するため、アルバイト・パートの募集をかけた時のことだった。
面接はすべて「社長である俺の仕事だ」と潤が取り仕切った。
応募者は多数いた。中には飲食業の経験が豊富なベテランや、真面目で即戦力になりそうな学生もいた。しかし、潤が合格を出したのは、履歴書の経歴など一切無視した、いびつな基準によるものだった。
潤は面接の席で、ミニスカートを履いた女性や、胸元の開いた肌の露出の多い若い女性が来るたびに、ねっとりとした下心丸出しの視線を這わせていた。
「君、可愛いね。ウチの制服、似合うと思うよ」
実務能力など二の次で採用を決めていったのだ。そうして最初に採用されたのが、当時若かった仲根涼子であり、その後も同じような基準で杉浦桃華、渋谷莉乃と採用が続いていった。
私は「もっと経験のある人を……」と進言したが、潤は「俺の経営者としての直感だ。愛嬌のある女を置いた方が客が喜ぶんだよ」と聞く耳を持たなかった。
当時からすでに、潤の頭の中には店のことなどなく、自身の欲求を満たすことしかなかったのだ。
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現在。
バックヤードの冷たい床の上で、私はただ呆然と、手の中の裏帳簿を見つめていた。
『君みたいな才能のある女性と結婚できたら、男は一生幸せだろうな』
出会った日の、あの甘い言葉が脳内で不気味に反響する。
あの言葉の真意。それは「一生、私から金と労働力を搾取できる」という意味だったのだ。
自分の十年間の血の滲むような努力は、すべて、あの三人の女たちと夫が、高級ホテルやテーマパークで遊び狂うための資金として使われていた。
「あ……あはは……」
乾いた笑い声が、私の喉の奥から漏れた。
悲しみでも、怒りでもない。理解の範疇を超えた絶望の濁流が、私の精神のヒューズを強制的に焼き切っていく。
考えるな。これ以上事実に向き合えば、私は完全に壊れてしまう。
そうだ、私はハンバーガーを焼こう。
私が厨房に立って、誰よりも美味しいものを焼き続けていれば、夫はきっと私を見てくれる。あの女たちじゃなくて、私の作ったものを食べて、笑って戻ってきてくれるはずだ。
虚空を見つめる私の目から光が消え、代わりに底なしの暗い執念が宿っていくのがわかった。
このどろどろとした黒い感情を、ハンバーガーと一緒に全部、鉄板の上で焼き尽くしてしまえばいいのだから。




