第2話 不倫の発覚
「ちょっと、これオーダー間違ってるわよ!」
お客様の苛立った怒声が店内に響き渡った。
私が慌てて厨房からフロアに出ると、パート従業員の杉浦桃華(二十四歳)が「だってぇ、お客様がそう言ったからぁ……」と大粒の涙をこぼして泣き喚いていた。
「申し訳ございません、すぐにお作り直します!」
私は深く頭を下げてお客様に謝罪し、泣きじゃくる杉浦さんをバックヤードに下げさせた。
「きゃは、桃華ちゃん泣いてばっかり。マジでウケる」
カウンターの死角では、渋谷莉乃(二十二歳)がスマートフォンの画面をスクロールさせながら、SNSを操作して薄笑いを浮かべている。
さらにレジの方では、仲根涼子(二十八歳)が「あれ、お釣り合わないですね。まあいっか、サービスです」と平然と計算ミスを放置し、お客様を困惑させていた。
私は深いため息を飲み込み、三人の尻拭いに奔走した。
夫である波瀬海潤(三十五歳)が「俺の経営者としての直感で選んだ」と豪語して面接で採用したパート従業員たちだけれど、控えめに言っても全く戦力にならない。むしろ彼女たちが店にいるほうが、常にトラブルに気を配り、クレーム処理に追われるため、完全なワンオペレーションよりもはるかに過酷な状況だった。
+++
「あなた、彼女たち、いくら何でも仕事への姿勢が……。お客様にも迷惑がかかるし、解雇も視野に入れて話し合えないかしら」
夜、クタクタになって店を閉めた後、私は何度か夫に相談した。しかし潤は「お前の指導不足だろ。俺が見込んだ人材なんだから、教え方に問題があるんじゃないか?」と、かたくなに拒否するばかりだった。
あまりに忙しい日は、フリーランスで働く妹の柚木七海が手伝いに来てくれるけれど、彼女がいない日の営業はまさに戦場そのものだった。
そんな私の疲労と苦労をよそに、社長である潤は「他店の研究視察」と称して、頻繁に地方へ出かけていた。
+++
数日後。店がオープンする前の仕込みの時間帯のこと。
潤は、一目で高級ブランドとわかる出張カバンを手に、得意げな顔で勝手口の前に立っていた。
「じゃあ、三泊四日で九州のバーガーショップを視察してくるから」
「……ええ。気をつけてね」
徹夜で仕込みを終え、目の下にうっすらと隈を作った私が疲れた顔で見送ると、潤は鼻で笑うように口角を上げた。
「社長の俺が外で新しいアイデアを吸収してくるから、この店が回ってることを忘れるな。俺の頭脳労働に比べれば、お前の仕事なんて単純作業の繰り返しだろ。せいぜい、ここでしっかり留守番頼むぞ」
恩着せがましく傲慢に言い放つと、潤は私を労う言葉一つかけることなく、颯爽と出かけていった。私はただ黙って、その頼もしいはずの背中を見送るしかなかった。
+++
十月。すっかり秋の冷たい風が吹き始めたある日の午後。
夫がまた別の地方視察へと出かけている間、私はバックヤードの狭い事務所で、溜まっていた事務作業を片付けていた。
来月のシフト表を作成するため、過去の出勤記録が綴られたファイルをめくっていた時のことだ。ふと、机の引き出しの奥に、見慣れない黒いファイルが隠すようにしまわれているのを見つけた。
(これって、あの人がいじっていた経理のファイル……?)
何気なく開いたそこには、私が把握している正規の帳簿とは別の、裏の計算がびっしりと記録されていた。交通費や接待交際費を不自然に水増しし、会社の経費として横領するためのごまかしの記録だった。
「ひどい……お店の利益をこんな風に……」
ショックを受けながらも、私の目は無意識にその「出張日」の記録と、手元にあったパート従業員の「シフト表」を交互になぞっていた。
「……え?」
私は指先をピタリと止めた。
「夫の北海道視察の三日間……どうして、渋谷さんが連続で休んでいるの?」
嫌な汗がじわりと背中を伝った。急いでページをめくり、過去の記録を照らし合わせた。
「先月の大阪出張の日は、仲根さんがお休み……。その前の福岡出張の時は、杉浦さんが連休をとって……」
最初は偶然かと思った。しかし、過去一年分の記録を遡ると、そこには背筋が凍るような「完璧な法則」が存在していた。夫の出張日には、必ずパートの誰か一人が不自然に休んでいるのだ。
震える手で黒いファイルを探ると、後ろのポケットから何枚かの領収書の束がバサリと床にこぼれ落ちた。
一人で視察出張に行っているはずなのに、そこにあったのは『テーマパークのペアチケット』『高級ブランドバッグ(女性モノ)』、そして『夜景の綺麗な高級フレンチ(二名分)』という、視察とは無縁の領収書ばかりだった。
誰かと一緒に行っていた。ただの視察ではない。夫はパートの女性を代わる代わる連れ出し、会社の経費で不倫旅行を繰り返していたのだ。
「渋谷さん……仲根さん……杉浦さん……」
私の震える唇から、力なく三人の名前がこぼれ落ちた。
いつも店でスマホをいじっていた渋谷莉乃。
常習的にレジのミスを誤魔化す仲根涼子。
すぐに泣き喚いて被害者ぶる杉浦桃華。
まったく仕事ができない彼女たちを、夫がかたくなに庇い、解雇を拒否し続けていた本当の理由。
「三人……。あの三人、全員が……?」
三人のパート従業員。その全員が、夫の不倫相手だと?
その事実に行き着いた瞬間、『3』という数字が、呪いのように私の脳髄に深く、鋭く突き刺さった。一人の浮気ではない。私が日々必死に尻拭いをし、苦労を共にしてきたはずの職場の女性たち三人が、交替で夫と関係を持ち、あざ笑うように旅行を楽しんでいた。
ドクン、と心臓がひどく不快な音を立てて跳ねた。
一気に血の気が引き、指先から急速に体温が奪われていくのがわかる。
視界がぐにゃりと歪み、事務所の景色が回転しているような感覚に襲われた。
これまで健気に店を守り、夫を信じてすべてを捧げてきた私の世界が、足元から音を立てて崩壊していく。
絶望の底で、私の心の中に、決して開けてはならない狂気の扉がゆっくりと開き始めたのがわかった。




