第16話 驚愕する妹
【柚木七海視点】(紗枝の妹)
大きなWebデザインのコンペ案件が無事に終わり、納品を済ませた私は、パソコンの画面から目を離して大きく伸びをした。
フリーランスのWebデザイナー兼PRディレクターとして独立してから数年。自分のペースで仕事ができるのは性にあっているが、今回ばかりはタイトなスケジュールで連日徹夜が続いていた。
「よし、ひと段落……っと」
疲労で凝り固まった首を回しながら、私はスマートフォンを手に取った。
画面を開くと、家族のトーク履歴には私から送ったスタンプばかりが並び、姉である波瀬海紗枝からの返信はここ数週間、パタリと途絶えている。
「お姉ちゃん、また無理してるんじゃないかな……」
姉は昔から、何かにのめり込むと周りが見えなくなるほどの実直な努力家だ。自分の身を削ってでも、他人のために尽くしてしまう危うさがある。
姉が実質的に一人で切り盛りしている翠星市のハンバーガーショップ『|SunSunDiner』は連日大繁盛だと聞いている。しかし、社長である義兄の潤は「視察」と称してフラフラと遊び歩き、雇ったパート従業員も使えない者ばかりだという噂は私の耳にも入っていた。
「久しぶりに、ちょっと手伝いに行こうかな」
私は気分転換も兼ねて、軽くメイクを直すと、機能性とトレンドを意識したスマートカジュアルな服装でマンションを出た。
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秋の冷たい風が吹き抜ける幹線道路から一本裏通りに入ると、見慣れたアメリカンレトロな外観の店舗が見えてきた。
平日の午後だというのに、店の前には数人の客が並んでいる。相変わらずの人気ぶりに少しホッとしながら近づいた私の足は、入り口のドアの前でピタリと止まった。
「……何、これ」
店の外壁に設置されたメニューボード。そこに、不自然なほど大量のシールがベタベタと貼られていた。
本来なら「オススメ!」と書かれるべき場所に、蛍光色のマジックで乱暴に『3』とだけ書かれた丸いシールが、まるで増殖するカビのようにメニューの余白を埋め尽くしている。
さらに、入り口のガラス扉の取っ手にも、『開けるときは3秒かけて!』という不可解な手書きのポップがガムテープで無造作に貼り付けられていた。
嫌な予感がして、私は急いでドアを押し開けた。
カウベルの音が鳴り響く店内に入った瞬間、私は息を呑んだ。
外の看板なんて序の口だった。店内の壁、テーブルの端、レジ周りのアクリル板……視界に入るすべての場所に、黄色やピンクの画用紙で作られた『3』にまつわるポップが狂ったように貼り巡らされていた。
『お水のおかわりは3回まで!』
『ケチャップは3プッシュ!』
『紙ナプキンは3枚まで!』
まるで見えない何かに脅迫されているかのような、異常な空間。
フロアにいる客たちも、この異様な雰囲気に当てられたのか、どこか居心地の悪そうな顔でハンバーガーを口に運んでいる。
「お姉ちゃん……?」
私は足早にレジ横を通り抜け、厨房を覗き込んだ。
そこに、姉の紗枝がいた。
鉄板の前に立ち、ジュージューと肉を焼いているその背中は、見慣れた姉のものだった。しかし、横顔を見た瞬間、私の全身からサァッと血の気が引いた。
「……三個……三個で、完璧な調和……さん、さん……」
姉の目の下には、遠目からでもわかるほどドス黒い隈が刻まれている。肌は土気色で、今にも倒れそうなほどやつれていた。
なのに、その口元だけが、耳まで裂けそうなほどの満面の笑みを作っているのだ。
目はカッと見開かれたまま、1ミリも瞬きをしていない。焦点の合わないバキバキにキマった瞳で、手元にあるトマトを「3個」ずつ、等間隔に並べるという謎の作業を狂ったように繰り返している。
「お姉ちゃんっ!」
私はたまらず厨房に足を踏み入れ、姉の肩を掴んだ。
ビクッ、と姉の体が跳ね、ゆっくりとこちらを振り返った。
「あら……七海ちゃん」
その声は、ひどく掠れていて、まるで別人のようだった。
姉は私を認識すると、その不気味な満面の笑みをさらに深めた。
「いらっしゃい、七海ちゃん。今日もお店は『3』の調和で完璧よ! 七海ちゃんも、ハンバーガー『3個』食べる? もちろん、お肉もチーズも『3枚』ずつ挟んであげるからね!」
「お姉ちゃん、何言ってるの……? どうしちゃったの、このお店の張り紙……それに、その顔色……!」
私が必死に問いかけても、姉の瞳には私の言葉が届いていないようだった。
彼女は私の質問を完全に無視して、油まみれの手で虚空をなぞるように指を動かした。
「すべては3よ。3があれば、私はハンバーガーを焼いていられるの。私がここでハンバーガーを焼いていれば、あの人は……あの人は、社長としてお仕事をしてくれるんだから。ね? そうでしょ?」
抑揚のない、機械のような声。
限界まで張り詰めていた精神の糸がプツリと切れ、なぜか「3」という数字に異常なまでに執着し「ハンバーガーを焼く」という行為に完全に依存して、現実から逃避しているようにしか見えない。
お姉ちゃんが、壊れてる。
私は奥歯を強く噛み締めた。
悲しみが胸を締め付けると同時に、私の脳裏に、忘れられない過去の光景が鮮明に蘇ってきた。




