第14話 狂気の店内
【渋谷莉乃視点】
シフトの五分前に『|SunSunDiner』の裏口のドアを開けた瞬間、僕は思わず「は?」と素っ頓狂な声を漏らして立ち尽くした。
店内が、なんかもう、凄くヤバいことになっていた。
アメリカンレトロで統一されていたはずのお洒落な内装が、『3』とだけ書かれた意味不明な手作りポップで埋め尽くされているのだ。
壁という壁、メニュー表の余白、レジ周りのアクリル板にまで、蛍光ピンクや黄色の画用紙で作られたポップが、隙間なくベタベタと貼り付けられている。
『チーズは3枚がおすすめ!』
『ポテトの長さは3センチ!』
『お水のおかわりは3回まで!』
どれもこれも、異常なまでに『3』という数字が強調されている。文字の太さも尋常じゃなく、マジックペンで何度も何度もなぞられた跡があって、紙が少し破れかけているものすらあった。
「うわ、何これ……マジでホラーじゃん。ウケる」
僕は呆れるのを通り越して、すぐに制服のポケットからスマートフォンを取り出した。カメラアプリを起動し、この異様な店内をカシャカシャと何枚も連写する。
被写体としては最高に「バエる」狂気だ。裏垢に上げたら絶対バズるやつだ。
でもその前に、まずは一番のパトロンに報告しておかないとね。
僕はトークアプリを開き、出張という名の不倫旅行から帰ったばかりの社長、波瀬海潤の個人LINEに隠し撮りした写真を送りつけた。
『社長ぉ〜、おはようございますっ! 見てくださいよこれ、お店が大変なことになってますぅ(泣)』
『店長、完全に頭おかしくなっちゃったみたいでマジ怖いですぅ。僕、こんなところで働けないかも……早く社長帰ってきて癒してぇ♡』
甘えたスタンプを連打して送信すると、数秒も経たないうちに『既読』がつき、すぐに返信が返ってきた。
『うわ、マジか。あいつ、俺がいないからって勝手に店のレイアウト変えやがって。やっぱり俺がしっかりディレクションしてやらないと、あの女はダメだな』
『莉乃ちゃん、怖かったね。俺が帰ったらしっかりお仕置きしておくから。お詫びに、来週は莉乃ちゃんの好きなテーマパークのオフィシャルホテル予約してやるよ』
「……っは、チョロすぎでしょ」
僕はスマホの画面を見つめながら、こらえきれずに吹き出した。
社長の潤は、あのヒステリックな店長が狂っていることなどどうでみいいらしい。むしろ、「自分がいないと店が回らない」という傲慢な勘違いをさらに深めて、僕の機嫌を取るために次の旅行の約束まで取り付けてきた。
奥さんがこんな狂った状態なのに、愛人と遊びに行くことしか頭にないなんて、ほんとウケる。でもまあ、僕としてはタダで最高級ホテルに泊まれるんだから、別にどうでもいいけど。
『わぁい!社長だーい好き!楽しみにしてますねっ♡』
愛想のいい返信を済ませてスマホをしまうと、厨房の奥から「トントン、トントン」という規則的な包丁の音が聞こえてきた。
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恐る恐るバックヤードを抜け、厨房を覗き込む。
そこにいたのは、店長の紗枝だった。
いつものように店のロゴが入ったエプロンをつけているけれど、その姿は明らかに異常だ。
ステンレスの調理台の前で、彼女はピタリと動きを止めている。手元には、フライヤーから揚がったばかりのフライドポテトがあった。
店長は、自分の左の手のひらの上に、火傷しそうなほど熱いはずのポテトを「3本」、等間隔に、ミリ単位のズレも許さないような慎重さで綺麗に並べていた。
「……さん、さん……」
蚊の鳴くような声で呟きながら、店長はその3本のポテトをジッと見つめている。
目の下には真っ黒な隈ができているのに、口角だけが耳まで裂けそうなほど不自然に吊り上がっていた。1ミリも瞬きをしない、バキバキにキマった瞳。
まるで、感情のスイッチが完全にぶっ壊れたロボットみたいだ。
次の瞬間、店長は手のひらに乗せた3本のポテトを、一気に口の中に放り込んだ。
モグモグと咀嚼しながら、彼女の満面の笑みはさらに深まる。
「……うんっ、完璧な『3』の味ね!」
意味不明なことを呟きながら、今度は傍らに置かれたトマトが入ったコンテナに手を伸ばした。
「これも、3個……3個じゃなきゃダメなの! 3個、3個……!」
店長はブツブツと呪文のように唱えながら、コンテナの中のトマトを狂ったように3個ずつ仕分け始めた。
普通の人間なら、大きさを揃えたり傷みがないかを確認したりするはずなのに、彼女の基準はただ一つ、『3個のグループを作る』ことだけだった。少しでも形の違うトマトが混ざると、「違う!これは3じゃない!」と叫んで乱暴にゴミ箱に投げ捨てる。
あーあ、社長が「原価高いから大事に使えよ」って言ってたあの高級トマト、めっちゃ無駄にしてるじゃん。
「お、おはようございまーす……」
僕がわざとらしく間の抜けた声で挨拶をして厨房に入ると、店長はビクッと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。
いつもなら、僕が少しでも遅刻スレスレで来たり、スマホをいじっていたりすると、眉間に皺を寄せてネチネチとお説教をしてくるはずだ。
だから僕は、適当に聞き流すための言い訳を頭の中で準備していた。
しかし、店長は怒るどころか、そのバキバキにキマった満面の笑みを僕に向けたまま、信じられないほど優しい声で話しかけてきた。
「あら、莉乃ちゃん! おはよう! 今日も出勤してくれてありがとうねぇ!」
「……え?」
「ねえねえ、莉乃ちゃん。今日からね、お店のルールを少し変えることにしたの」
店長は僕のそばに歩み寄り、油とトマトの果汁で汚れた両手で、僕の肩をガシッと掴んだ。
ひっ、と声が出そうになるのを必死に堪える。至近距離で見つめてくるその瞳の奥には、正気なんてこれっぽっちも残っていない。
「莉乃ちゃんの休憩時間はね、『3回』よ。それから、今日のまかないは特別に『3人前』作ってあげるからね! いっぱい食べて、元気に働いてね!」
「……は、はい?」
僕は完全にフリーズしてしまった。
休憩時間が3回?まかないが3人前?
意味がわからない。普通に考えて、飲食店のピーク時にパートに3回も休憩を与えたら店が回らなくなるし、細身の僕がハンバーガーを3人前も食べられるわけがない。
けれど、店長のその異様なまでの圧力と、狂気に満ちた笑顔を前にして、僕は「いや、無理っす」とツッコミを入れることすらできなかった。
「ふふっ、よかった! 莉乃ちゃんも『3』が好きなのね! じゃあ、涼子ちゃんと桃華ちゃんにも教えてあげなくちゃ!」
店長は嬉しそうにスキップでもしそうな足取りで、再びトマトの仕分け作業に戻っていった。
「3個……3個……ふふふっ、みんなで3よ……」
その後ろ姿を見つめながら、僕はゆっくりと肩の力を抜いた。
恐怖はすでに消え失せ、代わりに腹の底からこみ上げてくるのは、強烈な嘲笑だった。
ヤバ……このババア、マジで完全にイカれてるじゃん。
自分が裏切られていることにも気づかず、こんな奇行に走るなんて。
こんな頭の狂った女が必死に働いて稼いだお金で、僕たちは社長と優雅に不倫旅行を楽しんでいるのだ。
そう考えると、なんだか優越感でゾクゾクしてきた。
「はいはーい、店長ぉ。3回休憩、しっかりもらいまぁす」
僕は口元を歪めてニヤリと笑うと、背中を向けて狂ったようにトマトを並べ続ける店長に向けて、音の出ないカメラアプリでもう一枚、その滑稽な姿を激写した。




