第13話 三人の愛人
【潤視点】
その日、俺は夜遅くまで自宅に帰らなかった。
取引先との会食という名目で時間を潰し、適当なバーで酒を飲んでから、紗枝が確実に眠っているであろう深夜零時過ぎを狙って玄関のドアを開けた。
朝の不気味な出来事——三着のシャツ、三つの朝食、三足の靴、そして紗枝のあの異常な笑顔が、どうしても脳裏にこびりついて離れなかったからだ。
一階の店舗は完全に電気も落ち、静まり返っている。
抜き足差し足で二階の居住スペースへと上がり、真っ暗な廊下を抜けてリビングのドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
ドアを押し開けた瞬間、俺は思わず「うおっ」と声を漏らし、顔をしかめた。
モワッとした、異常な熱気が全身にまとわりついてきたのだ。まるで真夏のビニールハウスの中にでも足を踏み入れたかのような、息苦しいほどの暖気。
秋の夜長で外は肌寒いくらいだというのに、リビングの中だけが異次元のように蒸し暑い。
「なんだこれ……暖房つけっぱなしにして寝やがったのか、あいつ……」
俺は汗ばむ額を手の甲で拭いながら、壁に取り付けられたエアコンのリモコンを手に取った。
暗闇の中で、リモコンの液晶画面だけが緑色に発光している。
そこに表示されていた数字を見て、俺は息を呑んだ。
冷え切った俺の指先が震える。
暖房の設定温度が、上限ギリギリの『33度』になっていたのだ。
「……ッ!」
まただ。また『3』だ。
偶然なんかじゃない。紗枝の奴、意図的にこの数字を設定したんだ。俺が帰ってきて、この息苦しい熱気の中でリモコンの数字を見ることを完全に予測して。
「くそっ、ふざけやがって……!」
俺は苛立ちに任せて設定温度を乱暴に下げ、冷房に切り替えた。
まとわりつく不気味な空気を振り払うように、ソファにドカッと腰を下ろす。静寂が、かえって俺の恐怖心を煽ってくる。気を紛らわせたくて、俺はテーブルの上のテレビリモコンをひったくり、電源ボタンを強く押し込んだ。
ブォン、と液晶画面が明るくなった次の瞬間。
『——さあ、今すぐお電話を!!』
「うわあああっ!?」
深夜の静まり返ったリビングに、鼓膜が破れそうなほどの凄まじい大音量が鳴り響いた。テレビショッピングのハイテンションな音声が、爆音となって部屋中をビリビリと震わせる。
俺は心臓が飛び出そうになりながら、慌ててリモコンの音量ダウンボタンを狂ったように連打した。
近所迷惑だ、警察を呼ばれるかもしれない。
パニックになりながら画面の端に表示された音量インジケーターに目をやった俺は、全身の血が凍りつくのを感じた。
テレビの音量設定が『33』になっていた。
普段なら「10」か「12」程度で十分なはずの音量が、わざわざ人為的に『33』まで引き上げられていたのだ。
テレビの電源を入れた瞬間に、俺がこの数字を見るように仕組まれていた。
「はぁ……はぁ……っ」
テレビの音を消しても、俺の荒い息遣いだけが部屋に響き渡る。
紗枝の奴、頭がおかしくなったんじゃない。俺を怯えさせるために、家中に罠を仕掛けているんだ。不気味なメッセージが、完全に俺のテリトリーを侵食し始めている。
嫌な汗が止まらない。喉がカラカラだ。
早く寝室に逃げ込もう。そう思って立ち上がりかけた時、ふと、リビングの壁に掛けられた大きなアナログ時計が目に入った。
秒針が、動いていない。
嫌な予感がして、俺はふらつく足取りで時計に近づいた。
カチカチという音はしない。電池が切れているわけではない。時計を裏返すと、意図的に電池が引っこ抜かれていた。
表に返して、針の先を見る。
短い針は「3」を少し過ぎた位置。長い針は「6」の少し下。
時計の針は、なぜか『3時33分』でピタリと止められていた。
「ひっ……!」
俺は時計を床に落としそうになり、慌てて壁に戻した。
狂ってる。異常だ。
33度のエアコン。33の音量。3時33分の時計。
家の中が『3』という数字で埋め尽くされている。まるで、見えない紗枝の無数の目が、暗闇の中から俺を監視し、笑いかけているようだ。
「くそっ、くそっ……こんなことでビビるかよ……!」
俺は震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
正常な人間の声が聞きたかった。俺を甘やかして、立ててくれる女の声が。
俺は震える指で、愛人の一人である涼子に電話をかけた。
『……もしもし? 社長? こんな夜中にどうしたの?』
数回のコールの後、涼子の少し不機嫌そうな、しかし現実感のある冷ややかな声が鼓膜を打った。
その声を聞いた瞬間、俺はすがりつくように早口でまくし立てた。
「涼子ちゃんか! ああ、ごめん、夜分に……。いや、聞いてくれよ。うちの嫁がどうもおかしいんだ。家中の設定を『3』だらけにしやがって、ほんと頭狂ってるとしか思えない! あいつ、絶対にどうかしちゃってるよ——」
『はぁ? 何それ、馬鹿みたい。奥さんの奇行なんて私にはどうでもいいんですけど』
涼子はあっさりと俺の言葉を遮り、欠伸交じりに鼻で笑った。
『社長の家庭の事情なんてどうでもいいわ。それより、来週の出張の話だけど』
「え……あ、ああ、出張な。もちろん、予定通り行くよ」
『そう。で、どうするの?来週は、私たち【三人】の中で、誰の出番?』
ピタリ、と。
俺の心臓が、一瞬だけ完全に停止した。
『もしもし? 社長? 聞いてる? 私と、莉乃と、桃華。三人のうち、誰を連れて行くのって聞いてるんだけど』
涼子の声が、遠くの方で反響しているように聞こえた。
三人。
三人のうち、誰。
その瞬間、俺の脳内で、バラバラだったパズルのピースがグロテスクな音を立てて一つに組み合わさった。
三着のシャツ。三足の靴。三個の朝食。
33度の熱気。33の爆音。3時33分の静寂。
そして——三人の愛人。
紗枝は、ただのヒステリーで狂ったわけではない。
俺が一番隠しておきたい罪の数、俺が裏切った女の数、俺の傲慢さの象徴である【3】という数字を使って、俺の精神を真綿で首を絞めるようにジワジワと追い詰めているのだ。
「あ……ああ……」
俺は声にならないうめき声を漏らした。
舐めてかかっていた妻の底知れぬ狂気が、巨大な黒い影となって俺を飲み込もうとしている。
俺の心理に、決定的なヒビが入った瞬間だった。
手から力が抜け、スマートフォンが滑り落ちる。
ガチャンッ!という無機質な音がリビングに響き渡り、液晶画面にクモの巣のようなヒビが入った。
画面の向こうから「もしもし?ちょっと!」という涼子の声が微かに漏れ聞こえているが、俺はもうそれを拾い上げることもできず、33度の異常な熱気の中で、ただガタガタと震えることしかできなかった。




