第11話 焦る社長
【潤視点】
二泊三日の静岡出張(という名の不倫旅行)から自宅へと戻ってきた俺は、一階の店舗から漂う肉の焼ける匂いを嗅ぎながら、足早に二階の居住スペースへと上がった。
一階はランチタイムのピークで戦場のような忙しさだったが、社長である俺が手伝う義理はない。俺はそのまま奥の事務所スペースに入り、今回の旅行で使った領収書を「視察経費」として紛れ込ませるため、デスクの引き出しを開けた。
「……え?」
一番奥に隠しておいた黒いファイル(裏帳簿)に手を伸ばした瞬間、俺の背筋に氷のような冷や汗が流れた。
ファイルが、上下逆にしまわれている。
俺は几帳面な性格ではないが、ファイルの背表紙の向きを間違えることなどあり得ない。慌てて中を開くと、さらに血の気が引いた。先月のテーマパークのペアチケットや、女性用ブランド品の領収書が、本来挟んであるべきページとは違う場所に無造作に挟まっていた。
さらに、パート連中のシフト表をまとめたファイルも、不自然に近くに置かれている。
「見られた……?」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。顔面から一気に血の気が引き、呼吸が浅くなるのがわかる。
間違いない。紗枝の奴、俺の留守中にこのファイルを見たんだ。パート全員と不倫して、会社の金で旅行していることが完全にバレた。
終わった。
もし離婚だの慰謝料だのと騒がれたら、俺のこの快適な社長生活がすべてパーになる。あいつが店を出て行ったら、誰があの過酷なワンオペを回すんだ。俺が厨房に立つなんて絶対に御免だ。
「くそっ……どうやって言い訳する……」
頭を抱えて震えていると、リビングの方からパタパタと足音が聞こえ、紗枝が入ってきた。
俺はビクッと肩を震わせ、修羅場を覚悟して身構えた。
「あっ、あなた、おかえりなさい。お仕事、お疲れさんま」
だが、紗枝は泣き叫びもせず、ヒステリーを起こすわけでもなく、ただ静かに俺の出張カバンを手に取った。
ただ、口調とその表情はどこか異様だった。目の下にはくっきりとドス黒い隈ができているのに、口角だけが不自然に吊り上がり、目がバキバキに見開かれている。
「あ、ああ……ただいま。今帰ったよ」
俺がしどろもどろに答えると、紗枝は荷解きをするためにカバンのファスナーを開けた。そして、内ポケットに手を入れた瞬間、彼女の手がピタリと止まった。
紗枝が引きずり出したのは、見覚えのないピンク色の派手なキャラクターキーホルダーだった。
俺は息を呑んだ。桃華の奴め、俺に内緒でカバンにこんな「匂わせ」の罠を仕込んでいやがったのか。
「あ、いや、それは! たまたま現地の視察先でもらった粗品で……!」
俺が慌てて言い訳をしようとしたが、紗枝はこちらを見向きもしなかった。
彼女は、そのメルヘンチックなキーホルダーを両手で包み込むように持ち、ジッと見つめている。やがて、ピクピクと頬の筋肉を引きつらせながら、底知れぬ狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「……かわいい……」
蚊の鳴くような、掠れた声だった。
「……いち……一個だけ……」
紗枝はキーホルダーをリビングのテーブルに置くと、なぜかその位置を指先でミリ単位で調整し始めた。何度も何度も角度を変え、完全に真っ直ぐになるまで異常な執着を見せている。
俺は言葉を失い、その不気味な姿をただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。
「紗枝……お前、怒ってないのか……?」
恐る恐る尋ねる俺に、紗枝はゆっくりと首を向けた。1ミリも瞬きをしない虚ろな瞳が、俺を真っ直ぐに射抜く。
「怒る? どうして私が怒るの?」
紗枝は、カクンと首を傾げた。
「あなたは社長として、一生懸命お仕事をしてくれているのに。私ね、気づいたの。私はこうやって、毎日お店の鉄板の前に立って、ハンバーガーを焼いている時が一番幸せなのよ。お肉を焼いて、野菜を挟んで……。私がハンバーガーを焼いていれば、すべては上手く回るんだから。ね? そうでしょ?」
抑揚のない声で、紗枝は自分に言い聞かせるように笑った。
その瞬間、俺の中で張り詰めていた恐怖の糸が緩んだ。
なんだ、そういうことか。
紗枝が怒っているのでは、という最初の困惑は、瞬く間に安堵へと変わり、そして圧倒的な優越感へと形を変えた。
俺は心の中で盛大に鼻で笑った。
こいつ、裏帳簿を見て不倫に気づいたくせに、俺を失うのが怖くて現実逃避してるんだ。自分にはハンバーガーを焼くことしか価値がないと思い込んで、俺の浮気を見て見ぬふりをするつもりらしい。
「ああ、そうだな。お前は職人なんだから、余計なことは考えずにハンバーガーを焼いてるのが一番幸せなんだよ」
俺はさっきまでの怯えを完全に忘れ、尊大な態度で胸を張った。
「店の難しい経営とか、そういうのは全部社長である俺がやってやるから。お前は俺の指示通りに、厨房で好きなだけ肉を焼いてればいいさ。俺はお前のその『幸せ』を守ってやってるんだからな」
「ええ……ありがとう、あなた。私、いっぱい焼くわね」
紗枝はバキバキの笑顔を浮かべたまま深くお辞儀をし、フラフラとした足取りで再び一階の店舗へと降りていった。
バタン、と扉が閉まる音を聞いて、俺はソファにドカッと腰を下ろした。
笑いが止まらなかった。やっぱりこいつは、俺に惚れ弱っていて絶対に逆らえないんだ。浮気がバレても何も言ってこないなんて、最高に都合のいい女じゃないか。
「さてと……」
俺は完全に安堵してポケットからスマートフォンを取り出し、愛人の一人である莉乃とのトーク画面を開いた。
『出張お疲れー。来週もまたどっか行きたいなー。温泉とかどう?』
俺はニヤニヤしながら、すぐさま返信を打ち込んだ。
『いいよ。うちの嫁、ハンバーガー焼いてるのが幸せなんだとさ(笑)俺が経営してやってるから文句一つ言えないみたい。来週は少し遠出して、お前の好きな高級旅館でも予約してやるよ』
送信ボタンを押し、俺は満足げにソファの背もたれに深く体重を預けた。




