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第10話 トマトの仕分け

【紗枝視点】


 早朝の『|SunSunDinerサンサン・ダイナー』の厨房。

 まだ薄暗い中、冷たいステンレスの調理台の前に立ち、私はひたすら牛挽肉をこね続けていた。


 手のひらから伝わる冷たい肉の感触だけが、かろうじて私を現実世界に繋ぎ止めていた。


 先日、バックヤードの事務所で見つけた裏帳簿とシフト表の不気味な一致。

 視察という名の不倫旅行。


 渋谷莉乃。

 仲根涼子。

 杉浦桃華。


 夫が面接で採用した三人のパート従業員。


 その全員が、夫の……愛人。


 思考がそこに行き着くたびに、胃の底からせり上がってくる吐き気と、足元から崩れ落ちていくような強烈な絶望感に襲われる。


 考えちゃダメ。今はただ、手を動かすのよ……。


 パニックになりそうな精神を無理やり押さえつけるため、私はハンバーガーの仕込みに没頭した。肉をこね、空気を抜き、丸めて、叩きつける。


 パンッ、パンッ、パンッ。


 単調なリズムを繰り返すことで、脳内に渦巻くおぞましい事実から目を背けようとした。


 私が人生を懸けて守ってきた店は、彼女らの遊ぶ金を作るための小槌だったのか。

 私が寝る間も惜しんで身を粉にしている間、あの三人は順番に夫とベッドを共にし、私の作ったお金で豪遊していた。


「……さん」


 不意に、自分の口から乾いた声が漏れた。


「さん、さん、さん、さん、さん……」


 無意識のうちに、呟いていた。


 三。

 三人の女。

 サン、サン、サン、さわやかダイナー。


 呪いのように、その数字が脳内にこびりついて離れない。


 パンッ、パンッ、パンッ。


 リズムが狂い始める。気がつくと、私は成形したパティを、無意識に三枚重ねて鉄板に乗せようとしていた。


「っ!」


 ハッと我に返り、慌てて手を止める。

 分厚すぎる三枚重ねの肉の塊。こんなものを焼いても、中まで火が通るわけがない。慌てて肉を剥がそうとしたが、脂でくっついて醜くひしゃげてしまった。


「ああ、ダメ……何やってるの、私」


 震える手で乱れた肉の塊をボウルに戻す。

 息が荒い。心臓が、耳の奥でドクン、ドクンと嫌な音を立てて鳴っている。


 ふと横を見ると、準備していた特注のバンズも、なぜか横に三等分にスライスされていた。普通は上下の二つに切り分けるのに、私は無意識のうちに、バンズを三枚に切り刻んでいたのだ。


「……三……」


 背筋に悪寒が走る。

 自分が自分でなくなっていくような、恐ろしい感覚。狂気の淵に立たされている。一歩でも足を踏み外せば、二度と元の自分には戻れない。


 私はよろめくように厨房を離れ、バックヤードの更衣室に駆け込んだ。

 洗面台の蛇口をひねり、冷たい水を両手ですくって顔にぶつける。水滴が滴る顔を上げ、鏡の中の自分を見つめた。


 ひどい顔だ。


 目の下にはくっきりと隈ができ、肌は血の気を失って土気色をしている。そして何より、瞳の奥に宿る光が、鈍い。


「大丈夫……」


 小刻みに震える両手で、自分の頬をパチンと叩く。


「大丈夫よ、紗枝。ちょっと疲れてるだけ。寝不足なだけ。お店を開けなきゃ。お客様が待ってるんだから」


 鏡に向かって、無理やり口角を引き上げる。


 笑え。笑うのよ。笑いなさい!


 私が笑顔で美味しいハンバーガーを出せば、すべて上手くいくはず。今までだってそうしてきたじゃない。夫の言う通り、私には愛嬌が足りないのかもしれない。もっと笑顔で、もっと完璧に、もっと尽くせば、きっと夫も私の元へ帰ってくる。


 鏡の中で、私が笑う。


 頬の筋肉がひきつり、目は一切笑っていない。

 まるで、見開かれたまま硬直したような、不気味な満面の笑みが、そこにはあった。


「ふふっ……大丈夫。今日も、美味しいハンバーガーを作るんだから……」


 手が震えていることなど、もう気にならなかった。


 +++


 午前七時。

 勝手口の重い鉄扉が、控えめにノックされた。


「おはようございます、紗枝さん。朝採れトマト、お持ちしました」


 扉を開けると、そこには農家の大地だいち誠也せいや君が立っていた。いつものように、清潔な作業着姿で、ずっしりと重いコンテナを両手で抱えている。中には、朝露に濡れた真っ赤な極上のトマトがぎっしりと並んでいた。


「誠也君、おはようございます! 今日もすっごく美味しそうなトマトですね! ありがとうございます!」


 私は、鏡の前で作った「完璧な笑顔」を顔に貼り付けたまま、いつもより一オクターブ高い声で出迎えた。


 誠也君はコンテナを床に下ろし、顔を上げた瞬間、ピタリと動きを止めた。彼のまっすぐな視線が、私の顔をじっと見つめている。


「……紗枝さん?」

「はい? なんですか?」

「なんだか……ひどく顔色が悪いですよ。目の下も真っ黒だし……。もしかして、全然寝てないんじゃないですか?」


 実直な彼は、言葉を飾ることなく私の異変を指摘した。その声には、単なる取引先への気遣いを超えた、確かな心配の色が滲んでいた。


「えっ? やだなぁ、そんなことないですよぉ!」


 私はわざとらしく首を振り、練習した満面の笑みをさらに深めた。


「ちょっと、新しいレシピを考えるのに夢中になっちゃって、夜更かししちゃっただけです。ほら、私って料理のことになると周りが見えなくなっちゃうから! 全然、なんでもないですよ!」


「……そうですか。でも、無理はしないでください。紗枝さんが倒れたら、この店、回らなくなるんですから」


 誠也君は、少しだけ眉間を寄せ、納得がいかないような表情を浮かべた。相手の本質を見抜くという彼の目が、私の隠しきれない異常性を静かに探っているのがわかった。


「大丈夫ですってば! 私、こうやって厨房に立って、ハンバーガーを作っている時が一番幸せなんです! だから、ぜーんぜん疲れてなんかいません!」


 私が甲高い声で言い切ると、誠也君は小さくため息をついた。


「……わかりました。でも、本当に辛い時は休んでくださいね。それじゃあ、自分はこれで」


 誠也君は深くお辞儀をして、勝手口から出て行った。

 彼の背中が見えなくなった瞬間、私の顔から表情がすっと抜け落ちた。


「……三人……さん、さん……」


 再び口から漏れ出た言葉。

 足元にあるコンテナの中の極上トマト。

 私はゆっくりとしゃがみ込み、その赤い果実を両手で掬い上げた。


「……三個……三個じゃなきゃ、ダメ……」


 私は虚ろな目で呟きながら、コンテナのトマトを「三個ずつ」等間隔に分け始めた。


 さん、さん、さん、さん、さん。


 この数字に合わせなければ、何かが決定的に壊れてしまう。

 そんな強迫観念に急き立てられるように、私は薄暗い厨房で、ただひたすらにトマトを三個ずつ並べ続けた。

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