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没落寸前の男爵令嬢なのに、冷徹な美貌の公爵が我が家を買い取って私のすべては俺のものだと迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


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第8話「ランプの灯らない部屋」

 王宮から男爵邸への帰路は、行きよりもはるかに長く感じられた。

 馬車の揺れが胃をかき回し、幾度も込み上げてくる吐き気を必死に堪える。

 屋敷に到着し、重い玄関の扉を背中で閉めた瞬間、アリアは冷たい床板の上に崩れ落ちた。

 石造りの床の冷気がドレス越しに伝わり、熱を持った身体を少しずつ冷ましていく。

 荒い呼吸を整えながら、アリアは光の差し込まない暗い玄関ホールを見回した。

 ここに留まることは、もうできない。

 あの庭園でのセリウスの異常なまでの取り乱し方は、アリアの予想を遥かに超えていた。

 王女との婚約が発表された以上、彼が自分にかまう理由はどこにもないはずだ。

 それでも、彼は間違いなく自分の後を追ってくるだろう。

 もし彼がこの屋敷を訪れれば、今度こそ完全に逃げ場を失ってしまう。

 街道の橋の復旧を待つ一週間の猶予など、すでに残されてはいなかった。

 アリアは力の入らない足で立ち上がり、自室へと続く階段を駆け上がる。

 部屋の隅に置かれた小さな旅行鞄を掴み、机の前に座った。

 引き出しから安物の羊皮紙を取り出し、インク壺に羽ペンを深く浸す。

 せめて、彼を不必要に探させないための偽りの手紙を残さなければならない。

 ペン先が紙を擦る音が、静まり返った部屋に単調に響く。


『公爵閣下。突然の出立をお許しください』


 書き出した文字は、震える指先のせいで大きく歪んでいた。


『遠方の領地で、家庭教師としての職を得ました。もう王都に戻ることはありません』


 事実だけを簡潔に並べ、一切の感情を交えない冷たい文面を作る。


『王女殿下と共に、素晴らしい公爵家を築かれることを遠い空からお祈りしております』


 最後のひと筆を書き終えようとしたとき、視界がにじんで手元が見えなくなった。

 まばたきをした瞬間に落ちた雫がインクを弾き、文字を黒く汚してしまう。

 アリアは羊皮紙を丸めて床に捨て、新しい紙を取り出して再びペンを握った。

 インクが完全に乾くのを待つ間、アリアは窓の外の空を見上げた。

 太陽は沈み切り、王都の街は冷たい夜の闇に深く沈み込んでいる。

 手紙を綺麗に三つ折りにし、机の中央にそっと置いた。

 重い旅行鞄を肩に掛け、アリアは二度と戻らない自室の扉を静かに閉める。


 ◆ ◆ ◆


 夜の通りは静まり返り、冷たい風が容赦なく体温を奪っていった。

 街灯の乏しい火影を避けながら、下町の入り組んだ路地を足早に進む。

 目指すのは、王都の南門近くにある長距離輸送の中継所だった。

 正規の街道が崩落で塞がっていても、危険な山越えの迂回路を通る荷馬車なら深夜に出発しているはずだ。

 暗い路地の奥から聞こえる野犬の遠吠えに、アリアは肩をすくませて歩みを速める。

 中継所の広場には、深夜にもかかわらず幾つかの大型の荷馬車が停まっていた。

 泥にまみれた車体と、強い酒の匂いを漂わせる荒くれ者の御者たちがたき火を囲んでいる。

 アリアは最も早く出発しそうな馬車の持ち主を見つけ、鞄の奥底に隠していた硬貨を握りしめて交渉した。

 夜明け前に出発し、南の国境を越えるという荷馬車の荷台の隅に、わずかな座席を得る。

 案内された荷台の中は薄暗く、埃と獣の強い匂いが立ち込めていた。

 積み上げられた木箱の隙間に身を潜めるように座り、アリアは冷たい木の床の上で膝を抱え込む。

 粗末な外套で身体を包んでも、底冷えする寒さは薄い布地を抜けて骨まで染み込んできた。

 馬車の出発を待つ間、幌の隙間から王都の空を見上げる。

 星すら見えない真っ黒な空が、アリアのこれからの孤独な未来を象徴しているようだった。


『さようなら、セリウス』


 声に出すことなく呟いた言葉は、誰の耳にも届くことなく冷たい夜の闇に溶けて消えた。

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