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没落寸前の男爵令嬢なのに、冷徹な美貌の公爵が我が家を買い取って私のすべては俺のものだと迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


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第7話「ひび割れた仮面」

 大階段の中腹で、セリウスの足が止まっていた。

 周囲の貴族たちが異変に気づき、歓談の笑い声が不自然に途切れていく。

 セリウスは傍らに立つ王女に一瞥もくれることなく、白大理石の階段を駆け下り始めた。

 純白の軍靴が石板を激しく叩く硬質な音が、静まり返った庭園に響き渡る。

 金糸の肩章や胸元の勲章が激しく揺れ、金属同士がぶつかり合う冷たい音を立てていた。

 護衛の騎士たちが慌てて後を追うが、彼の速度には全く追いつけていない。

 人々が目を見開き、波が引くように左右へと道を譲っていく。

 高価なシルクのドレスの裾が踏まれる音や、息を呑む音だけが周囲を満たしていた。

 彼の視線の先にあるのは、樫の木の陰に立つアリアただ一人だ。

 逃げなければならないと頭ではわかっているのに、足が根を張ったように動かない。

 視界の中心に向かって真っ直ぐに突進してくる彼を、ただ待つことしかできなかった。

 数回の呼吸の間に、セリウスはアリアの目の前まで辿り着く。

 彼の広い肩が激しく上下し、荒い息遣いが開いた唇から漏れていた。

 撫でつけられていた銀の髪が乱れ、額には薄っすらと汗が浮いている。


「アリア」


 低くかすれた声で名前を呼ばれ、アリアの肩が大きく跳ねた。

 セリウスは迷うことなく手を伸ばし、アリアの細い腕をきつく掴む。

 厚い白い手袋越しでもわかるほどの強い力が、薄い若草色の布地に食い込んでいた。

 腕の骨が軋むほどの痛みに、アリアは顔を歪める。


「なぜ、あの箱を開けなかった。なぜこんな古いドレスを着ている」


 非難するような厳しい口調とは裏腹に、彼の瞳は矢を射抜かれた獣のように揺らいでいる。

 洗練された香水の匂いよりも、彼の身体から発せられる熱気の方が強く伝わってきた。

 周囲の貴族たちが、信じられないものを見るように遠巻きに二人を囲み始めている。

 扇の陰で交わされる囁き声が、次第に大きな波となって庭園全体に広がっていく。

 階段の上では、置き去りにされた王女が扇を閉じて冷ややかにこちらを見下ろしていた。

 アリアの胸の奥で、警鐘が狂ったように鳴り響く。

 次期国王とも目される王女を差し置いて、下級貴族の娘の腕を公衆の面前で掴むなど、あってはならないことだ。

 彼の築き上げてきた経歴と公爵家の名誉に、取り返しのつかない泥を塗ることになる。

 彼を止められるのは、今ここにいる自分しかいない。

 アリアは奥歯を噛み締め、掴まれた腕を力任せに振りほどいた。

 乾いた摩擦音が鳴り、セリウスの手が虚空に弾かれる。

 彼は呼吸を忘れ、信じられないものを見るようにアリアを見つめた。

 その痛ましい視線に耐えながら、アリアはドレスの裾をつまんで足を引き、優雅に膝を折る。

 幼い頃から叩き込まれてきた、下位貴族が上位貴族に向ける最も深く美しい礼だった。


「公爵閣下、本日は誠におめでとうございます」


 震えそうになる声を腹の底から押し出し、周囲の誰にでも聞こえるようにはっきりと告げた。


「王女殿下とのご婚約の発表、臣民の一人として心よりお慶び申し上げます」


 庭園の空気が、一瞬にして凍りついたように静まり返る。

 張り詰めた沈黙の後、遠巻きに見ていた貴族たちの間から、納得したような安堵の息が漏れ始めた。

 無礼な真似をした下級貴族の娘が、慌てて身の程を弁えて祝辞を述べている。

 周囲の目には、ただの忠誠の儀式にしか見えなかったはずだ。

 セリウスの顔から、一瞬にして血の気が引いていくのが見えた。

 彼の唇が微かに震え、何かを言いかけようと半開きになる。

 伸ばしかけた彼の手が、アリアの肩に触れる寸前で空気を掴んで止まった。

 アリアは彼に言葉を紡ぐ隙を与えず、再び深く頭を下げる。


「私はひどく体調が優れませんので、これにて失礼いたします」


 顔を伏せたまま言い放ち、素早く背を向けた。

 背後から名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、アリアは決して振り返らない。

 周囲の貴族たちが怪訝な顔で道を開け、出口への細い通路ができる。

 真昼の太陽の光が背中に突き刺さり、肌を焼くようにじりじりと焦がしていくのを感じた。

 重たい革靴を芝生に引きずりながら、アリアは王宮の鉄門を目指して無言で歩き続ける。


 ◆ ◆ ◆


 門を抜け、待機していた馬車に乗り込んだ瞬間、張り詰めていた糸が音を立てて切れた。

 視界が急激に歪み、両手で顔を覆うと、せき止めていた熱い雫が手のひらにあふれ出した。

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