第5話「途切れた道」
窓の外はまだ深い闇に包まれ、夜明け前の冷たい空気が部屋の隅々まで満ちている。
アリアは音を立てないようにベッドから抜け出し、冷え切った床板に素足を下ろした。
昨夜のうちに用意しておいた、厚手の簡素な旅装に着替える。
使い古した革の旅行鞄は、彼女の全財産を詰め込んでも驚くほど軽かった。
部屋を振り返ることはせず、静かに木製の扉を押し開ける。
廊下に漂う古い埃の匂いが、長年暮らしたこの家の記憶を呼び起こそうとしていた。
その誘惑を振り切るように、アリアは鞄の持ち手を握りしめて階段を降りる。
誰にも気づかれることなく、屋敷の裏口から外の通りへと抜け出した。
冷たい朝露を含んだ濃い霧が、王都の街並みを真っ白に覆い隠している。
湿った石畳を歩く自分の靴音だけが、静寂の中で不規則なリズムを刻んでいた。
荷物の重みが手のひらに食い込む感覚だけを頼りに、王都の外れにある馬車の停留所を目指す。
肺に吸い込む空気は氷のように冷たく、喉の奥を鋭く刺激して咳き込みそうになる。
停留所に近づくにつれ、馬のいななきや人々の荒々しい声が霧の向こうから聞こえてきた。
そこは商人や旅人が行き交う、王都で最も雑多で活気のある場所だった。
獣の汗の匂いと、雨に濡れた干し草の匂いが入り混じって鼻腔を突く。
アリアは外套のフードを目深に被り、切符を扱う小さな窓口の列に並んだ。
荒削りな木製のカウンターの向こうで、疲労をにじませた職員が書類の束を乱暴に扱っている。
「西の国境行きですか。本日の便は出せません」
アリアが差し出した行先の手引きを一瞥し、職員は感情のない声で告げた。
「出せないとは、どういうことでしょうか」
「昨日の大雨で、街道沿いの大きな石橋が崩落したんです」
職員の言葉に、アリアの思考が一瞬にして白く染まる。
目の前が真っ暗になり、呼吸が止まった。
「復旧には、どれくらいの時間がかかりますか」
「最低でも一週間は馬車を通せません。他の乗客にも別の経路を探すよう案内しています」
次の方、と冷たく告げられ、アリアは背後からの圧力に押し出されるように列から離れた。
ぬかるんだ地面の上に立ち尽くし、手の中の小さな手引きを見つめる。
一週間。
それほど長い時間を、あの屋敷でどうやってやり過ごせばいいのだろうか。
王女との婚約が間近に迫るセリウスの噂を耳にしながら、息を潜めて生きる日々。
想像するだけで、胸の奥を鋭い刃物でえぐられるような痛みが走った。
しかし、物理的な道が絶たれた以上、どうすることもできない。
アリアは冷たい泥を飲み込んだような胃の重さを抱え、再び霧の中を歩き出した。
◆ ◆ ◆
屋敷に戻った頃には空は白み始め、薄い陽射しが街の輪郭を照らし出していた。
裏口から静かに忍び込み、誰とも顔を合わせることなく自室へと戻る。
手にした鞄を床に置き、ベッドの端に力なく腰を下ろした。
全身の筋肉から芯が抜け落ち、抗いがたい疲労感が波のように押し寄せてくる。
旅立ちを目前にして断たれた道は、彼女の決意を無情にも引き延ばしていた。
◆ ◆ ◆
その日の午後、静まり返った屋敷を鋭いノックの音が叩いた。
アリアが玄関の重い扉を開けると、そこには王室の紋章を胸に掲げた使者が立っている。
「男爵家令嬢、アリア様に間違いありませんか」
使者は恭しく頭を下げ、金色の縁取りが施された分厚い封筒を差し出した。
深紅の封蝋には、王家を象徴する剣と公爵家を象徴する盾の二つの紋章が刻印されている。
受け取った手紙は確かな重みを持ち、上質な羊皮紙の滑らかな感触が指先に伝わった。
中に入っていたのは、三日後に王宮の庭園で開かれる茶会への公式な招待状だった。
雨季の終わりを祝うという名目の裏で、国を揺るがす重要な発表が行われると記されている。
宛名にはアリアの名前が単独で記され、辞退を一切許さない強い圧力を放っていた。
『彼からの、招待』
セリウスがわざわざ手配したのだと、直感的に理解する。
おそらく、あの夜会でドレスを汚された彼女を不憫に思い、公式の場で名誉を回復させようという彼なりの配慮なのだろう。
あるいは、王女との婚約を正式に発表する場へ、幼馴染として立ち会ってほしいという残酷な願いなのかもしれない。
どちらにせよ、下位の貴族であるアリアに王室主催の茶会を断る権利など存在しなかった。
招待状の端を握る指先に力が入り、厚い羊皮紙が微かに歪む。
逃げ出すことも許されず、彼の輝かしい未来を見届けることを強要される。
アリアは冷たい壁に背を預け、震える息を長く、ゆっくりと吐き出した。




