第4話「ビロードの箱」
翌日、分厚い雲の隙間から薄明るい陽射しが屋敷に差し込んでいた。
昨日の冷たい雨が嘘のように、空は穏やかな青色を取り戻している。
庭の草木は雨滴を残し、光を受けて微かに輝いていた。
アリアは旅立ちの準備を終え、がらんとした自室の窓辺に立っている。
荷物は小さな鞄一つに収まり、部屋の中はすっかり殺風景になっていた。
そこへ、屋敷の年老いたメイドが慌てた様子で階段を駆け上がってくる。
「お嬢様、公爵家からお届け物です」
メイドの背後には、二人の従者が巨大な箱を抱えて立っていた。
深い青色のベルベット生地で覆われた、見上げるほどに大きな箱。
蓋には銀色のリボンが掛けられ、公爵家の紋章が誇らしく輝いている。
狭く古びたアリアの部屋には不釣り合いなほどの存在感に、アリアは息を呑んだ。
従者たちが箱を机の上に置き、一礼して去っていく。
部屋には、微かに薔薇の香水の上品な香りが残されていた。
アリアは震える指先で、銀色のリボンに触れる。
滑らかな感触が、荒れた指の皮膚に引っかかった。
ゆっくりとリボンを解き、重い蓋を持ち上げる。
中には、幾重にも重なる真っ白な薄紙に包まれたドレスが入っていた。
朝の空を切り取ったかのような、淡く透き通るような水色の絹布。
胸元には細かい銀糸の刺繍が施され、光の加減で星屑のように瞬いている。
繊細なレースが幾重にも重ねられ、触れるのがためらわれるほどの美しさだった。
添えられていた封筒から、一枚の手紙を取り出す。
達筆なインクの文字は、間違いなくセリウスのものだった。
『先日の夜会の非礼を詫びる。君に似合う色を選んだ』
ただそれだけが記された短い文面を、アリアは何度も目で追う。
ドレスに触れようと手を伸ばしたが、寸前で動きを止めた。
水仕事でひび割れた自分の手が触れれば、この繊細な布地を傷つけてしまうかもしれない。
あまりにも美しく、あまりにも高価すぎる贈り物。
胸の奥で、冷たい泥水が渦を巻くような感覚が広がった。
『これは、手切れ金のようなものなのだろうか』
王女との婚約を控え、過去の哀れな幼馴染への最後の施し。
あの夜会でドレスを汚されたことへの、彼なりの不器用な償い。
そう考えれば、全てに説明がつく。
彼に悪意がないことはわかっているからこそ、その優しさがひどく残酷に感じられた。
アリアは手紙を綺麗に折りたたみ、ドレスの横にそっと戻す。
自分の居場所は、もうこの美しい布地の隣にはないのだ。
◆ ◆ ◆
午後になると、屋敷の前に再び見慣れた馬車が停まった。
玄関の扉が開く音とともに、重たい靴音が階段を上がってくる。
アリアは背筋を伸ばし、自室の扉を開けた彼を出迎えた。
今日のセリウスは、濃紺の正式な訪問着を身にまとっている。
銀の髪は乱れなく撫でつけられ、貴族らしい洗練された雰囲気を漂わせていた。
「急な訪問ですまない。荷物は届いたか」
セリウスの視線が、机の上の箱からアリアの顔へと移る。
その瞳の奥には、どこか期待するような色が揺らいで見えた。
アリアは深く腰を折り、最も丁寧な礼をとった。
「はい。過分なお心遣いをいただき、誠にありがとうございます」
抑揚のない平坦な声で答えると、セリウスの表情がわずかに強張る。
「あれは、次の夜会で君に着てほしくて選んだ。あの色が、一番君に似合うと思って」
彼が一歩近づく。
洗練された香水の香りと、彼自身の温かな体温が柔らかく鼻先を掠めた。
アリアは反射的に一歩後退し、見えない壁を作り出す。
「公爵閣下のお気持ちは大変嬉しく存じます。ですが、私のような者には身に余る品です」
「アリア、頼むからそんな話し方はやめてくれ」
彼の声に、痛みを堪えるような響きが混じる。
セリウスはたまらず手を伸ばし、アリアの頬に触れようとした。
大きな掌が視界の端に映り、アリアは思わず目を伏せる。
指先が頬を掠め、熱い感触が肌に焼き付いた。
火傷しそうなほどの熱に、胸の奥が締め付けられる。
この手にすがりつき、何もかも打ち明けてしまえたらどれほど楽だろう。
しかし、脳裏に王室の騎士の言葉が蘇る。
彼には、王女というふさわしい婚約者がいるのだ。
自分が彼の重荷になることだけは、絶対に避けなければならない。
アリアはゆっくりと目を開け、静かに彼の手を避けた。
「素晴らしいドレスです。我が家の家宝として、大切に保管させていただきます」
徹底して距離を置く言葉に、セリウスの手が空中で止まる。
彼は信じられないものを見るように、アリアをまばたきもせずに見つめた。
青い瞳に、深い絶望の色が広がっていくのがわかる。
それでも、アリアは微笑みを崩さなかった。
彼のためを思うなら、ここで冷たく突き放さなければならないのだ。
重い沈黙が、二人の間に横たわる。
やがて、セリウスはゆっくりと腕を下ろした。
「そうか。君がそう言うなら、好きにするといい」
低くかすれた声には、感情を押し殺したような響きがあった。
彼はそれ以上何も言わず、背を向けて扉へと向かう。
広々とした背中が遠ざかっていくのを、アリアはただ見送ることしかできない。
扉が重い音を立てて閉ざされ、彼の気配が消える。
アリアは膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
床板の冷たさが、ドレス越しに伝わってくる。
机の上に置かれたベルベットの箱を見上げる。
視界がにじみ、まばたきをすると熱い雫が手の甲に落ちた。
これでよかったのだと、自分に言い聞かせる。
明日の早朝、誰も起きる前にこの屋敷を出る。
彼との絆を断ち切るための準備は、すべて整っていた。




